四重奏の師匠
アリスに招かれた客間は、五十平米ほどあるゆったりとした空間だった。
大人三、四人が寛げそうな大きさのソファがいくつも配置されているし、床にはフッカフカの絨毯が敷き詰められていて――空調の他に暖炉まである。
そのソファの一つ、入り口に相対する位置に悠々と腰掛けているのが、四重奏の師匠兼保護者だ。
背中の中ほどまで伸びた髪を、ポニーテールにまとめた女性。瞳の色はアリスと同じ碧眼。元は金髪なのだが、恐らく「奈落の底」で忌避される事を熟知しているのだろう。どういう原理なのかは謎だが、黒髪になっている。
妙齢の女性に年齢を聞くなんて失礼に当たるだろうと、今まで確認した事がなかったのだが――見た目年齢は二十代後半から、三十代前半。
今になって思えば、この人物は綾那が出会った当初から一切老けていない。単に童顔というか、年齢が顔に出にくいだけだろうと深く気にしていなかったのだ。美意識の塊のような女性だったため、尚更。
もしかすると、この「何年経っても姿が変わっていない」という事に対する当たり前の違和感さえも、洗脳で抱かぬようにされていたのだろうか?
あまり物事に頓着しない綾那だけならばまだしも、四重奏の他のメンバーまでもが、師について「全く老けない事」に疑問を呈していなかった。
(母子と聞くと、確かに似ているような気もしてくるし……)
改めてアリスと師を見比べれば――アリスの厚化粧のせいで比較しづらいが――精巧な人形のように整った顔の造形も、金髪碧眼も、癖ひとつないストレートヘアーまで同じだ。
とは言え、師の事は今までずっと天使や神などではなく、自分達と同じ『神子』だという認識だった。
神子は容姿端麗なもの、派手な色彩をもつものとして知られている。神子の子供まで神子になるのは稀だと言うし、例え似ている事に気付いたところで、「でもまあ、同じ神子だしな」ぐらいで終わっていただろう。
くわえて、神子の中でも金髪碧眼はただでさえ数が多い。日本以外に目を向ければ、ただの一般人でも金髪碧眼の人間はごまんと居る。
(でも、神子じゃないし……そもそも人間でもないんだよね――で、アリスの親……父親は誰なんだろう?)
綾那は、およそ半年振りの師をポケーッと見ながら思考に耽った。軽く現実逃避していたのかも知れない。
すると、真正面に座した師の、どこか冷たさを感じる青色の目が綾那を捉えた。そして形のいい唇、その端がクッと引き上げられたのを見た途端に、綾那はまるで蛇に睨まれた蛙のような心境に陥る。
「――綾那」
ただ名前を呼ばれただけ。たったそれだけで、綾那は走馬灯を見たような気がした。それぐらい、師から与えられたトラウマは深刻なのだ。
綾那は腕に抱いていたルシフェリアを、隣へ立つ颯月に手早く渡した。そうして機敏な動きで数歩前に躍り出ると、フカフカの絨毯の上ですぐさま土下座をする。
「ごっ、ごめんなさい! すみません! さっ……三キロです! 三キロ太りました! 本当にすみませんでした、すぐに戻します、許してください――!!」
床に額を擦りつける綾那を見て、アリスと渚は「ああ……」と、ため息だかなんだか、よく分からない声を漏らした。
綾那がパンパンに太っていた頃は、訓練の度にこうして師に土下座をしていたのだ。すっかり見慣れた――というか、懐かしいやりとりを見て、感慨深いとも言えるだろう。
しかし、ただでさえ太めが好きな颯月と白虎は、「この体形で「太った」なんて、冗談じゃない。まだまだ足りない」とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「いやあ……別に私、怒ってないよ? 相変わらず可愛いと思うし――ただ、随分と着膨れてるのは少し気になるかなあ。まあ、寒い地方だし仕方がな――」
「ちちち違います、服で隠そうなんて、そんな卑怯な真似は、ひとつも! ……ぜっ、全部脱ぎます!! だから破かないでください!!!」
「綾那、全裸はやめなさい!」
綾那は師が言い終わる前に立ち上がると、コートを脱ぎ捨ててその下に着ているニットまで脱ごうと腹から捲り上げた。それをすかさずアリスが止めて、渚が「トラは廊下で待ってて!」と白虎の華奢な背中を蹴り飛ばす。
すっかり錯乱した綾那と、それを落ち着かせようと宥めるアリスと渚。
綾那は無意識の内に「怪力」のレベル1だか2だかを発動してしまったようで、二人がかりでも止められてもほとんど意味を成していない。
師からすればいつもの光景。颯月からすれば「複雑だが、まあ、眼福だし良いか」。ルシフェリアは我関せず。
四重奏――いや、陽香を抜いた三重奏が落ち着くまでの間、室内はしばらく騒然としていた。
◆
やがて落ち着きを取り戻した綾那は、師より「怒ってないけど、でも確かに、さっき見た感じだとお腹が緩んでる気がする。「怪力」レベル3を維持したまま、スクワット三百回。始め」の言葉を受けて――指示通り真白に輝く篭手を嵌めたまま、壁に向かってスクワットしている。
恐らくコレが終わる頃には汗だくで干からびているだろうし、その場で酷い筋肉痛に襲われて、一歩も動けなくなる事だろう。
「ええと……とりあえず、師匠がリベリアスまでやって来た目的を教えていただけますか?」
渚は「綾はあんな感じですけど、きっと聞いてると思います」と付け足して、自身の額に浮いた汗を手の甲で拭う。綾那が散々暴れたため、渚もアリスも既に疲労困憊なのだ。
「目的も何も、君達が私の留守電にメッセージを残したんじゃない。「家とメンバーが奈落の底に「転移」された」って――まあ、迎えに来るまで予定よりもずっと時間がかかったけれど」
「迎え……」
「――というか、そっちの男の子の事は紹介してくれないの?」
師が顎をしゃくって示したのは、ルシフェリアを抱く颯月だ。渚は何事か逡巡したのち、渋々と言った様子で口を開く。
「この方は颯月サンです。ついこの間、綾の旦那になりました」
「……旦那。へえ、そんな事が? それは凄いな」
「颯月サン、こちらは私達の保護者であり師でもある、美果さんです」
「保護者と言う事は、綾にとって親のようなものか? お初にお目にかかる――と、丁寧に挨拶したいところなんだが……「迎え」と言われると、あまり歓迎できそうにない」
「あと、綾を骨にしようとするところからして、俺とは趣味が合わん」と僅かに眉根を寄せた颯月を見て、師――美果は目を丸めたのち、おかしそうに笑った。




