下水道を抜けて
我慢できない程ではないと言ったって、数十分も下水道の中を進んでいれば、段々と鼻が利かなくなってくる。特に、ギフト「追跡者」もちの綾那は後遺症に悩まされそうだ。嗅覚が完全回復するまで、人よりも長い時間を要する事だろう。
ちなみに、ここ最近の綾那お気に入りの香りは――わざわざ言及するまでもないが――当然のごとく颯月だ。
婚前は、無意識下で金木犀の香りを纏う桃華ばかり「追跡者」の目標物として設定してしまっていた。しかしそれも、愛しの颯月と今まで以上に近い距離で過ごすようになれば変わってくる。
彼の石鹸混じりの爽やかな香りは以前から好ましかったが、近付けば近付くほど、今までに気付かなかった深い香りを感じられるものだ。
(でもこの調子じゃあ、例え下水道を抜けても……もし颯月さんとはぐれたら、位置を探せなくなっちゃうだろうな。絶対に見失わないようにしないと)
まあ正直、例え離れ離れになったところで、最悪ルシフェリアさえ居ればどうにかなるだろう。しかし、あまりこの天使に依存して甘えるのはよくない。過去にも「どうして君はそんな甘えん坊さんなの」とかなんとか、苦言を呈された事があるからだ。
「さて、そろそろ目的地も近いし、「隠蔽」を使おうかな。下水道に居ても僕の存在感は眩しすぎるし、悪魔憑きの膨大な魔力は目立ちすぎる。同族の悪魔が近付いてくるのも、今となってはヴィレオールに不信感しか与えないだろうし」
「シアさん、「隠蔽」も使えるんですか? ――あ、そうか、「表」のギフト全部扱えるんでしたっけ」
「そうだよ。僕のもつ「擬態」があれば、全部コピーできちゃうからね」
ルシフェリアは「やっぱり、僕ってば凄い天使だなあ」と、自己陶酔した様子で一人頷いている。
ギフト「隠蔽」とは、陽香のもつ「隠密」に似た能力だ。陽香の「隠密」は、彼女自身の存在感を極限まで薄れさせる力。足音、息遣いや体温なども感知できなくなるが、使用者の体に誰かが触れた途端に、隠密が解かれて視認できるようになる――というものだ。
それと似た「隠蔽」には、発動者が指定した対象物全てを周囲の環境に溶け込ませて、見つかりにくくするという効果がある。これは、「表」の神々にギフトの力を四割ほどまで抑制された人間が発動する際には効果範囲が狭く、物には効果があっても人には上手くかけられないという微妙なものだった。
このギフトを発動されると、不思議と効果範囲にあるものを正しく認識できなくなる。例えば机の上にリンゴが置いてあっても、何故かそれが視界に入らなくなってしまうのだ。
一種の、洗脳や軽い催眠術に近いだろうか? 対象物が人でも同様で、何かがそこに存在するのは分かるのだが、それが判別しづらくなってしまう。ただし無機物ほど効果がないので、動けば動くほど認識しやすくなる。
泥棒や盗撮をするぐらいしか使い道がないのでは? もしくは、魔獣から身を隠すのには役立つかも? などと揶揄されていた、ハズレギフトのひとつである。
しかしそれも、ギフト本来の力をフルで発揮できるらしいルシフェリアが発動すれば、違うはずだ。この場に居る者全員の存在感を、綺麗サッパリ隠蔽してしまえるに違いない。
「少し気持ちが悪いかも知れないけれど、作戦の成功率を高めるためだから我慢してね」
ルシフェリアが小さな指をパチンと鳴らせば、その音は管内にやたらと大きく響いた。続けて、目に見えぬ分厚い膜のようなものが、体中にモッタリと纏わりつく妙な感覚に襲われる。
初めは言い知れない違和感と息苦しさを覚えて落ち着かなかったが、しかし数歩足を進めれば、あっという間に綾那の体に馴染んだ。
「――なんかコレ、体が重くなった感じがして気持ち悪い……変なの、本当にこんなので兄貴にバレなくなるのかよ? ちょっと、魔法封じの感覚と似てるような気がする……」
すぐさま「隠蔽」が馴染んだ綾那とは違って、どうもヴェゼルはまだ酷い違和感に襲われているようだ。ふと横を見やれば、颯月も僅かに眉根を寄せながら歩いている。そもそもリベリアスの人間は、「表」のギフトに馴染みがないせいだろうか。
綾那が魔法やマナの恩恵を受ける度に不思議な違和感を覚えるのと同じで、やはり元々己の暮らす世界にない力は受け入れがたいものなのか。
どちらも不思議な現象を引き起こす力だというのに、似ているように思えても、その性質は水と油なのかも知れない。
(でも、こっちの人って全員シアさんの「擬態」――ギフトが素になって作られているんだよね? そんなに単純な話でもないのか、それとも「ギフトまぜるな、キケン」って事?)
こちらの人間が綾那の「解毒」や渚の「鑑定」を受けても問題なさそうに見えたが、やはり発動者の力が強すぎるせいだろうか。
綾那は直接目にした訳ではないが、神の力を大きく受け継いでいるらしいアリスの「偶像」は、颯月達になかなかの不快感を与えたらしいし――。
「よぅし、それじゃあこのまま油断せずに行くよ! ヴィレオールの鎮圧は颯月に任せたからね? ――できるだけ、ひと思いにやってあげてよ」
「心配せずとも、他人を痛めつけて喜ぶような趣味はない」
「……ええ、本気? 綾那を泣かせて喜ぶような子なのに?」
ルシフェリアの指摘に、颯月は何も答えなかった。ただ前を見据えて歩くだけの彼に、正直者と言うべきか、嘘を付けない性格と言うべきか――。
そこから更に歩くと、やがてトンネルのような下水道の終わりを示す、分厚い扉に行き当たった。ハンドルのような取手で硬く閉じられたそれは、恐らく下水の氾濫を防ぐための防水扉だろう。
重く分厚い扉を開けて通れば、今までとは様相の違う、広く明るい場所へ辿り着いた。ようやく下水処理場まで繋がる道に出られたらしい。
しかし、ルシフェリアは「上の処理場には用がないから、あっちだよ」と言って、なんの変哲もない壁を指差す。
もしや「水鏡」に近い魔法でも掛けられているのかと思ったが、試しに指示された壁を手の平で押さえると、まるでからくり屋敷の回転扉のようにぐるりと回った。
「魔法じゃなくて、仕掛け付きの隠し扉ですか――」
「あの子は、色んなものをつくるのが好きだからね。さあ、行こうか」
ルシフェリアは小さく肩を竦めると、一行をヴィレオールの潜伏している所まで導き始めた。




