法律の改正
颯月が仮眠を始めてから、約二時間。
綾那は彼の健やかな寝顔をじっと見つめて、見つめすぎて幸せのキャパオーバーを迎えると、ぼんやりと虚空を眺めて休憩して――やがて幸福ゲージが収まると、また寝顔を見てを繰り返した。
しかしその幸せな時間は、他でもないショートスリーパー颯月自身によって終わりを告げた。彼は二時間きっかりで瞼を震わせると、半覚醒の紫色の瞳でこちらを見上げてくる。そうして「ほう」と悩ましげなため息を吐き出したかと思えば、武骨な手で綾那の頬を撫でた。
「一日も早く、目が覚めて最初に見る顔をコレにしたい――」
寝ぼけまなこの割にハキハキと明朗な告白をする颯月に、綾那は破顔して「私もです」と答えた。
互いに『顔』が好きだというのは、分かりやすくて良い。ソレが崩れた時にどうなるかと考えれば、やや恐ろしい諸刃の剣にも思えるが――だからこそ、愛を失わぬよう美を保とうという強い意識が芽生える。
しかも綾那の場合は、顔だけでなく「決して今以上に痩せてはならない」という縛りも存在する。若いうちは太ろうと思えばいくらでも太れるから良いが、ある程度年齢を重ねた時は気を付けなばならない。
中年以降は代謝が落ちて痩せづらい、というのは有名な話であり事実なのだが――年齢を重ねるとともに食が細くなってくる、または大病を患った、なんて場合はまずい。
そうなると胃の容量や腸の消化能力の問題で、いくら健康的に肉をつけようと思っても難しいらしいのだ。
まあ、心配せずとも綾那は肉がつきやすい体質であるし、大病を患った時には「解毒」のせいで治療法なく死ぬだけなので、ある意味問題ない気もする。
逆に調子に乗って太ったところで、颯月は「骨じゃないならなんでも良い」と言って喜ぶだけだろうし。
綾那の膝の上に頭を載せたままググッと伸びをした颯月は、バネのように起き上がった。そうして綾那と隣り合って座ると、おもむろに肩へ腕を回して抱き寄せられる。
互いの体だけでなく顔も至近距離まで近付いて、綾那は信頼しきった表情で両目を閉じた。すぐ近くで颯月が短い笑い声を漏らしたかと思えば、ちょんと触れるだけのキスをおくられる。
綾那は、この上ない多幸感に包まれながら目を開いた。そうして間近にある颯月の顔をうっとりと見上げると、彼の身体に両腕を巻き付ける。
「――「もっと」って言ったら、困りますか?」
「………………………………今は、まだ困る」
「じゃあ、結婚した後なら?」
「むしろ言われないと困るし、まず結婚した後に困るのは、間違いなくアンタの方だ」
「……颯月さんが私を困らせてくださるんですか? 嬉しい、楽しみだなあ」
この上なく幸福で、綾那は満面の笑みになった。ただ色々な事を期待した結果桃色の瞳は潤み、普段真っ白な頬はほのかに熱をもって赤らんでいる。
いつもおっとりしていて、どこかズレた天然で。肉感的な体つきの割に、男女の機微などひとつも分かりそうにないと評される事も多いのだが――綾那は、確かに四重奏の『お色気担当大臣』なのかも知れない。
颯月は途端にグッと顎を引くと眉根を寄せて、「禅を呼ぶ……」と低く呻き、パチンと指を鳴らした。
「綾と付き合う男がことごとくダメになる理由が、なんとなく分かったような気がする……」
「でも、颯月さんは魂まで社畜に染められているから、ダメになってくれないでしょうね」
「永遠にこうして居られるなら、ダメにされるのも悪くないと思えてきた」
「じゃあダメにしたいです」
「……要検討案件だ」
十年以上休みなく働き続けて来たのだから、これから十年ほど休みなく甘やかしても、バチは当たらないのではないか。
綾那が呑気にそんな事を考えていると、執務室の扉が激しくノックされたのちにバァンと開かれて、血相を変えた竜禅が「今すぐに共感覚を切ってください!」と叫びながらダイナミックに入室して来た。
颯月は彼の登場にどこか安堵したような表情を浮かべると、鷹揚に頷いて再びパチンと指を鳴らしたのであった。
◆
ややあってから落ち着きを取り戻した竜禅に、「未婚で何もできないなら、そもそも妙な気を起こさぬよう節度をもって付き合えば済む話でしょう。どうして苦しむのが分かっていて、自ら近付くんです? そういう癖ですか?」と苦言を呈されて、綾那と颯月はそれぞれ対面のソファに腰掛けた。
そのまま竜禅の説教が続くかと思われたが、しかしノックもなしに扉が開かれて中断する。
次に入って来たのは、綾那にとっては久々に見る幸成だった。彼が片手で首を押さえながらぐるりと回せば、ゴキリと、不安になるような鈍い音が綾那の元まで届く。
「ふぃー、終わった終わったー……あ、綾ちゃんおかえり! 元気になったみたいで良かったよ」
「幸成くん! たくさん無理をさせてしまったみたいでごめんなさい、お陰様で元気になりました!」
綾那が立ち上がって深々と頭を下げれば、幸成は軽く笑って「平気、平気」と応える。やはりというかなんというか、幸成もまた綾那を責めるつもりがないらしい。
申し訳ない気持ちで眉尻を下げる綾那に座るよう声掛けした幸成は、そのまま颯月の隣へどかりと腰を下ろす。
「書類仕事に追われたって言っても、俺はちゃんとした入団希望者の相手がメインでマシだったよ。いざ新人が一気に入団して来たら、訓練が地獄みたいになりそうな予感はするけど……その地獄も半年ぐらいで落ち着くだろうし」
「……ほ、本当ですか?」
「うん。むしろ半年後には現場の騎士が増えて、俺らの仕事が減ってるかもって思ったら――迷惑どころか、ありがたいって。陽香ちゃん達にもお礼言いたかったけど、もうルベライトに向かったんだっけか?」
幸成はどこまでも快活に笑いながら「まあ確かに、和巳はちょっとしんどそうだけどな」と付け加えた。
「けど、和巳だってコレ乗り越えれば後は楽だからな。いつまで新規入団者が押しかけて来るのか分かんねえけど、囲える内に囲っといた方が良いだろ」
「囲んじまえば、少なくとも二年は安泰だからな」
「だろ? それにホラ……このタイミングで王太子殿下に即位してもらえばさ、女の戦闘行為禁止の法律だって取り消してもらえるじゃん。颯も元々、頼むつもりだったんだろ?」
幸成の言葉に、綾那は目を瞬かせた。以前より度々、次期国王である維月に何かしら頼み事があるだのなんだのと言う話は、持ち上がっていた。しかしまさか、その法律を是正するのが狙いだったのか。
綾那には、リベリアスの国王がどのタイミングで即位するものなのか分からないが――少なくとも「表」では、国の象徴たる天皇が代替わりすると言えば、元号が変わるほどの大事だ――確かに維月が法律を変えてくれれば、男性だけでなく女性だって「騎士になりたい」と思う者は多いだろう。
それが動画の効果がある今なら尚更で、しかも騎士団で働く女性が増えれば、「結婚しづらい問題」にも終止符を打つ事ができる。
「――あれ、でも……その法律がなくなると、桃ちゃんが騎士になりたいって言い出すんじゃあ……?」
前に桃華本人の口から聞かされたのだ。戦闘行為禁止の法律さえなければ騎士になって、自分も騎士服の袖に腕を通したかったと。幸成だって「この法律がなければ、桃華が危ない目に遭っていたかもと思うと複雑」なんて話をしていたし、問題ないのだろうか。
綾那の問いかけに、幸成は小さく肩を竦めた。
「そりゃあ正直、何も思わない訳じゃないけどさ。でも、女だからって問答無用で行動に制限かけられるのもおかしな話だろ? 平気で『自己防衛』する綾ちゃんを見慣れてきたってのも大きいかもな」
「あ、ええと……そうですよね、なんかごめんなさい……」
なんとも言えない複雑な表情で謝る綾那に、幸成は「いやいや、別に悪い事じゃないって」と続けた。




