罠
颯月の厚意を利用して自身の欲望を満たした、その罰が当たったのだろうか。二十一年間生きてきた中で、至上最高――いや、最幸の水分補給を終えた後、綾那はまるで糸が切れた人形のように、カクンと意識を失った。
そうして、つい今しがた補給したばかりの水分が全て出てしまっているのではないかというレベルで、尋常ではない量の汗をかき始めたのである。
少しでも熱を下げるための反応なのか、それともただ単に高すぎる外気温のせいなのか――とにかく、また体温が上昇してしまったらしい。
颯月は綾那を抱えたまま立ち上がると、魔法を使って綾那と自身の汚れた服を洗浄した。その間にも彼女の名を何度か呼びかけたが、反応はない。一刻も早くどこかで休ませてやらねば危険だろう。
「陽香、家の様子はどうだった」
「空中浮揚」を利用した偵察を終えた陽香が、ふわふわと戻って来る。彼女が地上に降り立つと同時に、颯月が問いかけた。
しかし陽香は、首をゆるゆると振った。
「いやあ、上からじゃあダメだな……木に隠れてて、外壁も何も見えたもんじゃねえ。屋根も葉っぱとツタで埋め尽くされてるから、元の形も――色すら分かんねえし。とりあえず、実際に行ってみるしかねえと思う」
「そうか、あとどれくらいだ?」
「一キロも離れてないと思う。あともう少しの辛抱だからな、アーニャ……頑張れよ。てか颯様、ずっと抱えてて平気なのか? 重くない?」
陽香は綾那の顔を覗き込んだのち、彼女を抱える颯月の顔を見上げた。
「うん? ……ああ、平気だ。ずっと抱いてたから、もう体の一部みたいになってる――個人的な嗜好を言っても、もう少し重い方が興奮するからな」
「性癖の話はしてねえのよ」
「しかし、ここ数日はまともに飲食できてないから……日に日に痩せて辛い、軽すぎる。綾が骨になる前にアンタらの家族を見つけねえと、このままじゃあ「分析」する楽しみもなくなっちまう――」
「聞けよ、人の話――まあ良いや、こっちだ」
まるで悪ふざけでもしているように、飄々と嘯く颯月。
恐らく彼は、一行の焦りを少しでも緩和しようと気遣っているのだろう――もしくは自分自身の不安を散らすために、ふざけて誤魔化しているだけか。誰が見ても危険な状態の綾那に対して抱く不安は、並大抵のものではないはずだ。
それを察したらしい陽香は、早々に会話を切り上げると、木に飲まれた家に向かって歩き始めた。
◆
垂れ下がった木の葉をかき分け、ぬかるんだ地面を進む。あれから更に十五分ほど歩いた頃、一行の前にソレは現れた。
ジャングルの中に突然現れたのは、大きな一軒家だった。外壁は雨のせいか、上から下までびっしりと緑のコケで覆われている。陽香が「空中浮揚」で見た通り、屋根の上まで木やツタに浸食されているようだ。
なんなら、建物の中から突き破るように木が生えている場所や、色鮮やかな花が咲いている場所さえある。一見しただけでは、人が住んでいるかどうか判断できない。
廃墟と言われれば廃墟に見えるし、ある意味豪勢なツリーハウスと言われれば――なるほど確かに、「ツリーだらけのハウスだ」ともなる。
「これが、姫達の家なのかい?」
呆けたように家を見上げる明臣が問えば、アリスは思い切り首を傾げた。
「いや、ええっと……それっぽい気もするし――全く違う気もするし? こんなファンタジーな家ではなかったはずなんだけど……なんか、すっかり目に優しい色合いになっちゃったわね。ところどころ崩れてるのは、雨で風化したとか……?」
「三か月で風化するようじゃ欠陥住宅だろ……けど、言われてみりゃ形がウチっぽくないか? 少なくとも、家の中からあんな大木は生えてなかったけど……こんなジャングルのド真ん中に家ごと強制転移させられたんだ。そりゃあ元々この場所に生えてた木に押されたら家も崩れるし、木にも貫かれるだろ」
「そういうものなのかしら? まあとりあえず、中に誰か居ないか確認してみましょうよ。私の「第六感」はなんともないから、たぶん危険はないんだと思う」
アリスのギフト「第六感」は、常時発動型の自動ギフトだ。己や、自身に近しい者に悪意を持った人間が近づくと直感的に分かる。
しかしあくまでも感覚的な話であり、ルシフェリアの『予知』と比べると、精度には雲泥の差がある。それでも簡単な警報器にはなるだろう。
「よ、よーし……そんじゃあ颯様はちょっと、茂みに隠れててくれや。緑の聖女――いや、魔女に会ってくっからよ……!」
「――確認なんだが、家族なんだよな? 身内でそれだけの覚悟を要するって、そんなにヤバイ相手なのか?」
「…………ヤバいかヤバくないかの話する?」
「……いや、やめておこう。とにかく、綾の治療をするための交渉は頼んだぞ」
「おう、それについては任せとけ、治療だけは確実にしてもらえるはずだからな――その後については、正直知らんけども」
陽香はそのまま「行くぞ、アリス」と言って、アリスを道連れに誘う。アリスはごくりと生唾を飲み込んだ後、小さく頷いた。
しかし、彼女らが家に向かって一歩踏み出した瞬間、竜禅がハッとする。
「――待て! 家の周囲に魔法が敷かれている!」
「お!?」
「ま、魔法!?」
竜禅の制止を受けて、陽香とアリスはぴたりと足を止めた。竜禅は肩に担いでいた荷物を地面に下ろすと、目元の仮面を外して、注意深く辺りを見回した。
「ま、魔法ってなんですか? 罠――みたいな事ですか?」
「ああ、地面に陣が仕込まれているな……足を踏み入れると発動するだろう」
竜禅の言葉に、颯月と明臣が目を瞠る。
「陣? ――恥ずかしながら、私には何も感じられません」
「俺もだ。陣が見えないどころか、魔力も何も分からねえ」
「これは特殊なモノですから、お二人が感知できなくても不思議はありません。……敷いたのは、私と同類ですので」
「――聖獣か。セレスティンを棲み処にしているのは、確か白虎だったな」
「ええ」
竜禅は、おもむろに足元に落ちていた木の枝を拾うと、家に向かって放り投げた。それが地面にぽとりと落ちるのと同時に、辺りがカッと光り輝く。
するとその次の瞬間には、轟音と共に細い竜巻が地面から空に向かって複数立ち昇った。
投げ込まれた木の枝は見るも無残に粉砕されて、あっという間にパウダーに変わる。やがて竜巻が消えると、それはパラパラと地面に降り注いだ。
一部始終を見ていた陽香とアリスは、ぶるりと小さく体を震わせる。
「えっ……待て待て。あたしら、下手したらパウダーにされてたって事か?」
「あるいは、ジュースにされていたな」
「マ? え……っ、え? なんだ? もしかしてこの家に住んでんの、ナギじゃない――?」
「てか、今の音で住人に「侵入者が居る」ってバレたわよね……?」
予想外の出来事にすっかり出鼻を挫かれたのか、陽香とアリスは茂みに隠れるようにして身を屈めた。陽香に至っては、そのまま「オイ、お前の「第六感」息してねえぞ!」とアリスをなじっている。
その横では、竜禅が思案顔になって何事か考察し始めた。
「何故、ヤツが街の外にこんな手の掛かる真似を……首都セレスティンのねぐらに祀られて、悠々自適に暮らしているはずなのに……『緑の聖女』の居場所を知っている事と、何か関係があるのか――?」
そうして竜禅が独りごちていると、やはり物音で家の住人に侵入を気取られたらしい。緑に覆われた住居の扉がギィイと錆びた音を立てて開かれて、一行の間に緊張が走った。




