慟哭
綾那の目には、颯月の他に何も映っていなかった。
何かを考える暇も、周囲の安全確認をする余裕もない。颯月を害したのがどこの誰だか、確かめなければ――なんて欠片も思わないほどに、正気を失っている。ただ一心不乱に、濃い血の匂いを漂わせながらグラリと体を傾かせる鎧の元へ駆け出していた。
この世の誰よりも大切で、愛しい者の名前を呼んだつもりだった。しかし綾那の口から溢れたのは、なんの意味も成さない悲鳴じみた音だけだ。
彼が床に叩きつけられる前になんとか抱き留めたものの、手足が震えて力が抜ける。
動揺から「怪力」さえ上手く発動できないのか、重たい鎧を抱えたままズルズルと床へ座り込んだ。
「――綾……」
弱々しく掠れた声を聞いた途端に、綾那の瞳からブワリと涙が溢れ出す。今は涙なんて拭っているような暇がない。綾那は滲んだままの視界で、赤黒い液体を流す紫紺の鎧を見渡した。
急所さえ外れていれば、致命傷でなければ、なんの問題もない――祈るような気持ちで患部を探したが、しかし鎧が砕けているのは、何度確認しても胸の中央であった。
颯月が呼吸する度に、泡立った血が溢れ出す。やがて魔法を維持できなくなったのか、砕けた胸元から順に「魔法鎧」が剥がれ落ちていく。
「あ――――あぁ、待って……待って、ダメ……」
――この出血量から見て、無意味だろう。それは分かっていたが、綾那は震える両手で颯月の胸元を強く押さえた。
(なんで……どうして?)
綾那の喉からは、まるで過呼吸でも起こしたかのように引き攣れた音がする。何か意味のある言葉を発したくても紡げなかった。
両手に触れる血液は熱くぬめっていたが、外気に触れると瞬く間に冷えていく。否が応でも、既に死のカウントダウンが始まっていると理解できてしまう。
(いやだ、死んじゃう、死……どうしよう、どうすれば――)
泣く暇があるなら、もっとしっかり止血するなりルシフェリアに助けを求めるなり、やれる事はいくらでもあったはずだ。けれど今にも事切れそうな旦那を前にして、ただでさえ考えなしの綾那の頭は完全に停止してしまっている。
まるで、見知らぬ土地で母親とはぐれた子供のように。悪さをした罰として、暗い蔵の中に閉じ込められた子供のように――年甲斐もなく、大声を上げて泣きじゃくる事しかできなかった。
そのまま何もできずにいると、涙で濡れた頬を微かな温もりが撫でて、焦点の定まっていない目を動かす。
頬を撫でるのは、颯月の手だ。その手を辿って彼の顔を見下ろせば、すっかり血の気の引いた青白い顔に行きついた。色を失った額に玉の汗が浮いているのを見て、綾那はヒックと喉を鳴らす。
(さすがに……致命傷を受ければ、冷や汗が出るんだ――)
この騎士服を着ている時に彼が汗を流すところなど、初めて見た。死にかけだからなのか、それとも胸を貫かれた事で服の魔法陣まで崩れたのだろうか。
どこからどう見ても現実逃避でしかないが、綾那はぼんやりとそんな事を考えた。
――と言うのも、目の前の光景が異常なモノであるとしか思えなかったのだ。現実味が一切感じられないとでも言おうか。
何故なら、今にも息絶えそうなはずなのに、颯月は綾那を見上げて陶酔するような表情を浮かべていたからだ。
綾那に向かって何か言葉を紡ごうと思ったのか、色のない唇が震える。しかし出たのは言葉ではなく熱い吐息で、その後に続いたのは濁った咳と血液だった。
これは明らかにしまいだ。何せ胸に風穴が開いているのだ、もう助からないだろう。
それなのに、どうして彼はこんなにも満ち足りた表情をして、綾那を見上げているのだろうか。どうして音もなく震える唇は、「かわいい」なんて場違いな動きをするのだろうか。
――実は、タチの悪いドッキリか何かなのだろうか?
この後、王都に残して来たはずの陽香達が看板とカメラを手に飛び出して来るのではないか? もしそんな事をされたら、さしもの綾那も手加減なしの「怪力」を使って大暴れするだろう。それぐらいして当然だ。
そうして混乱する綾那の頭上に、影がかかった。呆然としたままゆっくりと顔を上げれば、「水鏡」のマスクを付けた見知らぬ男がこちらを覗き込んでいる。いや、男ではないのかも知れない。だからと言って女でもないのだろう。
とにかく白い――それが綾那の感想だった。
まるでギリシャ神話に出てくる神々が身に着けているような、真っ白いフレンチリネンの服。長い下衣のせいで足は見えないが、すらりと伸びた腕はしなやかで筋肉が目立たない。
背は高くスタイルも良いが、男性的ではない。しかし胸も尻もなく真っ平で、決して女性的でもない。
床につくほど伸びた長髪もまた真っ白で、肌も眉毛も白い。こうして見ると、やはり悪魔ではなく天使なのだろう。言動はどうしたって悪魔のソレだが。
唯一露になっている口元は弧を描いていて、よくも人をこんな目に遭わせておいて笑えるなと思う。
綾那にとっては初めて見る姿であったが――見覚えのある「水鏡」のマスクも相まって――わざわざ聞いて確認せずとも分かった。この男だか女だか分からない謎の人物こそが、ルシフェリアの真の姿である――と。




