激怒の理由
じっと見下ろしてくるばかりで――まあ、「水鏡」のせいで、目の動きなんて全く分からないのだが――何も言わないルシフェリアに、綾那はズズッと鼻を鳴らした。
「うぅっ――悪魔に……悪魔にするって、言ったのに、どうして、こんな――」
途切れ途切れの言葉を紡ぎ、血に濡れた両手で颯月の体を強く抱き締める。胸にぽっかりと開いた穴なんて、押さえるだけ無駄だ。そんな事よりも今は、彼の温もりを少しでも多く拾い集めたかった。
「せっかく神々しい姿を見せてあげたのに、僕には見向きもしないで颯月一直線だったね。本当にブレない子だなあ」
いつも通りの声だ。少女のような、声変わり前の少年のような、中性的な声。状況を説明するどころか呆れた様子で軽口を叩かれて、綾那はギュッと眉根を寄せた。
その時ふと視界の端に映ったルシフェリアの足元には、討伐対象であったはずのヴィレオールが転がったままだった。涙で歪む視界では、彼が息をしているかどうか分からない。しかし、まるで彼を守るような位置に立つルシフェリアを見ると、胸がざわついた。
(――まさか、最初から騙されていた? 颯月さんを悪魔にするなんて、嘘だった……? いや、私はともかく、颯月さんが簡単に騙されるはずない。でも、じゃあ……どうして)
回らない頭を必死に働かせて考えるが、答えなんて出る訳がない。泣きすぎた頭は重く、怠いばかりだ。そもそも決定的瞬間にルシフェリアが発光したせいで、颯月の身に一体何が起きたのか――綾那はひとつも把握できていない。
ルシフェリアは確かに、「ヴィレオールを楽にしてやって」と言いながら身を引いていた。しかし手元にマスクを用意していた時点で、颯月の不意を突く事は決まっていた――の、だろうか? 何も分からないし、信じられない。
「騙してなんかいないよ、本当に失礼な子だねえ。契約通り、颯月は悪魔にするよ」
「だ、だって――!」
――そう。綾那が言葉を発さずとも、この天使は人間の頭の中を丸裸にできるのだ。
天使の力だなんだと言っていたが、「擬態」というチート級のギフトについて聞かされた今ならば分かる。これは間違いなく、渚と同じ「鑑定」によるものだ。どうせ「表」に居た時分に、「鑑定」を管理する天使からコピー済みなのだろう。
「ただ、今のままじゃあ不都合があるから死んでもらうだけ」
「そんな話、聞いてない……!」
「うーん……そもそも聞かれてないし?」
――これだから、口先八丁の詐欺師と対峙するのは嫌なのだ。
綾那が分かりやすく顔を歪めれば、すぐさま「まあ、悪魔呼ばわりされるよりは、詐欺師の方が我慢できるけれど――」と不服そうな声が返ってくる。
ふてぶてしく腕組みをするルシフェリアの横には、いつの間にか痛ましいものを見るような目をしたヴェゼルが立っていた。当然、悪魔の彼も共犯――と言うと表現が悪いものの、颯月の身に何が起きるかは事前に分かっていたのだろう。
(そんな顔をして同情するくらいなら、どうして先に教えてくれなかったの――)
今抱えている感情が、怒りなのか悲しみなのか、綾那にはよく分からなかった。ただ、颯月は己の死さえも承諾したのか――それとも詳しい方法までは聞かされていなかったのか、彼の事ばかり考えてしまう。
死んでも悪魔として蘇るなら問題ないと、いとも簡単に了承したのだろうか。確かに綾那とて、颯月が颯月である限りなんの問題もないのだが――それにしたって、酷い状況である。
どうして誰も綾那に説明してくれなかったのか。こちらが何も訊ねないからと言って、こんな重大な話を秘匿していい理由にはならないのに。
「……君の知る颯月のまま、と言った覚えもないけれどねえ」
淡々と告げられた言葉に、綾那はヒュッと息を呑んだ。そうして腕に抱く男を見下ろせば、光を失いかけのオッドアイと目が合って喉を引きつらせる。
意味が分からない。陽香から散々「信じすぎるな」と言われていたが、もう本当に何も信じられない気持ちだ。死んだ颯月は一体どうなってしまうのだろう。もしや、彼の姿を借りただけの、全くの別人になってしまうのか?
(シアさん、ヴィレオールさんに向かって「消えてしまう」って……「次はイイコで幸せに」って言ってた)
まさかとは思うが、颯月の死体に記憶を消した悪魔ヴィレオールの魂を入れる――なんて、ぶっ飛んだ話なのか。それでは、死した颯月の魂はどこへ行ってしまうのだろう? 颯瑛は輝夜の魂について、「生まれ変わりなんてものはない」と断言していた。
人格も記憶も、何もかも消えてしまったら……そんな形だけの颯月が還って来たとしても、それはもう綾那の恋い慕う男ではない。
いくら宇宙一格好いい男だからと言っても、中身が伴っていなければ意味がないのに。
どうか否定して欲しいと願いながらルシフェリアを見上げたが、その口元は意味深に歪められているだけだ。否定も肯定もしてくれない。
「やめて……やめて、殺さないで……お願い、颯月さんを奪わないで――」
ようやく止まりかけていた涙がとめどなく溢れた。やっとの思いで言葉にできたのはこれだけで、あとはもうメソメソと泣くばかりだ。
やがて、力なく――それでも慈しむように頬を撫でていた颯月の手がぱたりと落ちた瞬間、綾那の喉から引き攣れた声が漏れた。無理やり絞り出された泣き声は、まるでガラスを引っ掻いた時の耳障りな音に似ている。
泣きながら血に染まった左手を見ると、紫色の魔石は真っ黒になっていた。どうやらドッキリでもなんでもなく、綾那の颯月はこの世から消えてしまったらしい。
(どうしてこんな、嬉しそうな顔をして死んだんだろう――私の反応を見て満足した……? どれだけ想われているのか確認できれば、それだけで良かった……?)
なんて酷い男だろうか。すぐさま綾那が後を追う事まで予測済みであるに違いない。その時ふと綾那は、「あぁ、だから、陽香達が怒ったんだ」と理解した。
今更ながら、颯月が人間を辞めるからと言って、陽香達がブチ切れる理由になるのか――ずっと不思議に思っていたのだ。
しかし、綾那が後追い自殺する予知まで込みで聞かされているとすれば、話は別だった。それは激怒するだろう。ルシフェリアが端を発した契約が原因で、四重奏が一人自殺するのだから。
「――君も殺してあげようか」
答えは分かり切っているくせに、白々しい。そんな思いを抱えながら綾那が頷くと、ドッと胸元に衝撃を感じて、途端に呼吸がしづらくなった。暑いのか寒いのかよく分からない感覚に陥りながら、颯月の隣に横たわる。
不思議と、ルシフェリアに対する恨み言は出てこなかった。身じろぎ一つしない最愛の遺体を眺めながら、なんとも言えない安心感を覚える。口をついたのは「ありがとう」という言葉だった。
(ああ……好き、ずっと見ていたいな――)
青白い肌。閉じられたままピクリとも動かない瞼。震えない睫毛。薄い唇は血で赤黒く汚れていて、相変わらず顔の右半分は刺青に覆われている。
――ひとつ残らず目に焼き付けて、彼の全てを連れて逝こう。颯月のカタチをしただけの悪魔なんて要らない。綾那は、綾那の颯月しか愛せないのだから。
そうして意識が途切れる寸前に聞こえてきたのは、まずルシフェリアのため息。次に、珍しく憂鬱そうな声色で紡がれたのは、「あーあ、全く。嫌な役を引き受けちゃったなあ」という言葉だった。




