親の愛情
「――え……颯月、お前……本当に? また口八丁で綾那を騙したとか、家族の許可を取っていないとか――颯月一人がその気になって盛り上がっている訳じゃあ、ないでしょうね……?」
しんと静まり返った室内で、まず初めに声を発したのは正妃だった。彼女は震える声でなんとか言葉を紡ぐと、釣り目がちの涼やかな瞳を瞬かせた。
「俺は一度も綾を騙した事がありませんし、家族の許可も――数日前に、ようやく揃いました」
きっぱりと言い返した颯月に、正妃は「いや、「契約」した時に騙しているでしょう……」と呆れたように呟いた。
確かに綾那は、「契約」という魔法で左手薬指に婚約指輪を嵌める際、颯月から「指輪のサイズを変えるには綾の承認が必要だ」と説明を受けた。
しかし、そもそも「契約」は指輪のサイズを変える事が目的の魔法ではなく、婚約魔法を発動するためのものだ。その発動条件が双方の承諾だった訳だが――まあ限りなくグレーだったとは言え、嘘はついていない。
実際「契約」によって指輪のサイズも変わるため、決して嘘ではないし、騙してもいないのだ。
ただ最も重要な情報を秘匿された上で、サイズを変更するついでに魂の隷属魔法を結んでしまったというだけで。元はと言えば、人をひとつも疑わない考えなしの綾那だって悪いのである。
正妃は僅かに顔を俯かせると、深く考え込んで――ちなみに颯瑛と維月は、まだぽかんと呆けた顔をしていて動かない――ついと目線を上げると、綾那を見やった。
「綾那、本当に? 本当に、颯月と結婚する気になったの? だって以前は嫌がっていたじゃない」
「い、嫌がってなんかいませんよ。ただ、私にとって颯月さんは神様のような方なので――あまり気安く触れづらかったと言いますか、適切な距離というものがあるのではないかと思っていただけです。……あと、私の家族が絶対に許可を下ろさないだろうと思っていたので」
「お前は異大陸の出身だけれど、もう二度と故郷には帰らないの?」
正妃に問われて綾那は即答しかけたが、しかし一旦頭の中で話の内容を精査した。
唐突に始まった事だが、これはれっきとした「結婚相手のご家族へ挨拶する」という一大イベントである。何も考えずにヘラヘラと笑って流されているようでは、他でもない颯月に対して不誠実極まりない気がしたのだ。
「元より、私にとっては住む場所よりも家族の無事だけが気がかりでした。全員と無事合流して、リベリアスに永住するという意思確認を済ませた今となっては……生まれ故郷に未練はひとつもありません」
「でも、颯月とは一生二人きりよ? それはもちろん、あらかじめ救済策も用意されているけれど……後悔しない?」
一生悪魔憑きで、一生子を成せない颯月。彼と家庭を築くにしても、恐らく家族の人数が増える事はないだろう。しかし綾那は、颯月さえ居ればそれで良いのだ。
アリスの「偶像」で彼を失うかも知れないという状況下で、綾那は思い知らされた。「颯月さえ居れば良い」と、心の底から思ったのだ。
恐ろしい事に、その時綾那の頭の中には四重奏のメンバーが誰一人として存在していなかった。他の何を失っても、颯月だけは手放したくないなんて――とんでもなく自分勝手な思考に埋め尽くされたのだ。
だから子供の有無は、綾那にとって問題にならない。
もしも颯月が望むなら、孤児を養子にして育てれば良い。今は颯月自身が嫌がっているものの、いつか気が変わって綾那に「種を拾ってこい」なんて言いだしたら――その時は仕方がない。綾那は彼の要望に沿うだけだ。
ただ、浮気するのだけは御免なので、いっそリベリアスに精子バンクを設立する方向で頑張るしかないだろう。
綾那は深く頷いてから、真剣な表情で口を開いた。
「颯月さんと一生二人で居られるだなんて、これ以上の幸せがあるでしょうか?」
「――じゃあ綾那は……颯、……颯月の、唯一の家族に、なってくれるのね……?」
正妃は珍しく言葉を詰まらせて、ほっそりとした両手で自身の口元を覆った。その瞳は僅かに潤んでいるように見えて――もしかすると、感極まっているのだろうか。
正妃にとって颯月は、生母の輝夜を亡くして以来必死に育ててきた義理の息子だ。その教育熱心さと言ったら、並大抵のものではなかった。颯月から避けられるようになっても、なりふり構わず厳しく育てた。
しかし全ては、颯月が一人でも強く生き抜くため――心ない侮辱や差別など、些末な石ころに躓いて苦しまぬようにするためだったはず。
恐らく颯月も、その愛情は理解しているだろう。理解した上で――それでも正妃から逃げたくなるほど、強烈なトラウマを植え付けられているというだけだ。
「えっと……不束者ですが、私が颯月さんを頂いてもよろしいでしょうか」
その台詞は、一般的に綾那ではなく颯月が言うものだろう。しかし至極真剣な表情で問いかける綾那を見て、正妃はフッと笑みを零した。
彼女が笑った瞬間に緩んだ目元から零れた一粒の涙には、颯月に対する愛情でも凝縮されているのだろうか? 室内の柔らかな光を反射して輝くソレに、綾那は目を奪われた。
――その輝きは綾那が今までに見たどんなものよりも美しく、そして尊いもののように思えたのだ。
こんなものを見せつけられたら――例え血が繋がっていなくても――親子の情というのは、何よりも素晴らしい宝なのだと。親と子の関係は素晴らしいと思ってしまう。
(だから颯月さんは、家族に……ことさら親子に、強い憧れをもつんだ)
その感覚は、物心つく頃には施設暮らしだった綾那には縁遠いものだった。しかし今後、この家族を間近で見ていれば――いつか綾那の意識も変わるのだろうか。
正妃は両手で口元を覆ったまま、顔を隠すように深く俯いている。そして、ややくぐもった声で「もう勘当されているんだもの、誰の許可も必要ないわ」と呟いた。
その言葉にニッコリ笑うと、綾那は穏やかな声で告げる。
「あ、じゃあ……はい。誰よりも幸せにします、安心してくださいね」
「なんで、それらしい台詞を全部俺じゃなくて綾が言うんだ」
「え? 颯月さんはホラ、陽香達の前で改めて挨拶してくだされば良いじゃないですか。なし崩し的に全員から公認をもぎ取ったようなものなので、ちゃんとした挨拶にも憧れますし」
「改めて綾を寄こせと? ――あの面子が相手だと思うと、どうにも嫌な予感がしてならないのは気のせいじゃないだろうな」
颯月はおかしそうに言って低く笑った。
そうして、人目も憚らず睦み合い始めた二人に、ようやく颯瑛がハッと意識を取り戻した。彼はコホンと咳ばらいをすると、目を伏せながら口を開く。
「その、それは……おめでとう。祝福する、私に言えるのはそれだけだ――維月?」
「え!? あっ、ああ……いや、そうですね、本当におめでたい事です。ですが驚きました、なんだかんだ言って義兄上の結婚は、まだ先なのではないかと思っていて。せっかく人目を気にせず話せるようになったところを、横から義姉上に掻っ攫われて独占されるだなんて――ええ、本当におめでたい事です、心の底から祝福します」
颯瑛に促されて意識を取り戻した維月は、義兄の結婚についてどうにも複雑な心境のようだった。
いつもは本音を建前で取り繕うのが上手いのに、今日ばかりは本心が溢れ出ている。今にも「予備動作なく俺から義兄上を取り上げるとは、良い度胸だな、後輩」なんていう副音声が聞こえてきそうで、綾那は苦笑いした。
そもそも、結婚したからと言って関係が大きく変わるのかと言われれば、それも微妙な気がする。ただ颯月が、今後「魔法鎧」を発動する回数が減るぐらいではないだろうか。
「――羽月さん、落ち着くまで席を外すと良い。……君も一緒についてあげてくれないか」
「え? あ、はい、もちろんです」
涙が止まらないのか、すっかり顔を上げられなくなってしまった正妃に退室を促した颯瑛は、綾那に彼女の付き添いを頼んだ。
「ゆっくりで良いから、落ち着いたらまた戻って来て欲しい。私達はまだ、騎士団長に聞かなければならない話があるから」
「分かりました、一旦失礼しますね」
聞かなければならない話というのは、もちろん本題の法律改定についてだろう。どうもこの様子では、既に竜禅から大まかな話を聞かされているようだ。
綾那は笑顔で頷くと、俯いたままの正妃の傍まで歩み寄った。そうして彼女の背中と腕を支えると、応接室から退室したのであった。




