惚気と管理
綾那は、ただ無言で震えながら颯月の後をついて歩いた。「破かれる」という言葉を発して以来、ひと言も喋らなくなったまま。
ずっと青白い顔をして、涙目になって、寒さとは全く関係ない理由で震えていて。その腕に抱かれたルシフェリアまで連動して震えるハメになり、幼女はなんとも言えない複雑な表情で綾那を見上げていてる。
――とは言え、震えから生じる摩擦のお陰で、雪原の上を歩いていても温かそうだ。果たして抱かれ心地が良いかどうかは、甚だ疑問であるが。
そんな二人を見ながら、陽香は半目になって肩を竦めた。
「いや、雪国で厚着してるからそう見えるだけかと思ってたけどよ……やっぱアーニャ、ちょっと見ない内に太ってるよな?」
「――バカも休み休み言え、ひとつも太ってない。俺の妻に妙な言いがかりをつけるのは辞めろ、訴えるぞ」
綾那の尋常ではない様子に困惑しながらも、しかし颯月はすぐさま訂正した。陽香は「こいつら、少し目を離した隙に入籍していやがる……」とぼやいき、細い息を吐いている。
いや、訂正も何も、事実綾那は太ったのだ。四重奏の師と陽香から命じられていたのは、「決してベストな体形を崩さない」である。それは太るのはもちろん、痩せるのもダメなのだ。
綾那は颯月と籍を入れてから、あっと言う間にベスト体重を三キロオーバーしてしまった。しかし、大事なのは結局数字ではなく見た目なので、体重の増減ぐらいは大した問題にならない。
(でも今、明らかに『見た目』が変わってる……)
綾那はフラフラと歩きながら、足元にぶ厚く降り積もる雪を焦点の合っていない目で見つめた。
体重の変化が見た目にまで影響を及ぼしているのは、陽香に「太ったよな」と見咎められた事からして、まず間違いない。ひと月以上離れていても――いや、離れていたからこそ、余計に綾那の変化が分かりやすかったのだろうか。
とすれば、かれこれ半年以上離れ離れになっている師と再会した時どうなるか。それは、火を見るよりも明らかだった。
何故「奈落の底」に四重奏の師が現れたのか、考えたところで綾那には全く分からない。全く分からないが――再会すればこの体形の変化に気付いて、怒るか破くかするはずだ。それだけは分かる。
「いいか、陽香。綾はな、アンタと違って背丈があるんだ」
「おうおうおう、何いきなりディスってくれてんだよ」
左目を眇めながら言う颯月に、陽香はこめかみに青筋を立てた。しかし彼は全く意に介していない様子で続ける。
「168センチもあるんだ、適性体重で言えば、62キロぐらいのはず――だって言うのに、綾は「自分にとっては53キロがベストだ」と言って譲らん。俺は愛する妻の体調と健康が心配なんだ」
そこで一旦言葉を区切った颯月は、チラと綾那を見て「分析」と呟いた。
「ああ、もう――ホラ見ろ。創造神が「転移」を失敗したせいで、55キロまで痩せちまった、どうしてくれるんだ。ほんの少し目を離しただけで、綾はすぐに痩せようとする」
「せっかく56キロまで育てたのに」「今朝は確かに56キロだったんだ」と言って苦悶の表情を浮かべる颯月に、陽香は「颯さマグロお前、大概にしとけって……普通に怖ぇよ」と、淡々と突っ込みを入れた。
恐らく先ほどの眷属マラソンで、水分なり脂肪なりを失ったのだろう。ただ走るだけならまだしも、綾那は「怪力」まで使用していたのだから。
(師匠に会う前に、今から「怪力」でなんとか――できないよね……!)
いくら「怪力」を使ったチートダイエット法があるとは言え、さすがに短期間で体形を変えることは不可能だ。少なくとも数日から一、二週間は必要になる。
ギフトを使えば痩せるというのは、ただ単にカロリーを消費しているだけに過ぎない。高負荷な全身運動を早送りで行っているようなものだ。つまり、筋トレを超時短できるというだけ。毎日コツコツ、摂取したカロリーと帳尻合わせするように発動してこそ初めて、体形維持に役立つギフトなのだ。
太ったからと言って、胸と尻だけ削がずに残して、他の部位だけ鍛えて、腹筋が割れ過ぎないよう注意して――なんて、人体の構造を秒で自由にできるような万能ギフトではない。
「せめて60キロくらいにはさせてくれ。アンタは全く分かってない……よく見ろ、以前にも増して天使だろう? 日に日に可愛くなって目のやり場に困る」
「うるせえぞ。――とにかく、なんでこっちに師匠が居るのか分かんねえけどさ……分かってねえのは、颯様の方だからな」
颯月は不可解そうに首を傾げて、陽香に続きを促した。
「正妃の姉さんに対するトラウマだらけの颯様と同じで、アーニャにだってトラウマのひとつぐらいあるって事!」
「……それが、体形だって言うのか? なんでそうなるんだ、過去体形が原因で何かあったのか」
陽香は逡巡したのち、「師匠が出てきたからには、ありのまま伝えておかないとまずい」と判断したのか――綾那に向かって、「話しておいた方が良いだろ?」と確認する。
正直、綾那は複雑な気持ちだった。しかし、太っていた過去を颯月に知られる事よりも、やはり師に破かれる方が怖かったので頷いた。
ふと綾那が顔を上げれば、遠くの方に真っ白い外壁に囲まれた何かが見える。あれがアクアオーラだろうか――つまりあそこには、アリスや渚と共に師まで待ち構えているという事だ。
(気が重い――)
何から何まで気が重い。隣で、自身の黒歴史とも言える肥満時代を語られている事も含めて。綾那は遠い目をしながら、腕の中のルシフェリアを抱え直したのであった。




