体磨き
維月と渚を引き合わせるのは、ひとまず維月の公務の調整がつくのを待ってからという事になった。
彼は王太子として、なかなかに多忙な日常を送っている。
将来国王――と言う名の、最高裁判事――になるための法律の勉強から始まり、王族として相応しい所作を身につけるためのマナー講座や、一般常識の勉強。自衛のために護衛の近衛騎士から体術の訓練を受けたり、魔法を効率よく発動するための訓練も必要だ。そして、領地である王都の様子を見て回る公務も日常的にある。
維月が今までそれらの空き時間に何をしていたかと言えば、もちろん騎士団の訓練所を視察する事である。まあ視察とは名ばかりで、本来の目的は愛しの義兄の姿を目に焼き付ける事だろうが――。
颯瑛に付随する様々な誤解から、あの義兄弟は正妃に「公的に親しくし過ぎるな」と忠告されていた。
そのせいで人目がある場所では会話できず、本来ならば王太子が騎士団を訪ねて来るとなれば、団長の颯月が相手をするところなのだが――その役割は、副長の竜禅が請け負っていたと言う。
しかしそれも、誤解が解けた今となっては関係ない。維月は今後いくらでも颯月と会えるし、話もできる――もっと言えば、訓練所に顔を出すどころか、颯月の執務室だって訪ねられるのだから。
ただ、その限られた貴重な自由時間を、両親からの要請でリハビリもとい勉強会に費やすというのは、少なからずストレスになってしまうかも知れない。
渚は嫌がるだろうが、たまには勉強会に颯月も同席してもらう方が、維月のモチベーションアップに繋がるだろうか。
この勉強会は維月のリハビリだけが目的ではなく、こちらも法律を教わるというお返しを受けている。それに何より、彼はしっかりしているように見えてまだ十三歳だ。
ただでさえ王太子という窮屈な肩書を抱えているのだから、やはりたまの息抜きと楽しみは大事だろう。
◆
婚姻届の証人欄を埋め終えて、維月のリハビリ要請を見届けた颯月は、竜禅と共に嬉々として応接室から出て行った。どうも、早速役所まで婚姻届を提出しに行くらしい。
もちろん、綾那とて彼と共に行きたい気持ちはあったのだが――まだ街は『広報』を巡る混乱の最中である。陽香ほどではないしにろ、綾那も雪の精とか騎士団長の婚約者とか、繊維祭の時に演武を披露した事で相当な注目を浴びているのだ。下手に街中を歩き回れば、確実に面倒な事になる。
それに今日は、久々に渚が騎士団本部までやって来たのだ。しばらく顔を合わせる事すらなかったし、すぐさま宿に帰らせるよりもゆっくりと話し合いたい。
特に体の磨き方について聞くのは、綾那にとって急務であった。
「え? 体の磨き方を教えて欲しい――? 理由が聞きたいような、一生聞きたくないような……とりあえず、今度颯月サンぶん殴っても良いかな」
「や、やめて! 私の神であり、旦那さんなんだよ!」
「はあ……別に、わざわざ磨かなくたってどんな綾でも大喜びでしょ? あの人は」
渚はお茶請けのマカロンを頬張りながら、興味なさげに吐き捨てた。しかし、綾那が瞳を潤ませながら上目遣いで「お願い……」と縋れば、大きなため息をついてから渋々頷く。
「一つ一つ教えるよりも、私がやった方が早いから……トラ、アンタはその辺を適当にぶらついてて」
「ええー? ぶらついてろと言われても、俺こっちに知り合いなんて居ないんですけど……唯一の顔見知りは役所へ行きましたし」
白虎は、続けて「まあ、アイツがこの場に居たところで、俺の話し相手を務めてくれるとは思わないけど」とぼやいた。顔見知りとは、もちろん同じ聖獣の青龍――もとい竜禅の事だろう。
セレスティン領で彼らが会話する様子を見た際、綾那の抱いた感想と言えば「なんだか、あんまり気が合わないみたい」である。お茶目な部分があるとは言え、基本的には厳粛な竜禅と――明らかに軟派な白虎では、色々と合わなくて当然なのかも知れない。
渚は緑色の髪の毛を面倒くさそうにかき上げると、白虎に胡乱な眼差しを向けた。
「知り合いなんて居なくても、女さえ居りゃ楽しく遊べるでしょ、トラは」
「うーん、まあそうなんですけど……いや、でもマジでこの領痩せた子が多すぎて、ちょっと俺の趣味と違うんですよね。あんな痩せてたら、セレスティンの厳しい気候にはまず耐えられんでしょ? 見てると可愛いよりも不安が勝るというか――どうか健康に長生きして欲しいとしか」
白虎は言いながら、ちらりと綾那を見やる。もしかしなくても、「そこ行くとお前は健康そのもので良い」的な視線だろうか。
すると、すかさず渚が彼の――尻尾のように長く伸びた――襟足をグン! と掴んで引いた。
「――主従契約を忘れたとは言わせないよ。綾に手を出そうとしたら、殴るどころじゃ済ませないから」
「わ、分かってますって、契約は絶対なんですから……! か、髪はマジでやめてくれません!? ただ単に、彼女の体つきは好ましいなって思いながら見ていただけでしょ!?」
「見るのも思うのもやめて、マジで気持ち悪いし綾がすり減るから」
「そんな事で人間がすり減るもんですか! ああもうホント、俺に向かって気持ち悪いなんて言う人間初めて見ましたよ!? ――好きです!」
「さっさと出てって、街で暇が潰せないなら宿に帰って」
渚が目も合わせずに言えば、白虎はクッと悔しげな表情――に、僅かな喜びを入り混じらせたような複雑怪奇な顔をして「帰りますよ! 帰れば良いんでしょう! 用があったら『共感覚』で呼んでくださいよ!?」と叫びながら、応接室を出て行った。
「…………えっと――その、二人は仲が良いんだね……?」
「うん。綾の目にそう映るなら、そうなんだろうね」
渚はニッコリ笑うとカップに入った紅茶を飲み干した。
「じゃあ、綾の部屋へ行こうか。喜ばせる相手が颯月サンだと思うと気は進まないけど……まあ、綾の幸せのためだからね」
「……ありがとう、渚! 大好き!」
「はいはい、調子良いんだから――」
綾那は応接室に広げた茶器やお茶請けをカートに載せると、片づけをしてから自室へ向かった。




