本当の蜜月
際どい表現がございます。ご注意ください。
読み飛ばしてしまっても話の繋がりに問題はありません。
――ぶ厚いカーテンの隙間から、外の光が差し込んでいる。閉じた瞼越しにそれを感じた綾那は、僅かに首を竦めた。まだ、ひとつも寝足りないのだ。
深く沈んでいた意識が浮上して、綾那は薄手のシーツを手繰り寄せると頭から被った。布の擦れる音を耳にしながら、体の異常をひとつひとつ確認する。
心地よいような、しんどいような全身の倦怠感。ところどころ熱を持った体。股関節の疲労と痛み。腰の鈍痛、下腹部の違和感。あとは――喉の痛み。
(うーん。そうか、そうだよねえ……)
綾那は一人、納得した。
ここ二年ほど異性交遊を禁じられていたとは言え、以前は綾那も好き放題していたのだ。いや、好き放題と言うと語弊がある。好きな相手に尽くし放題だった――が正しいか。
もちろん生娘ではないし、それなりの経験をしてきた。そもそも、伊達に『お色気担当大臣』を任されていないのだ。付き合う男に求められるまま、色んな事に応じて来た。
だから、一般的な女性よりほんの少しだけ男の喜ばせ方を知っていると言う――人に自慢するにはあまりにもアレだが、とにかく、そんな自負があった。
しかし、ふと思い返すと彼は――颯月は、金で身請けした本職のプロばかり相手にして来た男だ。
そんなプロ相手に鍛え上げられた手練手管は、綾那にはどうする事もできなかった。確か昨夜、二十時過ぎぐらいに颯月の私室へ辿り着いて――そこから、どうしたんだったか。
途中何度か休憩を挟みながら、そして何度か意識を飛ばしながら――必死に颯月にしがみついて、気付けば外が明るくなっていた事だけは覚えている。
颯月はそもそもショートスリーパーで、まとまった睡眠を必要としない。しかも、十年以上まともな休暇を取らずに働き続けるマグロ。
――そう、それはそうだ。彼の体力が無尽蔵である事は、とっくに分かっていた事だ。そして、婚前交渉禁止の彼を散々煽って来た自覚もある。
ただ、色々な事が綾那の予想を超えて来ただけの話だ。全身の怠さが気恥ずかしいような、幸せで仕方がないような、とにかく複雑である。
(今、何時だろう? 顔を上げて時計を見るのも億劫……)
ベッドの上でもぞりと身じろいだものの、やはり体中が怠くて動きを止める。別に急ぎの仕事がある訳じゃないし、何時だろうが構わない。恐らく昼過ぎくらいだろう。
綾那はシーツに包まれたまま重い瞼をこじ開けて、そっと自分の隣へ手を伸ばした。
今ベッドには綾那一人しか居ないが、ほんの少しだけ、まだ颯月の体温が残っている。しかし、人の気配も物音もしない。さすがはマグロだ――事後新婚の妻と睦み合う事よりも、仕事を選んだらしい。
恐らく先に目覚めて、そのまま執務室へ行ってしまったのだろう。綾那を起こさなかったのは、昨夜の無理を労るためか。
(――服、私が着せたかったのに)
正妃の教育の弊害で――脱ぐ事はできても――人の手を借りなければ服を着られない颯月。綾那は、彼と結婚したら靴下まで履かせてやりたいと思っていたのだ。しかし、初日から機会を逃してしまった。
一人で、一体どうやって着替えたのだろう。まさかこの場に竜禅を呼び寄せたのだろうか?
――いや、なんとなくだが、それだけはない気がする。
あの颯月が、裸の綾那が眠るこの場所に他の男を呼び寄せるとは思えない。綾那だって逆の立場ならば、誰一人として部屋に入れたくないし、見せたくない。
(寝足りないのは確かだけど、でも、まだ颯月さんと一緒に居たかった)
颯月の肢体は、それはもう素晴らしいものだった。
分厚い筋肉に覆われた体は逞しく、無駄なぜい肉がひとつもついていなかった。そして何より、ずっと楽しみにしていた右半身の刺青と言ったら――筆舌に尽くしがたいものがある。綾那にとっては、最早美術工芸品の領域であった。
(寂しい……あとお腹空いた。だけど動きたくない)
寂しいなら、颯月に会いに執務室へ行けば良い。空腹ならば食堂へ行けば良い。それは分かるが、あまりにも体が怠い。
綾那は小さく息を吐き出して、シーツからもぞりと頭を出した。
「――綾?」
「ん、え? あれっ……そ、颯月さん、いらっしゃったんですか?」
これでもかと掠れた綾那の声を聞いて、颯月はどこか気まずげな表情を浮かべた。
今まで物音一つなく気配もしなかったのに、見れば彼はベッド近くのテーブルで書類を眺めている。もしや、飲食店で使われるという防音魔法でも使っていたのだろうか。
綾那は目を瞬かせると、慌てて体を起こしてベッドの上に座り込んだ。まだ服を着ていないため、体にシーツを巻き付ける。
「ご、ごめんなさい、ぐーたらしちゃいました」
「いや、気にするな。むしろゆっくり休んでくれ、無理をさせて悪かった」
これは昨夜、颯月に言われた事だが――どうも彼は、服を気にせず好き放題できるのが本当に嬉しかったらしい。正確に言えば服ではなく、右半身を埋め尽くす黒い刺青である。
いくら呪いが半分だとしても、結局は服と眼帯で『異形』を隠さなければ人に逃げられてしまうのだ。それが原因で、過去身請けした女性にも悉く逃げられたと言っていた。
だから彼は、今まで女性と睦み合う際でも頑なに服を脱がなかったのだろう。万が一にも開けぬよう気遣うのは、色んな意味で集中力を要したに違いない。
――まあ、彼がそれだけ気を遣い囲っていても、最終的に正妃が選別しにやって来て全てダメにされていたようだが。
綾那は改めて、椅子に腰かける颯月を見やった。彼もまた綾那と同様、まだ服は着ていないようだ。浴室からバスタオルを持ってきたのか、それを腰に巻いているだけ。
上半身の刺青は露になっているし、タオルの下から覗く右足にも、これでもかと刺青が走っている。
(部屋が暗いのが悔やまれる……! ああ、今すぐカーテンを全開にしたい)
そんな事を考えながら、綾那は熱の篭るため息を吐き出した。そのうっとりとした表情だけで何を考えているのか分かったのか、颯月が面映ゆそうな顔をして立ち上がる。
彼がベッドに近付いて来たため、綾那もまたベッドから足を下ろして立ち上がった――のだが、途端に腰が抜けるのと同時に膝が笑って、すぐさまベッドに座り直した。
「――良い、まだ寝てろ」
「いや、でも……」
仕事の妨げになっていないかと問おうとしたのだが、それよりも先に綾那の腹がくぅと鳴った。腹を押さえながら頬を染めれば、颯月はおかしそうに笑って綾那の頭を抱いた。
視界いっぱいに厚い胸板、そして刺青が広がって、綾那は「ふぇえ」と情けない声を上げる。
「食事を取りに行って来る。綾の世話がしたい、させてくれ」
「え……」
「綾の世話をするだけで、俺の良いリハビリになる。食事も、着替えも、風呂も……全部手伝っていれば、いずれ俺自身の世話もできるようになりそうだろ?」
「リハビリ――でも私、ずっと颯月さんのお着替え係になりたかったのですけれど……」
「うん? ああ……じゃあ、とりあえず今手伝ってくれると助かる。さすがにこの恰好で食堂まで行けんからな」
肩を竦める颯月に、綾那は満面の笑みで頷いた。




