迎え
正妃ではなく維月の登場に、颯月は無言で綾那の上から退いた。彼は紫紺色の全身鎧を身に纏ったまま、何事もなかったかのように義弟へ「とりあえず中へ」と声を掛けた。
「ええと、失礼します」
声を掛けられた維月は気まずげな表情で執務室の中へ足を踏み入れた。
颯月はソファに沈む綾那の腕を掴んで引っ張り起こすと、僅かに乱れてしまった髪の毛を整えるように撫でつけた。そうして一呼吸置いてから、改めて維月を見やる。
「どうして維月が? 普段、あれだけ正妃サマに「陛下が気にするから騎士団には近付くな」と言われていて……しかも俺の執務室へ来るのなんて、初めてだろう。あとで陛下の耳に入ったら――」
「え? あ、ああ。いえ、それが他でもない父う――陛下の命令なんです。俺が義姉上を迎えに行くようにと」
「何? なあ禅、どうなってる? あの人の中で、一体何が起きているんだ」
水を向けられた竜禅は、「全く分かりません」と即答した。
皆一様に困惑しているようで、各々がこの非常事態の原因を考察しているのか、誰もが黙り込んでしまった。
妙に重苦しい空気の中、綾那はおずおずと小さく手を挙げて「あの」と口を開く。
「勘当されているから、仕方ないのかも知れないですけれど……そもそも颯月さんと維月殿下が近付いてはダメって言うのは、国王陛下が言い出した事なんですか?」
「俺はそうだと聞いてるが」
「それは、正妃様から……?」
「ああ。例えば、人伝に俺と維月が関わりを持っているらしいという話を聞いただけで、表情の変化に乏しい陛下がこれでもかと眉根を寄せる――と」
颯月はそのまま自嘲するように笑って、「まあ、殺したいほど憎い相手が唯一の息子に近付けば、良い気はしないだろう」と続けた。
そんな彼に同調するように、維月もまた頷く。
「俺も過去、陛下の前でつい口を滑らせて義兄上の話をした事がありますが……その時ばかりは、顔つきが変わります。とても好意的には見えませんでしたね」
「そうなんですか……でも何故か今日は、殿下に私のお迎えを言いつけられたんですね」
「ああ、こんな事は初めてだ。まさか、陛下から義兄上の元へ行けと言われる日が来るなんて――明日の繊維祭は槍が降るのでは?」
「あっ、そうか、繊維祭……! もう明日ですものね。颯月さん、やっぱりすぐに寝てください。凄く心配なんです」
普段慎ましやかに生きるアイドクレースの領民も、夏祭りの日は大はしゃぎして暴走気味だった。きっと明日の繊維祭も似たような状況に陥るだろうし、騎士はまた取り締まりで東奔西走するに決まっている。
現時点で既に顔色が悪いのに、このまま寝ずに祭りの当日を迎えればどうなるか――いくら颯月でも、過労で倒れるだろう。その上、綾那についての心労が重なれば尚更だ。
どこまでも颯月の体調を気遣う綾那に、彼は鎧に包まれた頭を思い切り傾げた。
「なあ、綾。どうしてアンタは危機感ひと一つ抱いていないんだ? 俺以外の男に体を許す事については、何も思わ――いや待て。まさか陛下の顔の方が好みだったなんて言い始めるか!?」
「えっ、それはないですけれど……体を許すつもりもありませんし――あ、いや。ハッキリ「ない」と言うと、不敬なのでしょうか」
困ったように眉尻を下げる綾那に、竜禅がぽつりと「不敬で構わない」と呟いた。
「たぶんですけれど――陛下は、私に危害を加えるつもりがないと思います。何かするつもりであれば、昨日の時点でされていたでしょうから」
「綾のその人を疑わん所は美徳だし、この上なく愛らしいとは思うが――何も、こんな時にまで天使を発揮しなくとも」
「ところで義兄上、何故「魔法鎧」を解かないのです?」
「………………何がとは言わんが、もう少し落ち着くまで待ってくれ」
「アッ……ああ、なるほど、万事理解しました――そもそもどうしてあの状況で鎧なのか不思議でしたが、そうですか……耐えていらっしゃるのですね」
維月はコホンと咳ばらいをすると、綾那を見やって「場所を問わずに誘惑するのは、よくないと思うぞ」と諫めた。突然諫められた綾那は、驚愕の表情で「解せません」とぼやく。
それにしても、やはり国王については掴めない。義兄弟の接触を禁じているのは王だと言うが、そもそも「近付くな」と命じたのは本人ではなく、正妃である。彼女が王の反応を見て、良くないと判断した結果の対処だ。
(二人の交流を耳にしただけで顔を顰めるなら、当たらずとも遠からずなのかな? だけど、陛下は「誤解されやすい」って言っていたし……うーん)
綾那はしばし悩んだが、結局のところ国王本人に聞くのが早い。それに、彼が口にした『頼み事』の詳細もずっと気になっている。
執務室の面々はいまだ王についてああでもない、こうでもないと議論を続けているようだ。この場に居る者全員、彼について不信感を抱いているらしい。
(陛下が颯月さんの事を「好きだ」って言っていた事――今ここで言っても、誰も信じられないよね。私だって、詳しい話を聞いてみない事にはなんとも言えないし……でも誰にも信じてもらえないのって、どんな気持ちなんだろう)
そんな取り留めのない事を考えていたら、不思議と胸が痛んだ。綾那は気を取り直して小さく息を吐き出すと、「よし」と言ってソファから立ち上がる。
「とにかく、お迎えも来ましたし――私、王宮へ行ってみますね。陛下とお話してきます」
綾那が宣言すれば、竜禅が口をへの字に曲げた。そして、隣に立つ颯月がおもむろに両手をパンと合わせて、ようやく「魔法鎧」を解除する。露になった彼の顔は酷く不安げで、まるで苦痛に耐えるように眉根を寄せている。
「手の届く場所に綾が居ないと、不安で寝付けん。アンタが陛下の傍に侍る姿を想像しただけで吐きそうだ――」
「分かりました。では陛下にそう説明して、すぐに颯月さんの所へ戻れるようお願いしてみますね」
屈託なく笑って颯月に身を寄せた綾那は、広い背中に両腕を回してぎゅっと抱き着いた。彼もまた綾那の背に両腕を回したが、しかしその表情はますます苦しげに歪む。
「戻ってこられる訳がないだろう。アンタ、自分がどれだけ天使なのかいまだに理解してないのか? 一度でも手にしたら二度と手放せん――陛下だって同じに決まってる。綾に手出しされたら俺は……俺は」
俯く颯月の周りに――もはや最近、すっかり見慣れてしまった――紫色の静電気と小さな火花が散る。魔力暴走の兆候を見せる彼を落ち着かせようと、竜禅が「颯月様」と呼び掛けた。
「綾那殿は必ず救い出しますから、ご安心ください――最悪、私が逆賊になりましょう。ここに立派な後継者もいらっしゃいますしね」
「――副長、それはさすがに不敬どころの騒ぎではないな。俺は何も聞かなった事にしよう」
暗に「国王を殺してでも綾那を取り戻す」と告げる竜禅に、綾那は苦笑いを零した。それから改めて颯月を見上げると、彼の頬に両手を添えてゆっくりと言い聞かせる。
「絶対に戻って来ますから、待っていてくれますか? 颯月さんが安心して眠れるように、なんでもして差し上げますからね」
「………………ダメだ、なんでもはやめてくれ。そこはかとなく期待してしまう」
「また膝枕でも良いですし、腕枕でも良いですし……抱き枕にだってなります」
「綾が俺の、抱き枕に? いや、ソファじゃ流石に狭――ちなみにソレは、ここじゃなく俺の私室で頼んでも適用されるのか」
「はい、どこでも有効ですよ」
「……服装は指定できるのか? こう――身に纏う布を極限まで薄くしても?」
「なんでも仰ってください。颯月さんが望む姿で、望む事をしますから」
その答えを聞いた途端に、颯月はまるで純真無垢な少年のように屈託なく笑った。いつの間にか、周りに飛び散っていた静電気と火花がぴたりと止んでいる。
果たして、頭の中まで純真無垢かどうかは分からない。
「…………颯月様。まだ年端も行かぬ殿下が同席しておられる事をお忘れですか?」
「い、良いんだ副長――義兄上、俺は全く気にしないから続けてください」
「私は気にします。そもそもそんな事を頼んだところで、どうせ「魔法鎧」を発動させながら眠る事になるのですから……あまり高望みをするものではありませんよ」
「さっきからうるさいぞ、禅。俺が綾の添い寝チャンスを得たからと言って、僻むな」
「いや、僻んでおりませんよ……」
マスクのせいで表情こそ見えないが、竜禅の声色は辟易としたものだった。
綾那は改めてギューッと颯月にしがみついた後、彼から身を離すと「行ってきます」と言って笑った。




