交渉決裂
騎士団本部へ戻った綾那と陽香は、再び颯月の執務室を訪れた。もちろん、ルベライト行きを提案するためだ。
いまだ終わりの見えない、書類の山に囲まれた颯月とその補佐をする竜禅。陽香は一瞬「提案するにしても、明らかに今じゃなかったな――」と、ばつの悪そうな顔をした。
しかし、颯月が顔を上げる事なく「仕事の話なら手短に頼む」と告げると、遠慮しない事にしたらしい。明臣がルベライトに帰省する旅に『広報』として同行したいと、端的に説明し始めた――のだが。
颯月は説明を聞き終わるや否や、書類から顔を上げて目を眇めた。
「――絶対にダメだ」
「は!? なんでだよ、ケチ!」
「別に、アンタらは好きにすりゃあ良い。だが、綾がルベライトに行くのだけはダメだ。俺はルベライトに足を踏み入れられんと言っただろう、なんでわざわざそんな場所へ連れ去ろうとするんだ」
「いやいや、アーニャは『広報』の責任者だぞ!? 現場で指示してナンボだろ! 颯様と四六時中一緒に居なきゃ死ぬ訳でもあるまいし!」
陽香は至極真っ当な指摘をしたが、颯月は書類タワーの隙間からじろりと睨みつけるようにして彼女を見た。
「現場に責任者が必要なら、綾からアンタに変えれば良いだろ。綾は俺のところに永久就職するから異動だ。今日付けで異動する、もうした」
「なんだ急に、うるせーぞ」
「うるさいのはアンタだ。良いか、これは団長命令だ。聞けんなら『広報』は解体して、綾は檻に閉じ込めるからな」
「職権乱用! パワハラだ! あとDVもだ!!」
「なんとでも言え」
颯月は言いたい事を言って満足したのか、陽香が嘆いても喚いても全く気にせず、再び書類に目を落とした。取り付く島もない様子の彼に、陽香は眉根を寄せて竜禅を見やる。
しかし、書類を見ていても彼女の視線を感じたらしい竜禅は、すかさず「私は、颯月様の意思に反する事には加担しない」とNOを突き付けた。
すっかり寄る辺をなくした陽香は、恨めしそうな顔をして綾那に視線を送ってくる。言葉はなくとも、エメラルドグリーンの猫目が「お前からもなんとか言えよ!」と告げている。綾那は苦笑して、なんと言ったものかと考えた。
(うーん……颯月さんがダメって言うなら、私もそれに従いたいけどなあ。でも、ルベライトに興味がないかと言われると――旅行記の撮影だって楽しそうだし、私だけ仲間外れにされるのも寂しいものがある……)
四重奏は、「表」ではそれなりに有名なスタチューバーだった。
それはスターオブスター殿堂入り目前だった事からもよく分かるが、有名な上に『神子』で目立つ容貌をしているからと、気軽に旅行どころか、外出も満足にできなかった。
下手な事をして視聴者に盗撮されればその後の活動に支障がでるし、綾那の場合は主に異性関係で問題が多く、週刊誌の記者にも気を配っていた。
メンバー揃って旅動画を撮るのも面白そう――なんて意見は度々出ていたが、まず四人それぞれに抱える仕事も多く、まとまった時間を取りにくい。ソロ活動こそしていなかったが、四重奏の綾那に写真集企画、四重奏の陽香にトークショーの司会など、グループありきの個人依頼は多々あったのだ。
仮に時間が取れたとしても、盗撮、犯罪、晒しなどのリスクにビクビク怯えながら旅するというのも、味気ない。結局、実行するまでには至らなかったのだ。
その旅動画を撮るチャンスが今、目の前に転がっている。しかも、それを掴めるかどうかは、綾那の『お願い』に掛かっていると言っても過言ではない。
綾那の心の中にある天秤は、「颯月さんの意思に沿う」から「皆と一緒に旅動画を撮る!」に傾いた。
綾那は書類タワーを揺らさぬよう、慎重な動きで執務机を迂回する。そうして、タワーに囲まれながら椅子に座る颯月のすぐ傍まで行くと、多少あざとい事をしてでもお願いを聞いてもらおうと、口を開きかけた。
しかし綾那が何か発する前に、颯月は持っていたペンを机に置くと甘く蕩けるような笑みを浮かべた。紫色の垂れ目に真っ直ぐ見上げられて、綾那は言おうとしていた言葉を全てウッと飲み込んでしまう。
そうして代わりに口から飛び出した言葉は「す、好き……っ」だった。
颯月はますます目元を緩めると、綾那の手を引いてその頭を抱き寄せた。椅子に座る颯月に頭を抱えられたものだから、綾那は中腰で上半身だけ折った、少々情けない恰好をしている。
それでも、後頭部をぽんぽんと叩く心地いい衝撃にうっとりしていると、颯月は綾那の耳元に唇を寄せて低く囁いた。
「綾はアイドクレースに残るだろう? 残って、俺と結婚するよな? ……しないのか?」
「――――――――ひゃい! 私はここに残って! 颯月さんと、結婚します!!」
叫ぶように返事しながら颯月に縋りついた綾那の声を聞き、書類タワーの向こう側で陽香が「もぉお~~! アーニャァ~~!!!!」と嘆くような憤慨するような、複雑な悲鳴を上げた。
満足げな笑みを漏らして綾那の額、頬と場所を変えて口付ける颯月に、綾那はもう「ふえぇえ……っ」と奇声混じりの息を吐いて震える事しかできない。
ただ、最後に唇ではなく口の端にキスされた事については、少々じれったい気持ちにさせられる。
無意識の内に、その不満が顔に出ていたのだろうか。じっと黙って颯月を見やれば、「また今度な」と困ったように笑われた。機嫌を取るように長い指先で耳をくすぐられて、綾那もはにかむような笑みを返す。
気付けば、綾那の心の中の天秤は根元からポキリと折れている。「颯月さんと結婚して幸せになります、今まで本当にありがとうございました」一択になってしまった。
ただ、それと同時にちょっとした疑問が頭をもたげる。果たして、颯月は今もルベライト入りを禁止されているのだろうか――と。
綾那は上体を起こすと、彼を見下ろしながら首を傾げた。
「颯月さん、お義父様は今もルベライト入りを禁止すると思いますか……? いえ、例え解禁されたところで、この仕事量では身動きがとれないでしょうけれど……元々、輝夜様のご両親――ルベライトにいらっしゃるお爺様お婆様に、颯月さんが連れ去られる事を危惧されていたようですから。今はもう、そのような心配もなくなっているのでは?」
「うん? ……なるほど、その発想はなかったな。機会があれば、今度確認してみよう。俺はどうも、一度ダメと教わった事は一生ダメなものとして考えるタチらしい」
確かに彼は、傲岸不遜に見えて根が真面目なところがある。正妃からダメと言われた事は絶対にしないし、許可を得ようと交渉する事もない――まあ、単純にトラウマが邪魔をするだけかも知れないが。
「あれ? じゃあ、もしかして私と一緒に正妃様に「婚前交渉しても良いですか」って聞いてみたら、意外とイケるのでは――」
「………………仮にイケるとして、だ。そんな情けない真似はしたくない。なんでアンタとアレコレするのに正妃サマの許しが要るんだよ――おかしいだろ。それにわざわざそんな事をしなくとも、もうすぐ好きなだけできるようになる」
颯月は言いながら、綾那の腰の辺りを大きな手の平で撫でた。嫌がるでもなく幸福いっぱいの顔で笑って頷く綾那に、すぐ近くで書類に目を通していた竜禅が大きな咳ばらいをする。
「颯月様――仲睦まじいのは大変よろしい事ですが、まずは目の前の仕事をなんとかしてください」
「……なんだ、『共感覚』を切っているから寂しいのか? 特別に今の心境をお裾分けしてやっても良いぞ」
「本気でおやめください、正気を疑います。……陽香殿も、悪いが颯月様は今回意志が固いようだ。綾那殿がこの地を離れて、ルベライトへ行くのは難しいだろう……ただ、他の『広報』が遠征する事に関してはお許しのようだから、安心すると良い」
暗に潔く諦めろと告げられた陽香は、不貞腐れたように唸った。
「そりゃあ別に、無理にとは言わねえけどよー……せっかく、皆で旅行できると思ったのになー」
「ご、ごめんね……すごく結婚したくて、離れられそうにない……」
「うるせー、惚気んじゃねえ。てか、じゃあアイドクレースから誰か騎士連れてっても良い? できれば、うーたん辺り」
綾那を連れて行く事については諦めがついたのか、陽香は次なる交渉に入った。彼女の要請を受けた颯月は、やや苦み走った顔をする。
「右京は今回、俺が席を外している間に相当な無理を強いたから……厳しいんじゃねえのか。一応本人にも確認してみるが、あまり期待はするなよ」
「おー、期待せずに待ってるわー。はあ……アーニャ、腹減ったから飯行こうぜ。颯さマグロと禅さんは忙しいみたいだから」
見るからに意気消沈してしまった陽香に苦笑しながら、綾那は退室の挨拶をしてから執務室を後にした。




