海岸線へ
やがて魔法の発動音は聞こえなくなって、眷属が葉を揺らす事もなくなった。
森は不気味な程しんと静まり返り――しばらくすると、眷属との戦いに怯えていたらしい原生生物も落ち着きを取り戻したのか、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「……良いんじゃない? 綺麗に片付いたね」
満足げに頷くルシフェリアの様子を見るに、森に居た八十体もの眷属は全て狩り尽くされたのだろうか。それら全てに追い駆け回されたであろう陽香には、心の底からお疲れ様と伝えたい。
本当に、今回彼女にかけられた光魔法の威力は凄かった。以前はルシフェリアも本調子でなかった上、眷属の掃討が目的でなかったため手を抜いていたのだろうか。綾那が魔法を掛けられた時とは、眷属の釣果が全く違う。
こんな大乱闘――しかも周辺の眷属を百パーセントの確立で求心する力をもっていたら、恐らく綾那の護衛は颯月一人では厳しかっただろう。
アイドクレース騎士団を挙げての掃討作戦になっていたに違いない。
「ていうか、アレ……陽香、平気なんでしょうか? 魔法の効果はいつ頃切れますか? もうこの辺りには眷属が居ないみたいですけれど、あのまま王都に戻ったら大変な事になりますよね」
「ああ、安心してよ。魔法の効果は、後で僕が打ち消してあげるから」
「――に、任意で打ち消せるんですか!? だって、私の時はそんな事……」
「君の時は、そもそも目的が違ったじゃあないか。僕はただ、君と颯月がいっぱい仲良くできると良いなあと思って魔法を掛けたんだから」
「えっ。あれ、それは……ありがとうございますと言うべきなのか、とっても大変だったんですよと文句を言うべきなのか……?」
うーんと悩む綾那に、ルシフェリアは「何を言っているのさ、感謝するべきでしょう」と言って笑った。
まあ確かにあの工程を経たお陰で、綾那と颯月は本当の意味で両想いになったのだ。ルシフェリアが何かしらの助言をしてくれたからこそ、颯月の貴重な私服姿を拝む事もできた。首筋にまで刺青が入っている事も分かったし、あの日の颯月は「宇宙一格好いい」なんてレベルを軽く超越していた。
(うん……そう考えるとシアさんには、感謝しかない……早く新規入団者が増えて、颯月さんのお休みが増えれば良いのに。そうしたらもっとたくさん、私服姿を拝めるようになるのにな)
綾那がうっとりと未来に思いを馳せていると、いつの間にやら戻って来ていたらしい陽香が、家の入口で「おぉ~~い……」と、疲弊した声を上げた。
◆
竜禅はこの地に駐屯するようになってから、よく目元のマスクを外すようになった。どうも、森の中に敷かれた白虎の罠とも言える魔法陣を視認するのに、「水鏡」の掛かったマスクは邪魔らしい。
うだるような熱気と高い湿度、しかもつい今しがたまで眷属を追い森中を駆け回っていたにも関わらず、彼は涼しい顔をして汗一つかいていない。
やはり、人間ではなく聖獣だからなのか――とも思ったが、しかし見れば明臣と颯月も同様で、暑さで頬が上気する事すらないのだから不思議だ。
(やっぱり騎士服って何か……温度調節の魔法でも掛けられてる? それとも『騎士』がおかしいだけ?)
すっかり汗だくになってヒイヒイ言いながらリビングに倒れ込んでいる陽香を見れば、彼らの異質さがよく分かる。
そもそも陽香の体力は相当なものだ。しかしこの暑さの中二、三時間に渡る掃討作戦――もとい高負荷の運動を続ければ、息も絶え絶えになって当然の事だ。
なんだか数時間前よりもげっそりと痩せ細った気がするのは、やはり常時「軽業師」を発動し続けてしまう彼女の性質のせいだろうか。
陽香がこの短時間で消費したであろうカロリーを考えると、少し恐ろしくなる。
明臣が苦笑を浮かべて陽香に洗浄魔法を掛ければ、ひとまず汗だくになった服や体は綺麗になった。とは言え、彼女自身がまだ発汗しているため、完全に乾くまではもうしばらくかかるだろう。
「とりあえず、依頼の第一段階は終えたな。しかし、あんな数の眷属を一度に相手にしたのは生まれて初めてだ……正直、楽しかった」
「あ、実は私も少しだけ……ま、まあ、囮役の陽香さんには、大変な思いをさせてしまったと思いますが……」
「陽香殿は、休みなく駆け回っておられたからな。ただ眷属を叩くだけの我々よりもよほど疲れただろう」
まるで「メチャクチャいい運動して、ストレス発散できました!」とでも言いたげなスッキリとした表情の騎士に、陽香は何かを言いかけた。しかしまだ呼吸が整わないのか、結局何も言わずにぱたりと顔を伏せる。
緑コケだらけのフローリングが程よく冷えていて、心地いいのかも知れない。
彼らはできる限り木々を傷めないよう、水や氷の魔法をメインに眷属狩りをしたらしい。ただ。それでも全くの無傷で済ませるのは難しかったようだ。
火で燃やすよりは遥かにマシとはいえ、熱帯の気候に則した植物に氷の冷気は厳しいだろう。ただでさえ多湿で地面もぬかるんでいるところへ更に水を掛ければ、根腐れする事もあるはずだ。
また、空を飛ぶタイプの眷属相手には雷魔法を落とすのが早いからと多用して、いくつか焼け焦げた木もあるらしい。セレスティンの住人には、眷属による人間の被害と比べれば良いと思って飲み込んでもらうしかない。
「――さあさあ、眷属が終わったら次はヴィレオールだよ! 準備して、準備!」
ルシフェリアが紅葉のような手をぱちんと叩くと、陽香の身体が光に包まれた。その光は一瞬で弾けるように霧散して消えてしまう。
これは彼女の身体を回復させた訳ではなく、ただ単に先ほど囮として掛けた光魔法を打ち消しただけだろう。
陽香は僅かに顔を上げると、「おい、もう行くのかよ……」と力なく嘆いた。体力が回復するどころか呼吸も整わないのだ、それは嘆くに決まっている。
「今は『あるモノ』へ毒を込めるのに夢中になっているけど、あんまり悠長にしていると、森から眷属が居なくなった事にヴィレオールが気付いちゃうよ。そうしたら、せっかく綺麗に討伐した眷属がまた増やされる。早めに移動した方が良い」
「うぐぐ……魔石……魔石の補充した方が良いか? さっきほとんど撃っちまったからさ……」
億劫そうに起き上がった陽香の手には、渚が設計し、アリスが創りだした魔石銃が握られている。
彼女が普段愛用しているものより重量がある上、かさばる魔石を持ち運んでいたせいだろうか。よく見れば、腕がぷるぷると震えているようだ。あれは確実に筋肉痛になるだろう。
「いやいや、なくても平気だよ。よく頑張ったねえ、君はもう、ついてくるだけで良い。そんな重いものより、大好きなカメラでも構えてると良いんじゃないかな」
「――カメラ? なんで? いや、まあ何もしなくて良いってんなら、喜んで撮影するけどさ……ヴェゼル以外の悪魔見んの、初めてだし」
陽香は首を傾げながらも、魔石銃と撃ち出すための魔石をリビングに置いた。そうして大きく伸びをすると、魔具ではなく自身のスマートフォンを手に持つ。ここぞで充電切れを起こさぬよう、まだ撮影は開始していないようだが――陽香の事だから、きっと撮れ高だけは死んでも逃さないだろう。
ルシフェリアは朗らかに笑うと、今後の説明を始めた。
「ええっとねえ……とりあえず騎士の君らには、魔法を使ってヴィレオールを追い払って欲しい。あの子は、毒の精製さえ終われば人間に打つ手がないと思っているから、少し脅せばすぐに逃げ出すはずだよ」
「……やっぱり、倒す訳にはいかないんだな」
「そりゃあそうさ、この世界から『雷』が消えたら人間は生活しづらいでしょう? たくさんの人が死んじゃいかねないしね……いくらおバカでも、殺すのはダメ」
「――毒の精製さえ終われば打つ手がないって言うのはどういう意味です?」
颯月を諭したルシフェリアは、続く渚の問いかけに答えた。
「ゆっくりと死に向かう病と違って、即効性のある毒……しかも水からだけでなく人からも空気からも感染する毒なら、薬の調合も服用も間に合わない。ヴィレオール的には、『とあるモノ』に毒を込められれば終わりなんだよ。あとは本人が居なくたって、勝手に毒が広がっていくからね」
「なるほど、そうなる前に阻止しろと。まあ、わざわざ『とあるモノ』とやらに込めるのに夢中で、精製した毒を直接生活用水に流そうとしないだけラッキーですね。遊びたがりというか、なんと言うか――」
「確かにそうね? なんでそんな面倒な事するのかしら、直接流せばイチコロなのに」
ルシフェリアは問いかけに答えるでも頷くでもなく、ただ薄っぺらい笑みを浮かべているだけだ。
綾那からすれば、会った事のないヴィレオールの心理など分かるはずもない。しかし、好奇心旺盛な知りたがりという情報から察するに――直接毒を流すのでは、確実にセレスティンの街が滅ぶからだろう。
あくまでもヴェゼルから聞かされた印象に過ぎないが、ヴィレオールは不確定要素を確定に変える工程を楽しんでいるのではないかと思うのだ。
治療薬のない状態で病を蔓延させたら、街の人間はどうなるのか。ただ人間を殺したいだけならば、人から人へ感染するのを気長に待つのではなく、もっと大量に病原菌をばら撒けば良いだけの話だ。
そうしなかったのは、殺すのが目的ではなく「どうなるのか」を知るのが目的だったからだろう。まあ、結局は『緑の聖女』に治療薬を作られてしまい、正確なデータは取れなかったようだが。
街を壊滅させるのに必要な眷属が何体か調べたいなんていうのも、きっと同じ理由だ。
そして、眷属を作り続けたらリベリアスの均衡がどうなるかと言うのも――あくまでもルシフェリアが「壊れる」と言っているだけであって、試してみなければ結果が分からないから試すだけ。
だから、確殺できる「生活用水に毒そのものを流す」という直接的な手段を使わずに、わざわざ『とあるモノ』に込めるのではないだろうか。
もしかしたらそれは、時間をかけて水に溶けるようなカプセルかも知れない。それが溶けて毒が流れ出る前に、人間が気付いて取り除く可能性もある。
カプセルが溶け切る前に用水路の乾いた部分に引っかかって、毒が流れ出さないまま失敗に終わるかも知れない。下水道に住む生き物が誤って飲み込めば、その生き物だけが死んで水には毒が一切流れないかも知れない。
ヴィレオールは、そういった可能性を一つ一つ試していく事に喜びを感じているのではないだろうか。そうでなければ、彼の現在の遊び場だというセレスティン領はとっくの昔に滅びているに違いない。
「とにかく、移動を始めようか。ヴィレオールさえ追い払ってくれれば、あとは綾那が頑張って毒の処理をするんだ」
「分かりました、「解毒」ですね」
綾那の言葉に、ルシフェリアは目を細めて笑った。
かくして一行は、息も絶え絶えに「しんどい」と嘆く陽香に苦笑しながら、ヴィレオールが潜んでいるという海岸線の洞窟を目指した。




