リハビリ要請
颯瑛は逡巡するように目線を落とした後、ややあってから顔を上げた。
「この法律を改訂しようがしまいが、私は――維月が即位するのは成人してからの方が良いのではないかと思っている」
「成人? 俺が成人するまで、まだ七年ありますよ」
「別におかしな事ではない、私の即位が異例だっただけだ。普通先代が健在なら、もっと成熟してから代替わりするものだろう」
「しかし……アイドクレースでは、今が一番騎士団の注目度が高いと思います。この機を逃せば、改定後の結果に大きな差が出るのでは――」
「それは分かる。騎士や傭兵稼業を受け持つ者達が苦心している事も理解できる」
その言葉に、維月は怪訝な表情を浮かべて首を傾げる。
「では、今すぐにでも改定すべきでは? これ以上遅らせてどうなりますか、結果として振り回されるのは女性とその周囲です。陛下から見れば若輩者でしょうが――俺は、とっくに誹りを受ける覚悟も石を投げられる覚悟もできていますよ」
「お前の覚悟を軽んじている訳ではない、私はただ――」
颯瑛はそこで口を噤んだ。誰もが不自然に切られた言葉の続きを待ったが、しかし彼は口を閉ざしたまま何も話さなくなってしまった。
(やっぱり、親として心配なのかな……)
維月は不可解そうにしながら答えを待っているが、恐らく颯瑛の言いたい事はそれだろう。
僅か十歳で王位に据えられてしまった颯瑛。彼もまた物心つく前から王太子として過ごしていたはずで、一概には言えないが――しかし、きっと心の準備が不完全なまま、即位を拒否する事もできず国王にされたに違いない。
綾那が颯瑛本人から聞いた話では、彼は幼い王として周囲の者に侮られながら生きてきたらしい。
それは年齢の問題もあるが――彼自身の無表情や、生まれながらに「国の象徴たる人間が軽々しく感情を露にするな」という教育を受けていた弊害による、感情の機微の疎さがもたらす人間味のなさも原因だったのだろう。
同じ立場である王族からだけでなく、領内に生きる民衆からも「聡明とは言えまだ子供だから」「何を考えているのか全く分からない」と、ぞんざいな扱いを受けていたと言う。
幼馴染の正妃でさえ颯瑛の心情を正確に把握するのは至難の業で、決して顔に出ない彼の悲しみや憤りは、他人になかなか理解されにくかった。
そうした不条理から彼を――暴力と脅迫で――守り支えたのは、今は亡き側妃の輝夜である。きっと輝夜の献身的なサポートがなければ、颯瑛一人だけではさぞかし生き辛かっただろう。
人間一人が耐えられるだけの責め、跳ね返せるだけの逆境というのは、決して無限ではない。例え維月が心根の強い人間だとしても、いつか絶対にガタがくる。果たして、その時に彼を支えてくれる者がどれほど居るのか。
もちろん、今ここに集まる家族は手助けしてくれるだろう。しかし、他の王族はやたらと『王』に対して厳しいと言うし――だからと言って自分がその責を負うのは嫌だなんて、どこまでも勝手な話だが――敵が居ない訳ではない。
王族は基本、侮辱や揶揄する者に対して厳しく罰する事が可能らしいが、相手が同じ王族となると上手くいかないようだ。そうでなければ今頃、颯月を悪魔憑きだと揶揄する王族は淘汰されているに違いない。
「維月、陛下は――お前を侮っている訳ではなく、ただその身を案じて下さっているだけよ。そう噛み付かないで」
室内に重苦しい沈黙が続いたが、それを破ったのは正妃のフォローだった。やはり彼女は、颯瑛が本心を言葉にせずとも察する能力に長けているのだろう。ここ数年のすれ違いは、颯瑛が目の前で息子を手にかけようとした事に対する不信感から正妃の目が曇っていただけだ。
正妃に宥められた維月は目を瞠ったが、しかしすぐ気まずげな表情になると、俯いてしまった。
「お前が優秀なのはよく分かっているわ、ただ――陛下は幼くして王位に就いて、相当な苦労をされたから。お前にも、輝夜ぐらい腕――が立つのは顰蹙を買って困るから、これでもかと弁が立つ妃が居ればね……暴力よりは脅迫の方がまだマシだわ。あわよくば、その脅迫さえも握り潰せるほど聡明な女性が良いんだけれど……」
「そんな、亡き側妃様のような女性がそうそう転がっていては困りますよ……俺の妃などお飾りで十分です。義妹になれば義兄上が喜ぶ、白くて柔らかそうで従順な――誰のような、とは言いませんが」
言いながら綾那にちらと視線を投げた維月に、颯月がくつくつと低く笑った。
「こんな女もそうそう居ねえし、維月は維月が良いと思う女を選べ。そもそも、俺の需要はもう満たされてる。お前の妻まで俺の好みに合わせる必要はない」
「俺が良いと思う女……ですか。義兄上のような女が居れば良かったのですが――」
深いため息を吐き出す維月に、颯月は「俺のような女? 気持ちが悪い事を言うな」と呆れた様子で眉尻を下げた。そうして義兄弟がじゃれていると、ずっと黙り込んでいた颯瑛がハッとした様子で口を開く。
「――そうだな、維月を支えてくれるような婚約者が決まれば……それが安心できるような相手であれば、成人前の即位に関しても前向きに検討しよう」
「こ、婚約者ですか? ……まだ一人も候補が居ないのに、なかなかハードルが高いですね」
維月が分かりやすく顔を顰めれば、隣に座る正妃がすかさず「候補が居ない訳ないでしょう、お前が選り好みしているだけよ」と冷静なツッコミを入れた。
――維月としては、敬愛する義兄を助けるためにさっさと即位して法律の改定に踏み切りたいのだろう。だからこうして前のめりというか、焦っているのかも知れない。
確かに彼の勇み足は、考えなしの綾那が見ていても不安になるものがある。遥か前方しか見ていないため、いくらでも足を掬われそうな気がするのだ。
もし維月が誰かに足元を掬われても、彼を支えるどころか足を引っかけた不届き者を再起不能にしてしまうくらい弁舌が立つ女性。
まるで颯月や輝夜のように聡明で、なんでも器用にこなしてしまう女性。そんな女性が居れば心強いだろうが、そのような高スペックの女性、なかなか見つかるものでは――。
(……なんだろう、また渚が思い浮かんじゃったな)
綾那は一人、ひっそりと苦笑を浮かべた。すると、唐突に颯瑛が「君」と呼び掛けて来たため、慌てて姿勢を正す。
「私は君の事を、嫋やかで思慮深く――それと同時にここぞで頼りになる、すごく良い女性だと思っている。その上で訊ねたいんだが、君の家族も似たような性質をもつのか?」
「――え?」
「維月は騎士団長に傾倒し過ぎていて、そもそも女性と真摯に接した事がない気がする。本当は君にリハビリを頼めればとも思ったが――君は騎士団長の妻になる女性だ。君に対する騎士団長の執着はやや病的だから、維月と接していく中で万が一にも義兄弟仲が悪くなると困る。だから君の家族に手すきの者が居れば、維月のリハビリに付き合ってもらいたい」
「俺は病的ではありません」
「リハビリとはなんですか、リハビリとは」
颯瑛の要請を聞いて、義兄弟がすかさず反論した。しかし当の颯瑛は涼しげな表情のまま首を横に振る。
「リハビリで間違いない。維月は年頃なのに女性に興味がなさすぎる、正直言って将来に不安しかない」
「うぐっ……」
「騎士団長についても病的で間違いない。以前、彼女のネックレスに盗聴器を仕込んでいたのを知っているぞ」
「盗聴ではありません、アレはただの録音魔具ですよ?」
「何が違うのよ、ソレ……」
今にも遺憾の意を表明しそうなほど顔に「心外だ」と書かれている颯月に、正妃は額を押さえて俯いた。
「ええと……実は今、家族が二人ほどルベライト領へ出かけていて――でも王都に残っている子が一人居るので、是非殿下にも仲良くして頂ければと思います。その、リベリアスに永住する事が決まったので、法律の勉強がしたいと言っていて。だから殿下が教示してくださると、凄く助かるんですけど――」
これは元々、会談の後に維月へお願いする予定だった事だ。婚約者やリハビリ云々の話は一旦置いておくとしても、渚の目的を達成するためには都合の良い流れである。
綾那の言葉に、颯瑛が僅かに微笑んだ。
「ああ、それは良いな。維月も一人で勉強しているより、アウトプット――人に教える方がより理解が深まるだろうから。維月も良いか?」
「……良いも何も、そうでもしなければ俺が即位するなど夢のまた夢ですから。構いませんよ」
「では、私も維月の公務の調整をいたしますわ。綾那の家族だからなんの問題もないとは思うけれど、精一杯頑張りなさいね」
両親から背中を押されて、維月はどこか気乗りしない様子で頷いた。
(うーん……正直言って、リハビリなら人当たりの良い陽香か――女性らしいアリスが良いかなと思うんだけど。でもまあ、陽香はちょっとぶっ飛んだ部分があるし、アリスは化粧が濃すぎるし(?)……たぶん話が合うのは、渚なんじゃないかな~なんて)
綾那がそんな事を考えていると、繋がれた手が引かれて隣の颯月を見上げる。すると彼は「俺の大事な義弟だ、くれぐれも「お手柔らかに」と伝えてくれ」と低く囁いたため――綾那は困ったように笑って、「善処します」と呟いたのであった。
――渚に「忖度」なんて言葉は死ぬほど似合わないな、と思ったのは秘密である。




