渚の3か月
例えば飲食物が手元にないとか、寝泊まりする場所がないとか――必要に迫られた場合には、渚も能動的に動いたのかも知れない。しかし、得体の知れない世界にいきなり一人放り出された渚は、家から半径一キロ圏内より先には行動範囲を広げなかった。
ただでさえ、魔物なんていう「表」に存在しない生物が跋扈する世界なのだ。そもそも、まともな人間が住んでいるのか――住んでいたとして、それは意志の疎通を図れる相手なのかどうかも分からぬ状態で、無策に動き回るのは悪手だ。
しかし、そんな渚の意思に関係なく、セレスティンの住人はジャングルへやって来た。彼らはいつも通りに森へ入り、いつも通りに採取を済ませて、街へ帰るはずだった――この半壊した謎の家を目にするまでは。
恐らく目的は、木材または何かしらの果実など、生活に不可欠な素材の採取だったのだろう。
渚が後から街の住人に聞いた話では、どうも数週間おきに森へ採取に訪れているとの事らしい。彼らの通り道に家ごと「転移」してしまった以上、どう足掻いても渚と住人のエンカウントは避けられなかったに違いない。
ほんの数週間前にはなかったはずの家が存在する事。そして、その様相が「新たに建てられた」というよりは、「かなり前からこの場所に建っていた」といっても過言ではないほど、森に飲み込まれて荒廃していた事。それらの事実は、セレスティンの住人を震え上がらせた。
「一体いつからこんなものが」「今までずっと、何かしらの魔法で目くらましをされていたのか」「魔物だらけの森に住んでいるなど、悪魔か魔女に決まっている」そんな事を話し合いながらおっかなびっくり家を見ていると、二階の窓に、世にも珍しい緑髪をした女が映る。
――やはり魔女だ。
渚の姿を見た住人達は、彼女と話す事なく大慌てで街へ舞い戻った。渚もまた初めて目にした原住民を警戒しており、自ら進んで関わろうとはしなかったのだ。彼らの後を追いかけるなんて、もってのほかである。
住人達は森の異変について領主に掛け合い、「知らぬ間に謎の魔女が住み着いている」「今後何が起きるか分からない」と直訴したらしい。
どうも他領と海で断絶されたセレスティンは、滅多に現れる事のない異大陸の人間について、特に免疫が少ないようだ。
この地には「人と違う姿をしたものは異質である」、「恐ろしいものである」という閉鎖的な考えが蔓延しており――なんとなく、南国なら陽気で大らかな人種に育ちそうなものだが――リベリアスの中でも、かなり保守的な人種らしい。
彼らにとっては、緑髪の人間なんて異質もいいところだっただろう。
突如として現れた脅威に、領主はすぐさま手を打った。セレスティン領で守り神として敬い崇め奉られている聖獣――白虎に頼んで、魔女を追い出そうと画策したのである。
◆
「聖獣、白虎――それが、この家の周りに魔法陣を敷いてたヤツか?」
渚の説明を聞いた陽香は、こてんと首を傾げた。
「そう。なんか名前が偉そうでムカつくから、私は「トラ」って呼んでるけどね」
「守り神の聖獣が、まるで飼い猫みたいな愛称付けられてる……」
呆けた様子のアリスに、渚は「実際、でかい猫なんだよ」と言って肩を竦めた。
白虎とは、リベリアス南部に位置するセレスティン領を棲み処として生きる聖獣である。司るのは、世界中の『風』――つまり大気だ。
もしも白虎が害されるような事があれば、リベリアス中の風どころか、全ての空気が消え失せる。
ルシフェリア曰く、この世界をドーム型に覆う空気の膜まで消えてなくなるらしい。空気が、酸素がという話以前に、世界そのものが「表」の深海に沈んで終わり――という事になる。
他領での扱いは知らないが、とにかくセレスティンでは『聖獣』の格が高いらしい。人ならざる神々しい姿に、風を自在に操る力で魔物や自然の脅威を退けるからだ。
熱帯な気候と長雨による高い湿度のせいで、セレスティン周辺の海上では頻繁に巨大な竜巻――「表」でいうところの、台風だろう――が自然発生するらしい。
しかし白虎さえ居れば、そんなもの上陸する前に打ち消してしまえるのである。ただでさえ閉鎖的な島国だから余計に信仰が深まるのか、白虎は大昔からセレスティンの住人に崇め奉られて生きてきたのだという。
そんな白虎に届いた『お願い』が、いつの間にやらジャングルに住み着いた『緑の魔女』を追い払って欲しいというものだった。
「緑の魔女」
「そうよね、聖女じゃあなくて魔女よね――」
「なんなの二人共、失礼過ぎない? ――とまあ、そんなこんなで白虎……もといトラが、家まで様子を見に来たんだけど。色々あって、今は私の配下になってるって感じかな。頼んでもいないのに庭に敷かれてる魔法のトラップだって、アイツの自由意志だしね」
「オイ待て、そこから何があったら『守り神』を『魔女』の配下にできるんだよ!? 一番重要なところだろ!」
さらりと話の本筋を端折った渚に、陽香は思わずと言った様子でツッコんだ。
ツッコまれた渚は、面倒くさそうな半目を更に細めて「聞かれても困るよ。私もなんでこんなに好かれてるのか、分からないし」と息を吐く。
「――正直、魔女とか目的とか聞かれても知らないし、とにかく面倒くさかったから、何日も無視してただけ」
「地域住民に崇め奉られる守り神を、何日も無視」
「そうしたらなんか、変なスイッチが入っちゃったんじゃあないの。何百、何千年とこの閉鎖空間で、ただ生きてるだけで人にヨシヨシされて来たヤツだよ? ぞんざいに扱われて、新鮮だったんでしょう……事実、雑に扱えば扱うほど喜ぶ気持ち悪いヤツだから」
「ナギ、お前――やっぱナギだな……なんでそんな事するかな、怖……っ」
陽香が「物理が効かなそうな超常的な存在」以外に恐れるのは、渚だけかも知れない。人間離れした力をもつ守り神を相手に、恐れはなかったのだろうか。
一体、何を思ってそこまで傍若無人に振舞ったのだろうか。
「色々……面倒くさかった。この状況も、土地も、住人も。綾が――皆が居ないと何も楽しくないし、全部どうでも良かった」
「いきなりデレるのやめろ、ツンデレ担当。そうか、その時はまだシア……天使と会ってなかった訳だな? それであたしらの生死どころか、同じ世界に存在しているかどうかすら、分からなかったと」
「うん。あの自称天使と会ったのは、この辺りで妙な流行り病が蔓延してた時だったかな? あの頃は街の人達がトラに「助けてくれ」「病を何とかしてくれ」って何度も頼みに来てたけど……別に風を操れるだけで、神様じゃあないしね」
渚はそのまま「トラはトラで大変なんだなって、その時初めて思ったよ。皆、なんでもかんでもお願いしに来るんだから」と、呆れたような笑みを浮かべた。
そんな渚に向かって、アリスがおずおずと問いかける。
「その時はまだ、自分のギフトでセレスティンを救おうとは思っていなかった……のよね? 渚は」
「当然でしょ、面倒くさい。私になんのメリットもないし……大してデメリットも感じなかった。私も病にかかればそれまで、くらいに思ってたよ――あの天使から、綾が生きてるって聞かされるまではね」
途端に声を低めて舌打ちを漏らした渚に、陽香とアリスは揃って「やはり病を収束させたのと領主を殴った理由は、そこにあったのか」と深く頷いた。
「それまでは、街の事なんて一つも興味がなかったけど――聞けば、頭の悪い領主が病を広げてるって言うからさ。天使から、ここは島国だし領間の行き来を制限してるし、綾の住む場所まで病は届かないなんて聞いても、何ひとつ安心できないじゃん。「服薬しなきゃ治せない」なんて聞けば、尚更ね」
「それで、領主をぶん殴ったと」
「そう。ついでに、そのまま領主で薬の治験してやった。お陰で皆が助かって、めでたしめでたしって訳だね」
「おう、めでた――いや、お前マジで怖えわ! やってる事マッドサイエンティストか、テロリストだからな!?!?」
「そもそも領内でバイオテロを起こした張本人なんだから、誰かに襲われても仕方がないんじゃあないかな。……結果、副作用も後遺症もなく生き延びて、すごくラッキーだったとは思うけど」
「相変わらず、「綾那以外の人間どうでも良い」感が物凄いわねアンタ……!?」
ショックを受けた様子の二人に向かって、渚はうっそりと微笑んだ。
そして「一応、二人の事も小指の先に引っかけてるつもりだけどな」と嘯いたため、陽香もアリスも喜んでいいものやら、「小指の先で安心できるか」と憤慨すればいいものやら、分からなかった。




