毒の効果
ガラス越しならば毒は漏れ出さないのか、それともこの世界の神には毒など効かないのか――ルシフェリアは毒物が入っているらしいビンを抱えて、無邪気に笑っている。
陽香は固唾を飲み撮影に集中しているようで、我先にとルシフェリアの元へ駆け寄った。
渚もまた、「綾が触れるものだから」と本人よりも先に正体を確かめたかったのか、陽香と共に近付き――ビンの中身を見て、僅かに眉を顰めた。
(―――な、なんだろう、私が「解毒」しないといけないモノって……なんか動いてなかった? 気のせい……?)
綾那は顔を青褪めさせて、じっとビンを凝視した。とは言え、ルシフェリアを囲うように陽香と渚が立っているため、ビンの中身は確認できない。
「毒、ちゃんと残ってたの? 悪魔が逃げるついでに、街に流されちゃってるとかない?」
まだ毒の込められたモノを目にしていないアリスが、後から明臣と竜禅を連れてやって来る。ルシフェリアは相変わらず陽香と渚に囲まれたまま、声を上げた。
「うん、平気だよ。あまりにも君らの到着が早かったから、コレ一つしか用意できていない。魔法陣が発動した事に、よほど驚いたのかな。全部破棄して、慌てて逃げたみたいだね」
「そのビンの他に精製された毒は? 別の場所へ持ち出された可能性はないのか」
颯月は毒以外にもまだ何かしらの罠か仕掛けでも残っていると考えているのか、綾那の傍を離れないまま問いかけた。
「ああ、そうだね。ちゃんと全部処理してもらわなくっちゃ……ねえ、そっちの机にまだ精製前の毒が残ってるから、先にそっちをどうにかしてくれるかな」
机と言われて間近のものを見やれば、確かにフラスコのようなものが三つほど残されている。
中にはそれぞれ、無色透明な液体、黄色い液体、薄桃色の液体が入っているようだ。恐らく全てが毒薬で、これらを配合する事によって更に強力な毒物が出来上がるのだろう。
綾那の「解毒」は、直接触れるか体内に取り込むかしなければ、どういった効果をもつ毒なのかが判断できない。「表」にも存在する類のものなのか、それとも静真の悪魔憑きアレルギーのように、綾那自身何を打ち消しているのか分からないようなものなのか。
(ていうか、本当に毒……だよね? 触ると手が溶けるとか、火傷するとかないよね――)
やや緊張した面持ちで机まで近付けば、綾那に付き添うように動く颯月が「分析」と唱えた。
「全て神経毒の類だな。魔物由来のものばかりだが、キラービーの睡眠毒を打ち消せる綾なら問題ないだろう――いや? これは……」
颯月は三つのフラスコ、それぞれにどんな毒が入っているのか確認してくれたらしい。しかし、「問題ない」と言いながら彼が目を留めたのは、空のフラスコだった。
いや、正確に言えば、底に何かしらの液体が数滴分残ったまま、コルクで蓋をされたフラスコである。
綾那が首を傾げれば、颯月は空のフラスコに手を伸ばしかけて――やめた。
「――創造神、この毒はなんだ? 悪魔に配合されたものか」
「そうだよ。そこにある三種類の毒と、他にも色んなものをちょっとずつ混ぜて作ったみたいだね。ちなみにこっちのビンの中身もソレだ」
「本当に、綾に打ち消せるものなのか? 「分析」しても何も見えんぞ。……いや、そもそも毒なんだよな?」
颯月の言葉に、渚もまたギフト「鑑定」を発動したらしい。彼女はじっとルシフェリアが抱えるビンを見つめていたが、ややあってから信じられないと言った様子で「本当だ」と呟いた。
どうも、魔法でもギフトでも悪魔ヴィレオールが作り出した新種の毒が何に作用するものなのか、解明できないようだ。
(じゃあ、悪魔憑きアレルギーの時と同じ感覚になるのかな……何を打ち消してるか分からないまま「解毒」する事になりそう)
綾那は少し考えてから、まず先に三つのフラスコを片付ける事にした。これらの他にも色々と混ぜると厄介なモノが出来上がるらしいが――少なくとも単体であれば、問題にならないだろうと考えたのだ。
念のため一つずつフラスコを傾けて指で直接液体に触れれば、ほんの一瞬だけ針でチクリと刺されたような痛みを感じたものの、やはりすぐさま「解毒」されていく。
ただ綾那が触れただけで毒薬がただの液体になるのだから、なんともお手軽なお仕事である。
隣で見守る颯月は、いまだ「分析」を発動しっ放しのようだ。次々と無毒化されていく液体に「さすがだな」と口元を緩めた。
そうしてついに、空のフラスコの底に残された謎の毒の番だ。ほんの僅かとは言え、危険なものに違いはない。打ち消す力があるのだから、ついでに無毒化すべきだと思ったまでの事である。
綾那はフラスコを手に取り、さてどう「解毒」したものかと思案した。底にほんの少し残されただけの毒。周囲に害を及ぼす事なく、安全に触れるにはどうすべきか。
フラスコを傾けたとして、雫程度しか残されていないモノに余さず触れられるだろうか? いっそ水か何かを注いで体積を増やし、無理やり触れた方が確実である。
(――あ、いや、このコルク……抜いて平気なのかな。シアさんがもっているビンも密閉されているみたいだし、もしかして気化する毒だったり?)
フラスコを持ったまま考え込む綾那に、遠くからルシフェリアが声を投げかける。
「よく思い留まったね、偉いよ。君が考えている通り、あまり撒き散らすのはよくない。気化する訳ではないけれど、水溶性が高いんだ。さすがにこの場所まで海水が入り込んでくるとは、思わないけれど……でもこの先何十年、何百年も永遠に海に沈まないとは限らないでしょう? そんな危険なものは、雫ほども残して欲しくないな」
「あっ……ええと、ではどうすれば良いですか? 上から水を注いで、直接触れられたらと思っていたんですけれど……」
「うん、それは悪くない考えだ。君の力のお陰でただの液体になったものが、三つもあるしね……それで割って飲んじゃうのが一番だと思うよ」
「の、飲む? でもそれだとどうしても底に毒が残って、結果同じ事の繰り返しなのでは……」
「平気さ、ただの液体になったとは言え、それらは全て魔物の体から抽出されたものだ。ヴィレオールの毒はかなりシビアな配合によって完成したものだから……余計なものが混ざれば混ざるほど、毒の脅威は減っていくって事。でも、ただの水じゃあこうは行かなかったよ? 君らはラッキーだったね」
「毒が抜けてただの液体だけど、水じゃないって……それってつまり、元は魔物の血とか体液とかなの? スタチューバーたるものゲテモノ食いは慣れっことは言え、なかなかの試練ね……」
アリスは複雑な表情になったが、しかし皆して魔物肉を「美味しい美味しい」と食べている時点で、ゲテモノ食いも何もあったものではない気がする。
まあ確かに、「生き物の血を飲むのだ」と考えるとやや抵抗感は上がるが。
綾那は、被毒しては大変だからと一旦颯月に距離を取るよう告げた。
即効性のある毒が相手では、いくら「解毒」もちでも意味がない。効果を打ち消す前に、颯月が事切れてしまっては大変だ。
自分自身の毒を打ち消すのと、他人の体内に入った毒を打ち消すのでは、効果が発動するまでの時間にやや差があるのだから。
綾那は問題のフラスコのコルクを抜き取ると、無毒化した液体を三つ分流し込んだ。全て合わせても二百ミリリットルに満たないため、一気飲みするのも容易い量だろう。
正直言って味わいは不明だが、刺激臭がする訳でもないので、『まずい肉』ほどのダメージはないはずだ。三種類まとめてちゃんぽんせずとも、一種類ずつ注ぎ毒を薄めては飲んでを繰り返したって、余裕な気はしている。
何せ綾那はスタチューバー、罰ゲームには慣れている。騎士が悶絶する『まずい肉』だって、吐き出さずに飲み込めるのだから。
(でもなんかゲテモノと言われると、一気飲みするしかないような気がするんだよね……平気な顔して三回も同じ事を繰り返すのって、よくないと思う!)
やはり職業病なのか。どれだけ演者として離れていても、動画映りと構成を考えずにはいられないのだ。
毒を飲み干す一連の流れを、罰ゲーム感を匂わせずに淡々と終わらせるなど、綾那にはできなかった。陽香が楽しげにカメラを向けているため、尚更だろうか。
そうして出来上がった「謎の毒物入り魔物の体液ジュース」をひと思いに煽れば、非常に残念な事に、それは無味無臭の水であった。体の負担を思うとありがたい事だが、しかし動画的な盛り上がりを考えると残念だ。完全に没動画である。
だからと言って、まずいと嘘のリアクションをする訳にも――なんて呑気な事を考えていると、途端に綾那の口内から喉、食道にかけて、焼けつくような違和感に襲われてビクリと肩を揺らす。
幸いにしてその違和感は瞬時に消えたが、しかし体内に入った毒が「解毒」で打ち消される感覚が延々と続いて、止まらない。
初めて静真と会った時、長年彼の体内に蓄積されたアレルギー物質を打ち消すのに手間取った時とは訳が違う。これが意味するところはつまり、悪魔ヴィレオールの作り出した毒はとんでもない代物であるという事だ。
「解毒」の力が負けている訳ではないが、しかし完全に無毒化されるまでかなりの時間を要するだろう。
(ちょっと残ってた数滴だけ、しかも毒の配合を変えて薄めたのにコレって……シアさんが直接動くはずだよね、こんなものが街の生活用水に混ぜられたら、普通の人は堪ったものじゃあないはず)
こんなにも長時間「解毒」が発動し続けるのは初めての事で、何やら落ち着かない。
死ぬ訳ではないので平気だとは思うが、いつまでも体内に毒が残っていると思うと、気疲れすると言うかなんと言うか……一刻も早く打ち消し終わって欲しいものである。
「どうした綾、平気か?」
「あ、はい……でも、完全に打ち消すまで、かなり時間がかかりそうです。体はなんともありませんよ」
綾那が苦笑いすれば、颯月はホッと安堵の息を吐き出した。
綾那もまたひと仕事終えた心地になって息を吐いたが、しかしすぐさまルシフェリアから「まだ終わってないよ~、次はこっち!」と言われて顔を上げた。
そう、まだルシフェリアの抱えるビンが残っているのだ。それも、割りものなしの純粋な毒が。
綾那は今も発動し続ける「解毒」に辟易しながらも、ここまで来たらどれだけ毒を受けようと同じ事だと覚悟を決めて、ルシフェリアの元へ向かった。
――何故かにやついた顔でカメラを回し続ける陽香と、眉を顰めたまま憮然とした表情の渚を見ても、一切警戒する事なくただ真っ直ぐに。




