問題の先送り
「――それで、本題なんだがな」
颯月はソファから立ち上がると、手にもつ本を棚へ戻しながら言った。綾那は背筋を伸ばして、「はい」と応える。
「正直言って、タメになる法律書なら俺よりも維月に見繕わせた方が間違いない。なんなら渚も維月と会って、あの二人で直接話した方が早いかもな」
「維月殿下……ですか。それは確かに次期国王で、法律について今誰よりも勉強されている方ですもんね……でも、仮にも王太子殿下に、こんな個人的な頼み事をしても良いのでしょうか……?」
「会談の時にでも、無理かどうか聞いてみると良い。俺から話しても良いんだが……そうすると、維月の判断基準が全部俺になりそうだからな。綾から頼む方が確実だと思う」
その言葉に、綾那は深く頷いた。確かに颯月が間に入ると、強火ファンの維月ははしゃぎすぎそうだ。
ただでさえ有能だと噂の維月が、下手に「義兄上に有能なところを見せて、褒めてもらうぞ!」なんて張り切ってしまったらどうなるか。こちらの「初級者向けのスターターキットをお願いします」という要望を完全に無視して――「俺にとっての「初級者向け」と言えば、これです!」なんて笑顔で――とんでもない高難易度の本を提示されても、困る。
(まあ、さすがに要望無視はないと思うけど……颯月さんほどの神が関わると理性を失っても仕方ないからね、うん)
何せ彼は、綾那など足元にも及ばない颯月ファンの鑑である。
綾那とて「颯月に己の良いところを見せる機会」とやらに恵まれたら、ほんの少しだけ――いや、かなり背伸びしてしまいそうな気がする。だから颯月の指摘通り彼経由で頼むよりも、維月から特別に想われていない上に、平々凡々な頭脳の持ち主である綾那が頼む方が確実だろう。
さすがに綾那から「法律の勉強がしたいです」と言われて、高難易度の本をぶつけようとは思わないはずだ。義兄に似て、人の力量の見極めには長けているに違いない。
――とは言え、欲しいのは彼ら義兄弟と同等レベルの天才で、しかも一切の努力を怠らない渚用の教則本だ。かえって高難易度の本を用意された方が彼女も満足するのでは? と、思わなくもない。
「分かりました、今度殿下にお願いしてみますね」
「ああ。綾が義弟と仲良くする姿を見られるのは、俺も嬉しいからな」
蕩けるような笑顔で言いながら残りのマドレーヌを口へ放り込んだ颯月に、綾那はひっそりと「こうして颯月さんが喜んでいる事に気付いたら、結局張り切っちゃいそうだなあ、維月先輩」と考えた。
しかしそれと同時に、渚の抱える問題は法律書だけではなかった事を思い出して再び口を開く。「あと、もう一件すみません」と言えば、颯月はモグモグと口を動かしながら、鷹揚に頷いた。
「渚の、婚約者不在問題なんですけど……」
「……うん? 白虎じゃダメなのか」
「ええと、渚本人がそれだけは嫌だって言っていて……そもそも聖獣って、婚約者として成立するんですか?」
綾那が首を傾げれば、颯月は口の中に残ったマドレーヌを紅茶で飲み下した。そして続けられた言葉は「成立する」だった。
颯月曰く聖獣というのは、この世界――リベリアスの属性を司る管理者だ。彼にとって馴染み深い竜禅こと青龍は、リベリアス中の『水』を司っている。
川や湖、海はもちろん 雲もないのに時たま思い出したように降る雨も、全て彼の魔法によるものだ。
彼が死ねば、リベリアス中から水という水が消えて干からびてしまうとの事だが、当然颯月は竜禅が死ぬところを見た事がないので、その辺りは言い伝えや伝承の域を出ないそうだ。
ただ竜禅本人から聞かされた話では、不死ではないが不老であり、寿命は存在しない。そして本来の姿は名前の通り青色の竜だが、人に擬態している間は人と全く同じ性質をもつようになる――らしい。
つまり人の姿をした竜禅は老いこそしないが、他は普通の人間と全く同じなのだという。食事を欠けば腹が減るし、水を飲まなければ干からびる。睡眠を疎かにすればそのうち倒れるし、颯月の『共感覚』に振り回される事から分かる通り、性衝動もあるようだ。
ただ、臓器が老いる事もないので健康を保ちやすく、やはりただの人間と比べれば超常的な存在と言わざるを得ないだろう。
本人曰くここ数百年は病気知らずらしいが、人型だろうが竜型だろうが風邪も引く。もしも体の部位を欠損するような大怪我をした場合には、時間経過で再生する――なんて、都合のいい話はない。失ったものは二度と戻らない。
普通の生き物と同じだ。病気を拗らせれば死ぬし、大怪我をしても死ぬ。
つまり、病気と怪我をせずに健康体を保ち、食事と睡眠さえ疎かにしなければ――理論上は永遠とも言える命をもっている訳だ。
あくまでも不死ではない以上あらゆる病気を防ぐためには、食生活の自制や運動不足に注意するなど、気を遣うべき部分はかなり多そうだが。
ここまで説明し終えた颯月は、ふうと細い息を吐き出すと、綾那に紅茶のおかわりを要求した。綾那が頷いてティーポットを持ち上げれば、彼はそのまま続ける。
「――人の姿をとっている間、何もかも人と同じって事は……つまるところ、子種もあるって訳だ。もとうと思えば家庭だってもてる。だから聖獣は、婚約者として問題なく成立する」
「ああ……そう、なんですね」
正直、もっと気の利いた返しをしたかったが、綾那の口からは気の抜けた相槌しか出なかった。知らずのうちにまた颯月のコンプレックスを刺激してしまったかと思うと、どうにもやるせなかったのだ。
しかし颯月は、さりとて気にした様子を見せずに肩を竦めた。
「ただ、禅は家庭をもったところで不老だからな。仮にもったとして――先を行く家族の後を追うには、自死するしかないだろう? だから気が進まないらしい。聖獣のアイツが世界を壊さずに死ぬには、次の青龍を用意するしかないからな」
「次の青龍……なんだかまるで、会社みたいですね。いきなり飛ぶと会社が傾くから、しっかり後継者を育ててから退職する――みたいな」
綾那が分かりやすいようなそうでもないような例えをすると、颯月は小さく噴き出して「そうだな」と頷いた。
「――だとすれば、取締役は創造神か。中間管理職の禅は大変だ、あんな癖の強い上司に使われて」
「ふふ、確かにシアさんの指令をこなすのは苦労しそうですね」
つまり竜禅だけでなく白虎も他の聖獣も、悪魔の兄弟だって皆ルシフェリアの部下という事になる。そう考えると、途端に身近な存在に思えてくるのだから不思議だ。
(アレ? そう言えばシアさん、いつか私に「部下にならないか」って言ってきた事があったっけ……なんか素質があるとか、なんとか――)
綾那はふと、過去ルシフェリアにかけられた意味深な言葉を思い出した。しかしすぐさま首を横に振る。
もしあの時の言葉の意味が「リベリアスの管理者にならないか」だとすれば、おかしいのだ。何せ綾那は「表」の人間で、魔石がなければひとつも魔法を使えない体である。
結局、どういう意味だったのだろうか――なんて考えていると颯月が低く唸ったため、綾那は思考を切り上げて彼を見やった。
「しかし、白虎が嫌となると――誰を選ぶ? 正直言って騎士団は選り取り見取りだが、渚の眼鏡にかなうかどうか……どうせ「適当な」と言いながら、誰でも良い訳じゃあねえんだろう」
「…………そんな気がします」
深く頷いた綾那に、颯月はますます唸った。そして「これも一旦保留だ、渚本人にヒアリングするしかねえ」と言って、ソファから立ち上がる。
気付けば彼の休憩時間は五十分を超えていて、綾那は仕事を遅らせてしまった申し訳なさと共に、「休ませたった……! 私、あの颯月さんを無駄に五十分も休ませたったぞ……!」という、謎の達成感に打ち震えたのであった。




