「表」で起きた事
ひとしきり笑った美果は、目尻に浮いた涙を指先で拭ったのち口を開いた。
「いやあ……なんだ、帰って来ないから心配してたんだけどさ。こっちで幸せに暮らしてたんだねえ、皆」
「幸せかどうかは、まだアレなんですけど……まあ、少なくとも綾は」
憮然とした表情で告げる渚に、美果は「そうだろうねえ、渚は複雑だよねえ」と笑う。そうして、壁に相対したままスクワットを続ける綾那の背を一瞥してから、「ふーん」と鼻を鳴らした。
「とにかく私は、綾那が留守電に残したメッセージを頼りにここまで来ただけ。「転移」の名前が出た時点で、「表」の神――いや、天使が関わっている事は疑いようがなかったし……でも雲隠れしていた「転移」のバカを探し出すのに、少し時間がかかってね。結局、私を「奈落の底」まで「転移」させるのに、五か月もかかっちゃったよ」
美果曰く、「転移」のギフトを管理する天使とルシフェリアの不仲は、天使の間では周知の事実であるとの事だ。「転移」の天使は、過去にも度々「奈落の底」へ人やらモノやら送り込んでは、ルシフェリアの仕事を増やしていた。
ルシフェリアは何よりも自身の箱庭を汚される事を嫌っていて、「表」の人間はもちろん、「表」の科学発明品やエネルギー資源を送り込まれると、すぐさま「転移」で送り返していたらしい。
「奈落の底」はマナと魔法で成り立つ世界だ、科学は必要ない。きっと、住人にとって余計な科学発明品を与えるのも、環境を汚す原因になるエネルギー資源――化石燃料を目に触れさせるのも、嫌だったのだろう。
しかし今回は、今までとは勝手が違う。
四重奏と複数の「転移」もちが「奈落の底」へ飛んできた時、ルシフェリアは反抗期真っ盛りの悪魔に手を焼き、萎えていた。壊れつつある世界を修復するだけの気力を失い、「転移」を自由に使えるだけの力を失い、「もう潰れるなら潰れるで、このまま終わりで良いかもな」なんて自暴自棄になっていたのだ。
そんな時に綾那と出会い、その先行き――綾那の存在がリベリアスに与える、可能性を垣間見た。
するとルシフェリアは「これも何かの縁だし」と考えを改めて、世界を修復する方向で動き出したのである。だからこそ、四重奏をすぐさま「転移」で「表」へ送り返す事はしなかったのだ。
――更に言えば、「表」でも今までとは違う事が起きていたらしい。
「転移」の天使は、とにかく「奈落の底」へ何かを送り込めればそれで良かったのだ。全ては、ルシフェリアに対するただの嫌がらせなのだから。
だからこそ、「転移の本当の使い方を教えてやるぞ! お前らが力を合わせて「奈落の底」に人を飛ばしてしまえば、誰にも邪魔される事なくモノにできるぞ!」なんて唆して弄ぶための「転移」もちの人間は、いつも無作為に選ばれる。
その無作為に選ばれた「転移」もちの人間が、よりによって美果の子――アリスをターゲットにしてしまったのだ。「転移」と同じく天使らしい、美果の子を。
出自についての詳細な説明は省かれたが、とにかく美果は美果なりにアリスを可愛がっていたらしい。母だと打ち明けられた事は一度もなかったが、四重奏の中でも特に目をかけられていたのは間違いない。
確かに言われてみれば、「神子は何かと危険な目に遭うのだから、自衛できるだけの体術を身に着けなさい」と厳しく訓練されていたのは、アリスを除いた三人だけだった。
アリスに荒事は向いていないから、教えても無駄。他三人が守ればそれで良いではないかと、今思えば明らかに「贔屓では?」と首を傾げたくなるような主張をしていた。その主張を聞いても馬鹿正直に「確かに!」なんて納得していたのも、やはり洗脳なのだろうか。
とにかく、美果は可愛い我が子と――アリスと同等に目をかけていた四重奏まで「転移」された事に、「表」で大層キレ散らかしたそうだ。
他の天使をひっ捕まえては「転移」の居場所を訊ね、「表」の世界中を探し回ったたらしい。そうしてやっとの思いで探し出した諸悪の根源を力で強引にねじ伏せると、その天使の力で「奈落の底」まで転移してきた――と言う訳だ。
もちろん、四重奏を見つけたらなんとかして連絡するから、その時は問答無用で「表」に戻すようにと強く言い含めて。
美果とて天使なので、「転移」の力はもっているが――所詮五割止まりだ。さすがに「表」から「奈落の底」へ移動するのは、五割程度の力では不可能らしい。
その点「転移」を管理する天使ならば全力を発揮できるため、たった一人の力だけで可能なのだという。
つまり、それと同水準の能力を扱えるルシフェリアもまた、たった一人でモノや人を「表」へ飛ばせるという事だ。
「でも、仮に「表」へ帰ったとしても、私達は――」
伏目がちになった渚が呟けば、美果は頷いた。
「そうだね。知ってはいけない事を知った訳だから、ギフトを暴走させられて魔獣になるんじゃないかな。だから私が迎えに来たんだよ、記憶を弄ってあげるしかないと思って」
「やっぱり、そうなるんですね」
「……それに、こっちの天使様は何をしてるのかなって、気になったから。いつもはすぐに送り返して来るのに、今回ばかりは誰も――何も返ってこなかったからね」
美果は目を細めて笑いながら、颯月の腕の中に居るルシフェリアを見やった。ルシフェリアは辟易した様子で、「僕には僕の都合ってモンがあるんだ」とだけ答えた。




