好きなもの
「週一日休みをとって、睡眠時間を延ばして……他には? その二つさえ守れば、綾と俺は幸せな結婚生活を送れそうか?」
「うーん、そうですねえ……最低限その二つを守ってくだされば、安心できるんですけれど――あ、あと、仕事中の休憩はこまめにとって欲しいです」
「その辺りのタスク管理は綾がしてくれれば良い。綾が誘ってくれれば、俺は喜んで休憩する」
果たしてこの仕事中毒者が、本当に綾那が誘っただけで素直に休憩に応じるのか? と首を傾げたくなるものの――颯月本人が言うのだから、信じるしかない。
それでも若干疑いの眼差しを向ける綾那を見て、颯月は小さく笑って椅子から立ち上がった。そうして綾那のすぐ傍まで歩み寄ると、「早速だが仮眠休憩をとりたい、膝を貸してくれるか?」と言って目元を甘く緩ませる。
綾那はすぐさま頷いて、浅く腰掛けていたソファの隅に深く座り直した。颯月はゆっくりとした動きでソファに体を横たえると、綾那の膝の上へ慎重に頭を載せる。
目を閉じた颯月の顔を眺め、その頭の重みと幸せを噛み締めながら、綾那は彼の頭を撫でた。まるで猫のようにふわふわと柔らかい髪質は、何度触っても堪らないものがある。なんて愛おしい寝顔、そして得難いご褒美時間だろうか。
「颯月さん。もしお邪魔じゃなければ、眠るまで質問をしても?」
「うん? ああ、せっかくアンタと二人きりなのに、ただ眠るだけなのも勿体ないと思っていたところだ」
綾那ははにかんで、何から聞こうかと逡巡してから口を開く。
「ええと……ご趣味は?」
「――まるで、見合いみたいな質問だな。 趣味……趣味か。当然、魔法の詠唱を暗記すること以外で、だよな」
真剣に悩んでいるのか、颯月は目を閉じたまま僅かに眉根を寄せた。そんなにも深く考えている時点で、「つまるところ無趣味なのでは?」と思わなくもないが――かなり悩んでくれているようなので 綾那は黙って回答を待った。
しかし、結局それから二分ほど無言の時間が流れる。段々と綾那が「もしや寝落ちした……?」なんて不安に思い始めた頃――颯月はようやく口を開いた。
「もう何年も触ってないが、ガキの頃はピアノが好きだった」
「ピアノ、ですか?」
何やら意外な回答が返されて、綾那は目を丸めた。
こう言ってはなんだが、颯月にピアノのイメージはなかった。まあ、普段執務机に座ってペンを握っているか、外で「魔法鎧」を着て大剣を振り回している姿しか見ていないのだから、イメージも何もあったものではないのだが。
(いや、でも元王太子のお坊ちゃんだと思えば、ピアノって凄くお似合いのような……それに手が大きくて指も長いから、片手で一オクターブどころか、一オクターブ半でも余裕で届きそう)
ちなみにオクターブというのは、ピアノの鍵盤の『ド』から次の『ド』までの音域の事だ。長さにすると約十六から十七センチあるが、恐らく颯月ならば余裕で届くだろう。
綾那がじっと颯月の手を見つめていると、彼はどこか懐かしむように続けた。
「ガキの頃、正妃サマから一通り楽器を扱えるようになれと叩き込まれたんだが――俺はどうも、弦楽器が苦手らしくてな。コード進行とか弦の押さえ方とか覚えるのが面倒で……ヴァイオリンの弓を引くのも当て方が小難しくて、大嫌いだった」
「あれ……颯月さんやたらと記憶力が良いのに、意外ですね」
「そもそも興味がないと、覚える気にならん。その点ピアノは――というか、鍵盤楽器は分かりやすくて良い。決まった場所を叩くか押さえるかすれば、絶対に音が出るだろ?」
確かにピアノにしろ木琴の類にしろ、鍵盤がある楽器は押すか叩くかすれば大体音が出る。もちろん、プロと素人では音の出方が変わってくるが――しかし耳の肥えていない者からすれば、同じ音である。
対する弦楽器は、鍵盤のようにドレミファソラシドと分かりやすく順に並んでいる訳ではない。音階や和音のコードなど、まず押さえる弦を覚えなければならない。
弾き方にもコツがあり、弦を弾いてみたところでまともに音が出なかったり――ヴァイオリンの弓なんか、当てる角度によってはまるでガラスを爪で引っ掻くような不協和音を奏でてしまう事もある。
「正妃サマは、特に弦楽器が得意でな。教育の熱の入りようと言ったら――ああ、思い出したくもねえ。だから、余計にピアノが好きになった。アレの弾き方に関しては怒られた事がないからな」
「なるほど……じゃあ今度いつか、颯月さんがピアノ弾いてる姿を見てみたいです」
「いや、さすがにもう指が動かん気がする……見せるならリハビリしてからだな」
(――「嫌だ」とは、言わないんだもんなあ……繊維祭のイベントでかけられていたBGMと言い、こっちの音楽って「表」にはない初めて聴くものばかりだから……クラシックも全然違うんだろうな、楽しみ)
別に、断られたところで綾那はなんとも思わないのに。本当に根が真面目というか、律儀な男である。いや、断らない辺り本当に趣味だったと言えるのかも知れない。
きっと騎士団に入ってからは そういった趣味を楽しむ余裕も暇もなくなったのだろう。今後彼の休日と自由な時間が増える事によって、もっと多趣味になってくれれば良いのだが。
「綾の趣味は? 動画以外で」
「私ですか? うーん……前は料理するのが好きでしたけど、こちらでは火を使うにも水を出すにも魔力を流さないといけないので……厨房も食堂にしかありませんし、なかなか難しいですね」
「確かに料理人が居る以上、厨房は自由に使えないよな。いずれ綾専用の魔石と厨房を作らせるから、その時は手料理が食べてみたい」
「……相変わらずお金の使い方が豪快ですね。では、甘いもの以外で好きな食べ物はなんですか? 私はお肉が好きなんです」
何やら互いの事、それも、全く特別ではない普通の事を質問し合うのが楽しくなってきた。微かに口元を緩めて「卵料理全般」と答えた颯月に、綾那もまた微笑んで「可愛い」と返す。
その和やかな質問タイムは、やがて颯月が小さな寝息を立て始めるまで続けられた。




