久々の和巳
颯月に渚の事を相談してから、更に数日が経った。アイドクレース騎士団はまだ入団希望者の対応に追われて嬉しい悲鳴を上げているようだが、それもかなり落ち着いてきたらしい。
採用担当の和巳が、こうして颯月の執務室を訪れる余裕を見せるくらいなのだから――よっぽどである。
綾那にとっては、一週間、いや二週間ぶりになるのだろうか。久々に見る和巳はややくたびれているものの、やはり中性的な美貌の持ち主だった。
ひとまとめにされた柔らかそうな茶髪は、枝毛一つなくサラサラ。緑がかった薄い青目は、血走る事なく透き通っている。クマがないどころか肌荒れひとつしていないし、今日も『美しすぎる参謀』である。
彼は、オヤツ時である十五時前に「実家から颯月様宛てに送られて来たんです」と言いながら、トレーの上にシフォンケーキとティーポットを載せてやって来た。
やや大きめの1人前にカットされたシフォンケーキには、紅茶の葉でも混ぜているのか、ところどころに黒い粒があってかぐわしい香りがする。その隣に絞られた真っ白のホイップクリームは緩めで、見ているだけで食欲が刺激される。
甘いものが苦手な和巳が当然のように二人分のケーキと三人分のティーセットを運びこんで来たという事は、つまり――この場に綾那が居ると知った上で用意してくれたのだろう。
竜禅と言い彼と言い、颯月と綾那をセットで考えてくれるのだから、本当に喜ばしい。――喜ばしい事なのだが、それはそれとして綾那には、彼に謝らねばならない事がある。
綾那は機敏な動きで立ち上がると、和巳の両手を塞いでいるトレーを受け取りに駆け寄った。
「――和巳さん、ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした……! セレスティンへ行かせて下ったお陰で、この通り元気になりました。どんなお叱りの言葉でも、愚痴でも……なんでもぶつけて下さい!」
綾那にトレーを奪われた和巳は困ったように眉尻を下げると、「そうですねえ」と考える素振りを見せた。
「私としましては、愚痴を言いたいのは綾那さんよりも陽香さんの方なので……困りましたね」
「……へ? 陽香ですか?」
「繊維祭のイベントと新たに大衆食堂で配信された動画の相乗効果で、本日までに騎士団の門戸を叩いた人数は千を超えました。それは大変ありがたい事です、ええ、本当にありがたいんですが――綾那さんはその内、何人が「陽香さんを一目見たい」「会わせて欲しかっただけ」なんて冷やかしに来た者だと思いますか?」
問いかける和巳の声はいつも通りとても穏やかなものだったが、しかしその目は珍しくぴくりとも笑っていない。まるで綾那と打ち解ける前の、警戒心むき出しだった幸成ぐらい態度と表情が合っていない。
綾那は僅かに口の端を引きつらせて、数歩後ずさりながら「えっ、ええっと……」と言い淀んだ。
確か、数日前に竜禅の報告を聞かされた時点で、冷やかしの数は二百七十人を超えていた。あれから更に時間が経ったのだから、その数字は増えこそすれ、減る事はないだろう。
恐らく、とっくに三百人は超えているはず――問題は、そこからどれだけ増えているかだ。
「さ……三百五十、とか……?」
初めに予想した数字よりも更に多めに足して小首を傾げる綾那に、和巳は目を三日月のように細めて笑った。いや、笑っているように見えてもやはりどこか薄ら寒い気配を感じて、綾那はふるりと体を震わせる。
「今朝方、栄えある五百人目の冷やかしを叩き出したところなんですよ」
「――ごっ、五百!? えっ、いきなり増えすぎじゃありませんか!? だって、ちょっと前まで三百以下だったのに……!」
綾那は、思いもよらない数字を聞かされて飛び上がりかけた。しかしケーキとティーポットの載ったトレーを預かっていたため、なんとかギリギリで思い留まる。
このまま和巳を立たせておくのもなんだからと、ひとまず来客用のテーブルまで移動したものの――綾那の脳内は「五百? なんで? 比率おかしくない?」という疑問で埋め尽くされていた。
竜禅から聞いた話では、入団希望者の総数およそ七百八十人の時点で、冷やかしが二百七十人だったのだ。それが五百人を迎えたという事は、あれから二百三十人ほど冷やかしが増えている。
現在入団希望者の総数は千人を超えたところであり、以前聞いた数字より少なくとも二百二十人は増えている訳だが――それはつまり綾那が前回竜禅の報告を聞いてから、冷やかしばかりが増えている計算にならないだろうか?
「数日前に、陽香さん達がルベライトへ向けて出発したというお話を耳にしましたが……彼女、その前日に街中を歩き回ったでしょう。顔はもちろん、あの目立つ赤髪すら隠さずに」
「……方々と話をつけるって、歩き回ってました」
正確に言えば、「軽業師」を使って屋根の上を忍者のように飛んで移動していたはずだが――しかしアリス達の利用する宿へ辿り着いた際には、さすがに屋根から降りただろう。
青髪の綾那が言うのもなんだが、あんな赤髪はリベリアスで他に見た事がないため、遠目からでもさぞかし目立つはず。
「せっかく冷やかしが下火になって落ち着いていたところに、見事な追い風を受けましてね。街中でたまたま陽香さんを見かけた彼女のファンが、一堂に押し寄せてきましたよ……「やっぱり会って話したい」「騎士になる気はないが、採用試験の場に『正妃の再来』が同席すると聞いて!」――なんて、デマに踊らされて」
「あ、あぁあ……ごめんなさい……ごめんなさい和巳さん、私達のリスク管理がまるでなっていなかったです……!」
遠い目をしてフッと息を洩らした和巳に、いつもの和やかさはない。どこか擦れてしまったような彼の姿を目にして、綾那はがっくりと肩を落とした。
(陽香が変装もしないで街中に出て行くって聞いた時、どうしてもっと真剣に引き留めなかったんだろう……和巳さんを筆頭に、騎士の皆さんに余計な職務を増やしちゃってる……!)
それにしたって陽香の威力、いや、引力は凄まじい。どうせなら、「騎士になっても良い」と思う有望な者だけ引き寄せて欲しいものだが、そんな都合の良い話はない。
陽香とて、まさか自身がこれほど短期間で異様に跳ねるとは思っていなかったのだろう。下手をすれば、最早「表」よりもアイドクレースの方が人気があるのではないだろうか――。
大変申し訳なく思うものの、後悔したところで今更遅い。綾那は自分達の迂闊さが情けないんだか悔しいんだか分からぬまま、じわりと涙ぐんだ。
綾那の表情に気付くと、和巳は慌てた様子で両手と首を横に振った。
「――いやいや、少なくとも五百人は新規入団者を確保できましたからね? 決して悪い事ばかりではありませんし、それに、冷やかしが多かったお陰で色々な事に気付けたんです。騎士団の体制の甘さとか、窓口の少なさとか……問題が深刻化する前に改善できたのですから、感謝の気持ちの方が大きいですよ」
「和巳さん……」
「それにほら、私が愚痴りたいのは、あくまでも陽香さんですし……綾那さんが気に病む事はありません。さあ、良ければ母のケーキでも食べて下さい。私は甘味が苦手なのでなんとも言えませんが、これでも颯月様のお墨付きですから」
なんとか気を逸らそうとしているのか、和巳は慌ただしくテーブルの上にケーキとティーセットを並べた。恐らくこのシフォンケーキは和巳の母の手作りで、しかも度々颯月宛てに送られてくるものなのだろう。
そんな和巳の様子を見て、颯月がくつくつと低く笑いながら執務机からやって来る。
「和まで丸め込んじまうとは、綾は本当に得な顔だな。少しでも泣きそうな気配をチラつかせられると、叱る気が失せる」
「え、いや、そんなつもりで涙ぐんだ訳では――」
「実際、コイツは相当な腹黒だぞ。それを黙らせるんだから、綾の泣き顔は凄い」
「……颯月様、そう言われると何やら複雑なんですが」
颯月は、僅かに目を眇めた和巳に構わず笑うと、「和の母上に、ケーキの差し入れいつも助かると礼を言っておいてくれ」と告げた。




