綾那、怒りを買う
「百歩譲って、別館に行ったのは禅が案内したせいだから許すよ。けど、よりによって桃華に手を出すか? 颯の目が届かないなら、何をしても良いと思ったの?」
「いや、えっと、そういう訳では」
「良いよ、俺が目を離していたのが悪いから。禅も和巳もお姉さんのこと疑ってないから、ひとつもアテにならないって分かっていたのに――仕事ばかり優先した俺の手落ちだ。お姉さんもそう思うよな?」
「いやあ……ハハ」
――これは、どうしたものか。
乾いた笑いを漏らす綾那と、それを苛ついた様子で見下ろす幸成。食堂内の空気は最低最悪だ。
しかし、そんな2人の間に折れそうなほど華奢な少女が割り込んでくる。綾那は、まるで自身を庇うように立つ桃華の背中を見て、目を瞬かせた。
「なに桃華? 悪いけど、今お前の相手してる暇ない――」
「ど、どうして綾那さんにきつく当たるのよ!」
「ハ?」
「機密事項だって言うから、詳しい事は分からないけど……でも、綾那さんは私の事を助けてくれたのに! いい人なのに、どうして責めるの!?」
「おい桃華、お前なんか変――アレ、お前、泣いたか……?」
「変じゃない! 泣いた事も今は関係ない! ……幸成は助けてくれなかったくせに!」
桃華はそうまくし立てると、体を反転して綾那に抱き着いた。彼女の言動に、幸成は目を丸めて狼狽えている。
「ちょっ、オイ、桃華!?」
「桃ちゃん、急にどうしちゃったの……?」
「――も、『桃ちゃん』って何!?」
「あっ」
いきなり口論を始めてしまった桃華が心配で、つい愛称で呼びかけてしまう。すると幸成は、信じられないと言いたげな驚愕の表情で綾那を凝視した。
颯月の事を『さん』付けで呼んだだけで怒り狂った、幸成だ。恐らく、その婚約者の桃華を愛称で呼ぶ事だって看過できるはずがない。
(私、終了のお知らせ――)
また自分で自分にトドメを刺してしまったではないか。どうしてこう迂闊なのだ。
――なんて後悔しても、済んでしまったものは仕方がない。愛する四重奏のメンバーよ、私は先に逝く。
綾那はそっと両目を閉じて、食堂の天井を仰いだ。
「嘘だろ。颯だけじゃなく、桃華まで誑し込んだのかよ……一体どうやって? やっぱ洗脳魔法の一種だろ――」
「え、えっと」
幸成の震え声に目を開けば、彼は随分と青い顔をして俯いている。
洗脳魔法でもなくでもなく、桃華の場合はただ単に同性の友人が居ない事が原因だ。同性の友人に対する免疫がゼロだから、綾那が少し優しくしただけで簡単に転がり落ちて来た――ただそれだけの事である。
ただ、ひとまず幸成から放たれる鋭い殺気のようなものは消えたので、命の危機はなくなったのかも知れない。
(それはそれとして、この先どう収拾をつければ良いのか分からないけれど)
そうして綾那が考え込んでいると、ようやく傍までやって来た竜禅が口を開く。
「綾那殿、すまない。よい機会と思って訓練中の幸成を呼びに行ったものの、確実に呼び出すために色々と端折ったせいで、予想以上に過熱してしまった」
よい機会とは、一体なんなんだ。特に今日思ったが、どうやら竜禅は人と違う感性を持っているらしい。
紳士的な仕草は身についているのに、そのくせ己の言動で周りがどのように感じて、どのように動くかという人の機微には疎い。ややキューに通じる何かを感じるほどだ。
まあ、彼なりに良かれと思って行動した結果だと言うならば、綾那は黙って受け入れるしかないのだが――。
「おい禅、ちゃんと説明しろよ。桃華に何があったんだ?」
「別館の中庭を歩いていたら、桃華嬢が複数の少女に囲まれているところへ出くわした」
「何? もしかして、また絨毯屋の娘かよ」
「さあ……正直、あの年頃の少女は見分けがつかん。特にこの辺りの女性は、揃いも揃って黒か紫だしな」
「マジ? オッサンじゃん……」
「当然だ、私がいくつだと思っている? 気になるなら、綾那殿に映像を見せてもらえ。遠目だが恐らく映っているだろう」
竜禅の言葉に、綾那はようやく彼が「撮った方が良い」と言った意味を理解する。
ちらりと幸成に一瞥されて、綾那は何度も頷いた。
データを消そうとしていたところを竜禅に止められたので、ガゼボを撮った映像ならまだスマホに残っている。ただ距離があったため、少女らの顔が明瞭に映っているかどうかは怪しい。
「私は手助けができないから、見守るだけに留めていたのだが……綾那殿が我慢ならんと言い出してな」
「いや、あの、我慢ならんなんて言っていませんけれど」
「似たようなものだった。ただ、綾那殿の姿を見せる訳にはいかないから、彼女に「水鏡」で侍女長の姿を重ねて、声だけで少女らを追い払ってもらった。そうして綾那殿に関する口止めを含め、落ち着いて話そうと食堂まで来たものの――桃華嬢が、綾那殿をいたく気に入ってしまって」
「だって、綾那さんは私を助けてくれたんですもの。颯月様関連で私にお願い事なんてないって言うし、苛めもしないし、優しく抱きしめてくれるし――ホラ、どこかの誰かさんは仕事ばかりで、気付いてもくれないじゃない?」
「…………悪かったよ」
桃華がじっとりと目を眇めれば、幸成は気まずそうに目を反らした。どうやら、二人が幼馴染で親しいと言うのは本当らしい。
互いに遠慮のない話し方をしていて、とても微笑ましい――これが、綾那の進退に関わるような話題でなければの話だが。
「とにかく、私の事が原因で綾那さんを悪く言っているのなら、それはお門違いよ。まさか綾那さん、いつも幸成からこんな扱いを? 信じられない……」
桃華にギュッと強くしがみつかれて、苦笑する。彼女が味方になってくれるのは嬉しいが、どこをどう切り取っても悪いのは綾那なのだから。
「桃ちゃん、違うんだよ。幸成様のアレはお仕事だからね」
「仕事って……?」
「機密事項だ」
素っ気ない一言を返すだけの幸成に、桃華が眉を寄せた。ムッとした表情の彼女に、またしても口論が始まりそうな気配を感じる。
機密事項だ、なんだと言われているが、綾那はこれ以上争いの火種になりたくない。
「ごめんね。実は通行証も無いのに、こっそり街へ入っちゃったんだ」
「えっ……」
「ちょっと、お姉さん!?」
「異大陸から来て、この国の事が何も分からなくて……だから、幸成様達が保護してくださっているんだよ。あまり幸成様の事を悪く言わないでね」
「なんで勝手に話すかな……! お姉さんの手引きしたのが、誰だと思――」
「幸成」
「ぐっ……だああ、もう!」
幸成は苛立った様子で、ガリガリと頭を掻いた。
恐らく、密入国の手助けをした颯月の立場を案じての事だろうが――綾那は彼の名を出していない。危うく幸成が口を滑らせかけたところを、竜禅が引き留めて事なきを得る。
桃華はしばし驚いた表情で綾那を見上げていたが、やがて首を横に振った。
「桃は、綾那さんを信じますから。他に手がなくて、仕方なくですよね? 別に悪い人だとか、犯罪者だとか、そんなはずがないですもんね? きっとすぐ、保護観察も終わりますよね」
「う、うーん、どうかな」
何せ今回の事で、元々低かった幸成からの信頼度が氷点下まで落ち込んだはずだ。
彼自身、まだ仕事で忙しくて綾那に構っている暇はないのだろうし、とてもすぐに保護観察が終わるとは考えられない。
思わず口元を引きつらせていると、不意に幸成が「分かったよ、お姉さん」と低く呟いた。
「俺が間違ってた」
「え?」
「仕事がどうとか、時間がどうとか、そんな事を言っている場合じゃねえんだな。このままお姉さん放っておくと、何しでかすか分かんないもんな」
「ゆ、幸成様?」
「うん、明日からずっと俺がお姉さんのこと見ててあげるから、安心してよ? ――早く保護観察、終わると良いな」
引きつった口元に、いつまでも険のとれない金色の瞳。
怒りを上から無理矢理に抑え込んだような歪な笑顔を浮かべる幸成に、綾那の顔は青白く染まった。




