雪解け
あれからしばらく経っても、まだ維月は大笑いしていた。隣に座る正妃は眉を吊り上げて、平手でバシバシと息子の背中を叩いている。
颯月の方はなんとか笑いが収まったようだが、すっかり緊張がほぐれたのか、なんなのか――国王と正妃の御前だと言うのに、綾那の肩を抱いたまま離れなくなった。
ちなみに颯瑛はと言うと、どこか気まずげな表情でちらちらと正妃に視線を送り、彼女の反応を気にしているようだ。
「は、母上、あまり叩くと、母上の手が折れますよ。弱――いえ、華奢なんですから……ぶふっ……」
「いつまで笑っているのよ!? ……へ、陛下も陛下です! そのような法律がなくたって私、わざわざ危険な真似はしませんから……! 自分の力量は、自分が一番理解しております!」
やはり幼少期より国王を支え、男として立てるべく教育されたせいなのか。正妃は義兄弟が相手の時のように激昂する事はなかったが、それでも悔しげな表情を浮かべて反論している。
颯瑛は小さく、しかし何度も頷きながら口を開いた。
「ああ、分かるよ。羽月さんが聡明だという事は、よく分かっている……ただ、君は輝夜さんと同じで、カッとなりやすい所があるから――」
唐突に、ぴたりと言葉を切った颯瑛。その続きを代弁するかの如く、綾那がにっこりと微笑んだ。
「――だから、心配だったんですよね」
「………………その、――そう、だな」
なんとか思いを認めた颯瑛に、正妃はようやく維月を叩くのを辞めた。悔しげな表情も怒気もすっかり消え失せて、彼女は困惑した様子で颯瑛を見つめている。
まあ、長年「輝夜が亡くなった事が原因で、女性の戦闘行為を一切禁止にした」と信じられてきたのだ。それを今更、輝夜ではなく羽月を守るためだったなんて話を聞かされても、戸惑うに決まっている。
「お義父様は、正妃様の事が大好きですものね。聡明で仕事ができて美しい正妃様は、お義父様の誇りだと」
「……」
「今日のファッションショーも、陽香と並んで出る事で万が一『美の象徴』の地位が揺らいだらどうするんだって――ショーの途中で怒りに来るくらいですものね」
「ああ……昼間の、元々それが理由で天幕までお越しだったのか?」
「はい。お義父様になんの断りもなくあんな刺客を送り込むなんて、『広報』はどうかしているって――私、とっても怒られました」
「――――――――なあ、どうして全部言うんだ」
「言わないと何も伝わらないからです」
颯瑛は「それはそうかも知れないが、君はいつも性急すぎる」と低く唸って、両手で顔を覆い項垂れてしまった。
正妃の性質は、己の目と耳で見聞きした事象だけを信じるというものだ。だから噂話に振り回される事なく、自身の足を使って情報を集め、その正確さを精査する。
つまり、本来こうして颯瑛の口から直接聞かされた事であれば、信用に値する情報であったはずなのだ。ただそれは、彼が出生直後の颯月を手にかけようとさえしていなければ――の話である。
今更何を言っても信用してもらえないと諦観していた颯瑛の言う通り、正妃は困惑した表情のまま、言葉を発しなかった。まるで、颯瑛の言葉の裏――いや、裏の裏の裏まで探るような目で、項垂れた彼を注意深く見つめている。
本当に、どこもかしこも拗れまくった家族だ。皆が誤解をといて仲良くしてくれればそれで良いのに、たったそれだけの事が何故こんなにも難しいのだろうか。
(何か他に、お義父様から聞いた正妃様のお話は――)
少しでも、この夫婦の仲を取り持つ手助けができれば――綾那はそんな思いでもって必死に記憶を手繰り寄せたが、しかし颯瑛から聞いた正妃に関する話は、今ので品切れだった。
であれば、なんとかして更なる話を今この場で引き出せないものか。
またしても妙な空気になってしまったところで、綾那の斜め前に座る維月が、「義姉上。すっかり冷めてしまったが、良ければどうぞ」と言って茶の入ったカップを差し出した。
彼は両親の間に流れる気まずい空気など一切気にかけていないようだ。
「せ、先輩――じゃなくて、殿下って大物ですよね……?」
「よく言われるよ。まあ、これでも次期国王だからな――いちいち動じていては務まらないさ」
なんでもない事のように、さらりと言ってのける維月。その堂々たる態度は素晴らしいが、しかし現国王がすぐそこで動揺しまくっているのだが、それについては良いのだろうか。
思わす綾那が苦く笑うと、隣に座る颯月が小さく笑みを漏らした。
「綾、維月は本当に優秀なんだぞ。俺が散々苦労した法律の勉強も難なくやってのけるからな」
「へえ、凄い。素敵な義弟を産んでくださった正妃様には、感謝しないとですね」
「…………言われてみれば、そうだな。今まであまり深く考えた事がなかったが――他の妃の子じゃあ、こうはならなかっただろう。俺は運よく、最高に出来た義弟に恵まれたという訳か」
「義兄上、褒めすぎですよ」
綾那は和やかに笑っている二人を見て、本当にブラコン義兄弟なのだと再認識する。それと同時に颯月の言葉が引っかかり、頭の中で反芻した。
(――「他の妃の子じゃあ、こうはならなかった」……)
よく考えてみれば、颯瑛には元々輝夜の他にも側妃が複数人居たはずだ。しかし輝夜が亡くなってからは正妃だけを傍に残して、他の側妃とは全員別れてしまった。
その別れるか別れないかの判断基準は、一体どこにあったのだろうか?
側妃の中には輝夜と仲の悪い者も居たと言うが――しかし全員ではないだろう。颯月を悪魔憑きに変えた『特別な薔薇』を寄こした側妃が悪いのであって、連帯責任で追い出したという訳でもないはず。
(もしかして、当時のお義父様が自棄になっていたせい? 側妃様と颯月さんが呪われて――誰が良いとか悪いとか関係なく、もう子供なんて……痴情のもつれなんて、コリゴリだと思った?)
果たして当時の彼は、王家の血を繋ぐとか国王として後継者づくりに励むとか、そんな『義務』を考える余裕があったのだろうか。
そう――すぐさま周囲から理解を得る事を諦めて王宮に引きこもった、この男に。
別れる別れないの判断基準なんてものは、きっと初めから無かったのだろう。あらゆる匙を投げた彼は、全てのしがらみを断ち切りたかったに違いない。
それでは、唯一正妃が王宮へ残された理由はなんなのだろうか。彼女とは幼馴染のような関係で、元々好ましいと思っていたからか――それとも国王である以上、『正妃』とだけは別れられなかったのか。
「お義父様は……どうして正妃様だけ王宮に残されたのですか?」
綾那の問いかけに、項垂れていた颯瑛がぴくりと反応した。正妃は綾那の不敬にツッコミ疲れたのか、それとも不可解な事が多すぎて最早それどころではないのか――ただ黙って、綾那と颯瑛の様子を眺めている。
「颯月さんが生まれてすぐ、一生悪魔憑きになってしまわれたと気付いて……生きていても苦労ばかりで可哀相だからと、彼を手にかけようとなさったんですよね。でも周囲の方に説明する事なく行動に出てしまわれて、「側妃様が亡くなったショックでおかしくなった」と言われるようになり……自棄になったとは、お伺いしましたけれど――」
「えっ……陛下? 初めから分かっておられたのですか? では、何故――何故、教えて下さらなかったのです? 私はそのような事を知りもせず、颯月が十歳になるまで王太子として連れ回して……それが原因で、この子は「悪魔憑きだから勘当された」だの「初めから国王になれる器ではなかった」だのと、心無い事を言われるハメに――」
正妃の言葉を聞いて、颯瑛は項垂れたまま口を開いた。
「……羽月さんは、いつも私の考えを汲んでくれていたから。口に出さずとも全て理解してくれると、甘えていた」
「甘え……?」
「――あの日は、それほど辛かった。精神的に限界で……人と会話していられる状態じゃあなかった。輝夜さんの命と、息子の幸せを同時に喪った日だったから」
「では、陛下は……颯月が憎くて、手にかけようとなさった訳では、ないのですね――」
颯瑛が小さく頷けば、正妃は「は――」と気の抜けたように、それでいて安堵したような息を漏らした。彼女はそのまま呆然としていたが、しかし不意に颯瑛が動くと、彼の動きを目で追いかけている。
颯瑛はだらりと姿勢を崩しソファの肘置きに頬杖をつくと、じっとりと眇めた目で綾那を見た。そして、半ば自棄になったかのように、綾那の問いかけに対する答えを紡ぐ。
「羽月さんだけ王宮に残したのは、もちろん彼女が好ましいからだ。ただ、理由はそれだけじゃない。羽月さんだけだったからだ」
「だけ――と言うのは?」
「君は確か、騎士団長の『異形』を見てもなんとも思わない奇特な人間だったな」
「な……っ、なんとも思わないはずがないじゃありませんか! 目にする度に好きが溢れて、どうにかなってしまいそうなのを耐えるの、すっごく大変なんですから! 奇特でもありませんよ、至って正常な反応です!」
キリッとした顔つきで断言する綾那の横で、颯月が「それが「奇特だ」って言ってんだよ」と呟いた。
「――私は、あの日の事を忘れもしない。眷属に呪われて事切れた輝夜さんと、同じく呪われて大泣きしている赤子……そのどちらも、羽月さんは腕に抱いて離さなかった。触れて感染するものではないと頭では分かっていながらも、医師も侍女も、誰も――半身を荊模様に覆われた二人を気味悪がって、決して触れようとはしなかったのに」
颯瑛の言葉に、正妃だけでなく颯月まで瞠目した。
「私が団長を手にかけようとしても、羽月さんは絶対に渡そうとしなかった。彼女に泣いて反抗されたのは、アレが初めてだったよ――だから殺せなかった。きっと羽月さんが居なければ、団長は死んでいたんだろうな……副長はあの時、既に消滅して見つかるはずもない薔薇の眷属を探すのに躍起になっていて、席を外していたし――」
「そうだったんですね……」
「それに、羽月さんにとっても団長は生きる糧だったんだと思う。輝夜さんが儚くなって、その上私まで気狂いになれば、もうどこにも寄る辺がない想いをしていたに違いないから」
「陛下――」
正妃は、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべた。もしかすると、長年颯瑛を誤解していた事に対する後悔の念があったのかも知れない。
彼女は颯瑛に向かって何事か声を掛けようと口を開きかけたが、しかし上手い言葉が見つからなかったのか、口を噤んだ。
まだ雪解けには程遠いだろうが、しかし今日この会話がキッカケとなって、いつの日かきっと二人の間にあるわだかまりも消えるだろう。
まあ、できれば綾那を仲介するのではなく、ちゃんと正妃と向き合って直接話をして欲しかったと思わなくもないが――。
綾那は、「よくもみんなの前でこんな恥ずかしい話をさせたな」と言わんばかりに目を眇める颯瑛に向かって柔和に微笑んだ。
「悪魔憑きだろうがお構いなしで側妃様と颯月さんを抱く正妃様を見て、それで、もっと好きになってしまわれたのですね」
「――愛らしくて」
「愛らしい?」
「言っただろう、あの日の事を忘れはしないと。私はあの日、生まれて初めて羽月さんが泣きじゃくる姿を見た。その姿が、なんと言うか…………衝撃的――というか。不思議とそそられるものがあって、彼女の事が余計に愛おしくなった」
「うぐっ……!?」
「――父上。お願いですから、息子の前で気色の悪い惚気はやめてくれませんか」
颯瑛の問題発言に、正妃が盛大にむせた。その隣で彼女の背を撫でながら、維月が憮然とした表情で待ったを掛ける。
三人のやりとりを見ながら、綾那はふと、自身の隣に座る男が「泣き顔を見ると劣情を抱く」なんて事を言っていたなと思い出した。
「……父子って、似るものなんですねえ」
生暖かい眼差しで颯月の癖を指摘すれば、彼はしばらく沈黙したのちに「ノーコメントだ」と言って肩を竦めた。
ややあってから場が落ち着くと、颯瑛がおもむろに立ち上がる。
「すっかり長話をしてしまったな、羽月さんの用はもう済んでいたのか?」
「いえ……いいえ、そうですね。もう私の話は結構です、説教は十分でしょうし――今日はその、もう……心境的に、それどころではありませんから……」
こほんと咳払いをした正妃は、気まずげな表情で颯瑛と――いや、誰とも目が合わないよう視線を宙に彷徨わせている。恐らくこれは、滅多に見られない貴重な姿だろう。
「そうか。いきなり押しかけて、悪い事をしてしまった。とにかく、今日はもう遅いから帰った方が良い。君……昼間も思ったが顔色がよくないぞ。『雪だるま』が溶けて消えるのは悲しい、もう少し体を大事にしてくれ」
「え? ……ふふ、承知しました。溶けないように注意しま――……っくしゅん! ……あれ――」
喋っている途中でくしゃみをした綾那は、恐らくこの場に居る誰よりも自分のくしゃみに驚いている。
(――嘘でしょう? まさかホントに……ホントのホントに、風邪ひいた!?)
綾那は途端にサッと青褪めると、己の肩を抱く颯月を見やった。すると彼は眉根を寄せて、チッと小さく舌打ちをする。
「綾、だから言ったじゃねえか、熱があるって……! すぐに帰るぞ、薬――が効かねえなら、対症療法しかない。とにかく体を冷やさんようにして、さっさと寝ろ」
「ご、ごめんなさい……風邪をひくなんて、数年ぶり――下手をすれば十年ぶりぐらいで、自覚が乏しくて……」
言われてみれば、確かに頭の芯がぼうっとしているような気がする。自覚した途端に体が火照っているような気もしてくるし、何やら体中の関節まで痛み始めた。
ずっと体の怠さは感じていたが、発熱ではなく心労と「怪力」による疲労のせいだとばかり思っていたのだ。
(もし拗らせちゃったらどうしよう……最悪、死ぬかも――?)
薬の効果を一切打ち消してしまう「解毒」もちは、単なる風邪だろうと死を招く恐れがあるのだ。
長期間熱が下がらなければ瞬く間に体力が奪われて、食事をする気力すら失うだろう。発熱により体の免疫が下がって細菌が肺を侵せば、肺炎だって併発するかも知れない。
リベリアスの医療事情はどうなっているのだろうか。科学の発展していない国に、果たして酸素吸入器の類は存在するのだろうか。
僅かにふらつきながらソファから立ち上がった綾那は、じわりと瞳を潤ませた。もしや、ルシフェリアが「ヴェゼルを恨むな」と言っていたのは、これを予期しての事だったのか。
(つまり、これからもっと酷くなるんだ――渚が傍に居れば、安心だったのに……!)
居ないのだから仕方がないが、しかしそう思わずにはいられなかった。そうして綾那が一人打ちひしがれていると、突然背と膝裏に圧がかかり、ふわりと体が浮いたので瞠目する。
見れば、どうも颯月に横抱きにされたようだった。
普段であればこれでもかと恥ずかしがる所なのだが、あいにくと体がしんど過ぎて、今はありがたさしか感じなかった。何も言わず大人しく体を預けた綾那に、颯月はますます表情を険しくする。
「――申し訳ありませんが、今日はこれで失礼します」
「え、ええ……何か要り様のものがあれば言いなさい、援助するわ」
颯瑛、正妃、維月の三人に見送られながら、颯月は綾那を抱いて王宮を後にした。
ようやく王族の拗れた問題を解決する兆しが見えたところで、まさか「風邪」なんていう間の抜けた邪魔が入るとは。
綾那の受難は、まだしばらく続きそうだった。
これにて、第七章は終幕です。
元々、第六章でここまで書き切るつもりだったのですが……途中に小話を挟み過ぎて、文字数は膨らみ続け……気付けば、丸々一章分の話になっていました。盛り過ぎ。
何はともあれ、明日からは第八章に入りますので、これからも応援して頂けると幸いです^^




