慰め
食堂の騒ぎは、誰かが呼んで来てくれたらしい竜禅の仲裁によって無事収まった。
まず伊織は、竜禅から――仮にも団長相手に、無礼極まりない言動をしたとして――食堂ではなく、自室で食事するよう命じられた。更に、常日頃から「颯月の幸せ以外はどうでも良い」と公言している竜禅は、伊織にそのまま一週間の謹慎処分を下した。
部下の軽口をいくらでも許していたら、上の者の立つ瀬がなくなる。いくら和気藹々としている騎士団とは言っても、越えてはならない一線があるのだ。
正直言って、綾那を口説くだけならばまだ良かった。問題は、颯月にとって最大の――そして永遠のコンプレックスである、『子供』について言及した事だろう。
颯月は場が収まったのち、まるで八つ当たりするかのようにパチンと指を鳴らすと、『共感覚』を発動した。その瞬間膝から崩れ落ちて、ガタターン! とテーブルや椅子にぶつかった竜禅を見れば――彼の心情が今どれほど荒れ狂っているのか、よく分かるというものだ。
その後すぐさま解放されていたものの、よほど衝撃的な感情を味わったのか、竜禅はしばらく青い顔をしていた。
以後、綾那がギュッと抱き締めて胸を押し当てても、「あーん」をしても、颯月は薄く笑うだけ。見るからに作り笑顔のソレに、綾那まで落ち込んでしまう。
いっそ、彼の気が済むまで伊織の相手をさせた方が良かっただろうか――いや、その場合伊織の命に別条がないのかどうか微妙だ。それとも、颯月の代わりに綾那が頬のひとつでも叩くべきだったか。
(私、颯月さんのために何も言えなかった……)
綾那は、すぐさま反応できなかった己を悔いた。ただ伊織の言動に驚いて、颯月を侮られた事が酷く悲しくて――いくら怒り慣れていないからと言っても、妻として情けない。
綾那と肩を並べて食事していても、「シュラバ凄かったな!」と笑いながら楽しげに近況報告する幸輝の相手をしていても、颯月が穏やかな表情を浮かべる事は一度もなかった。
――幸輝の話によると、教会の子供達は元気いっぱいらしい。楓馬に続いて幸輝まで悪魔憑きではなくなったが、一人残された朔は文句ひとつ言わないそうだ。
まだ幼いため、焦りを覚えるよりも先に「楓馬も幸輝も、見た目が変わって面白い」が勝つのかも知れない。
相変わらず澪も毎日教会に遊びに来ているようで、変わりないとの事だ。一時はルシフェリアから「眷属に狙われるかも」と予言された澪だが――どうやらアレは、あの日限りの予言だったらしい。
綾那は彼の話を聞いて、ひとまず安堵した。そうして食事を終えると、颯月はまたしても幸輝だけ連れてトレーを持ち、返却口へ向かった――かと思えばすぐさま引き返して来て、綾那の手を取り「一緒に行こうか」と笑った。
その笑顔が無理して作られている事も、彼が様々な事に対する不安を抱いている事も察した綾那は、二つ返事で返却口まで歩いた。
「――じゃあな、颯月! アヤ! 俺これから頑張る!」
幸輝を部屋まで送り届けると、彼は別れ際に屈託のない笑顔を浮かべてそう言った。先ほど食堂でひと悶着あった際、どうも彼はあの場に居た先輩騎士と話す機会を得たらしい。颯月や綾那と共に居る事や、まだ幼い事から「目を掛けてやらねば」と思われたのか、早速温かい言葉を掛けられたようだ。
それが自信に繋がったのか、教会を離れても頑張れると確信したのだろう。であれば綾那も、むやみに甘やかさない方が良い。彼が寂しそうにしているのを見かけた時だけ話しかければ良いだろう。
そうして、宿舎の廊下を歩くのは颯月と綾那の二人きりになる。ちなみに、竜禅は「もう勘弁してください」と言って、青い顔のまま食堂に残った。
幸輝が居る間は薄く笑っていた颯月も、今はすっかり無表情になってしまった。綾那は彼の腕に自身の両腕を絡ませると、「颯月さん」と呼び掛ける。
颯月は無言のまま、紫色の瞳をついと動かして綾那を見下ろした。
「今日はもう、お仕事済まれたんですか?」
「ああ」
「じゃあ、後の予定は日課のお散歩だけですか?」
「そうだな」
「……お散歩の時間、全部私が貰っても良いですか? 今日は、ずっと一緒に居たいんですけれど」
綾那が誘えば、颯月はぴたりと足を止めた。綾那もまた足を止めたが、ややあってから颯月が歩き始めたので、それに合わせて歩を進める。
「もう戦闘力は良いのか」
「正直言って、まだまだです。でも……もういっぱい我慢したし、颯月さんが欲しいから」
綾那が甘えた声で囁くと、ようやく颯月の表情が緩んだ。綾那は、このまま畳みかけろと口を開く。
「――ね、私で試してって言ったでしょう?」
綾那は、彼のコンプレックスについて現状どうしてやる事も出来ない。ただ、どれだけ彼の事を愛しているのか――分かりやすく行動で示すだけなら、いくらでも出来る。
まだ史上最高の綾那には程遠い。体重だってベストまで戻せていない。だが、今晩このまま颯月と別れるのは、どうも気乗りしない。
ならばもう、晒してしまえば良いではないか。何もチャンスは一度きりではない。今後回数を重ねていく上で、いずれその内『史上最高の綾那』が完成するだろう――それで十分だ。
「意外と積極的なんだな。いや――最初からそうだったか」
「幻滅しますか?」
「まさか。あの晩、東の森を巡回場所に決めた俺を褒めてやりたい。綾は――何よりも俺を選んでくれるか? 俺か、俺以外かの選択を迫られた時、綾は……」
「気付いていませんでした? 私、颯月さんだけ居れば良いみたいなんですよ」
「いつか家族と別れさせる事になっても――か?」
綾那は、ただ微笑んで頷いた。彼が何を言わんとしているのかは分からないが、問われるまでもない。その時綾那が何を選び取るかなど、そんなものは考えるまでもないのだから。
颯月は安堵したように息を吐き出すと、綾那の手を引いて歩いた。向かう先は執務室ではなく、彼の私室だった。




