遭遇
綾那からデータを受け取った陽香は、アリスを連れて慌ただしく帰って行った。
子供達は残念がっていたが、しかし繊維祭さえ終わってしまえば当面の間、広報の仕事はない。その頃になれば、子供達と遊び放題になる――と言えば、みな素直に納得してくれた。
(もし本当にあの方が王様だとしたら――もう私が教会に篭っている意味、ないよね……やっぱり颯月さんに指示を仰いでないで、今すぐ宿舎に戻った方が良いのかな)
綾那は、裏庭に面したテラスの椅子に座ってぼんやりと考え耽った。
昨日と打って変わって本日は快晴。子供達は裏庭ではしゃいでいる。まだ芝が乾き切っていないが、元気いっぱいの彼らの勢いを止めるには至らないだろう。
悪魔憑きではなくなり大人達と接する事が増えたからか、日に日に『お兄さん』になっていく楓馬。彼がキッズ達の相手をしてくれているため、綾那はテラスでゆっくりさせてもらう事にした。
正直、昨晩颯月の到着を今か今かと待ちわびていたので、寝不足なのだ。昼も過ぎておやつも食べ終わったとなると、酷い睡魔に襲われる。
ひとまず陽香から颯月は仕事で忙しいだけと聞いて、彼の身に何かが起きた訳ではないと分かった。その安心感も、眠気の後押しをしているような気がする。
(まあ、でも――王様がそんな頻繁に教会へ来るはずないし……そもそもここ颯月さんの庭だから、王様は足を踏み入れないって話だったし。普通、殺したいほど憎んでいる息子の遊び場へ好んで近付かないよね)
綾那は真面目に子守りをしなければと思いつつも、うつらうつらと舟を漕いだ。やがて睡魔に完全敗北した綾那は、テーブルに突っ伏せると、子供達の笑い声を子守唄にしてお昼寝タイムに突入したのであった。
◆
ちょっとお昼寝――のはずが、綾那の意識が浮上する頃にはすっかり裏庭が静かになっていて、子供達の気配も消えていた。
もしかすると寝不足を気遣ってくれたのかも知れないが、皆して教会の中へ戻るならば、起こして欲しかった。
綾那の意識はいまだ微睡の中にあるが、それでもほんの少し「寝落ちした私が悪いけれど、置いて行くなんて寂しい」と思う。
閉じられた瞼越しに感じるのは眩い陽光ではなく、薄暗さだ――恐らくもう、夕方だろう。いい加減起きて、静真の夕食づくりの手伝いをしなければ。
そんな事を考えながら細く息を吐き出すと、不意に綾那の頬を生暖かい何かが触れた。それはゴツゴツと節くれだった指で、どうも誰かに頬を撫でられているらしい。
綾那は、小さく笑みを零した。大きな手だ。触れ方はどこまでも優しく、綾那を慈しむようで――堪らなくなる。こんな触れ方をするのは、颯月しか居ない。
道理で子供達が皆居なくなったはずだ。寝不足を気遣ったのではなく、彼を綾那と二人きりにさせようと気を遣ったのだろう。
もしかすると、陽香から話を聞いてすぐさま飛んで来てくれたのだろうか。
このまま寝たふりを続ければどうなるのか興味はあるが、颯月の事だから、もう綾那が目を覚ました事に気付いているはずだ。
綾那は、自身の頬を撫でる手をキュッと掴んで呼びかけた。
「――颯月さん?」
いつものように、低く甘い声で「綾」と返してくれるのを待つ。しかし一向に返事がないため、綾那は訝しんでぱちりと目を開いた。
そうして自身が掴んでいる手の持ち主を瞳に映すと――慌てて手を離し、がたりと音を立てて椅子から立ち上がった。
「……すまない。昨日不用意に触れないと決めたばかりなのに――つい」
「お、お兄様!? えっ、ど、どうして――あ! いや、こちらこそ、すみません! 間違えました……!?」
綾那は立ち上がった勢いのまま、数歩ととと、と下がって男と距離を取った。そして、バクバクと色んな意味で早鐘を打つ心臓を鎮めるために、両手で胸元を押さえる。
初め「まさか、不安過ぎて夢に見たのか」とも思ったが――どこからどう見ても昨日会ったばかりの、『お兄様』こと謎の王族が椅子に腰かけている。
(な、なんで!? 今日も視察? ――だとしたら、静真さんがここに居ない時点でおかしいよね!? どうして……いつから居たんだろう。もしかして寝てる所、ずっと見られてた……!?)
恥ずかしがれば良いのか、気味悪がれば良いのか分からない。いや、そもそも何故彼がここに居るのか、分からない。
(まさか、颯月さんと他の男を間違えるなんて一生の不覚! でも、だって、あんな優しい触り方――)
困惑しきりの綾那と目が合った男は、やはり基本的に感情表現が乏しいのか無表情で、今日も何を考えているのか読めない。綾那は唇を戦慄かせると、「どうして」と呟いた。
何もかも分からなさ過ぎて、「どうして」としか言いようがなかったのだ。
どうして今日も教会にやって来たのか。どうして綾那の寝姿を眺めていたのか。どうして綾那に触れるのか。諸々の疑問がたっぷりと込められた「どうして」である。
男は数度ゆっくりと瞬きをすると、僅かに目を伏せた。
「昨日も思ったが……君はおっとりしていて隙だらけなのに、随分と警戒心が強いんだな」
「それは――ご、ごめんなさい。王族の方相手に、不敬ですよね……」
「いや、先にこちらが無礼な事をしているのだから、別に構わない」
――無礼な行いをしているという自覚があるならば、どうか自重して欲しい。
綾那はそんな事を思いつつ、曖昧な笑みを浮かべた。そして、男と距離をとったまま問いかける。
「あの、今日は――今日も、視察でしょうか?」
「まあ、ある意味視察だな」
「ある意味?」
「どうにも、君が気になって――君を見に来てしまった」
「そ、それは、また――」
再び「どうして」と言いかけて、綾那は口を噤んだ。もしその理由が「亡くなった側妃に似ているから」だったら――それを聞いてしまったら、一巻の終わりのような気がした。
こうして人払いされている辺り、今日も静真の助けは望めないだろう。綾那は、男とどう接していいものか困り果てた。
(もう不敬も何もかも忘れて、「王様ですか?」って聞くのが早くない? でもそれで肯定されたら、どうすれば良いの――否定されたらされたで、ますます私に会いに来る理由が分からなくなるし……)
眉尻を下げた綾那に、男は小さく息を吐き出した。そしてぽつりと呟いた。
「――余計な入れ知恵を」
「え?」
「いや、こちらの話だ。実は私は、周囲からの信頼がない。口数も多い方ではないし、感情表現もあまり得意ではない。だから、何かと誤解されやすいんだ」
「誤解……ですか」
「その――私は君と、仲良くなりたい。それはもちろん、異性としてではない。私には結婚した相手が居るし、君は騎士団長の婚約者だ。私は、遠い……遠い親戚として、君が気になる。無理に応じろとは言わない。ただ、もしも誤解が解けたなら座って欲しい」
男はそう言って、つい先ほど綾那が飛び退いたせいで乱れた椅子を指差した。
(――誤解)
綾那は、男の言葉をゆっくりと噛み砕いた。
決して滑らかとは言い難い一文一文放るような話し方からして、確かに口下手なのだろう。昨日だって、最初ほとんど綾那が一方的に話していたし、彼は会話するどころか相槌すら打たなかった。
とにかく彼は颯月の親類として、婚約者の綾那が気になる。そして仲良くなりたい。互いに想う相手が居る以上当然の事だが、それは決して、異性として――という意味ではない。
そもそも綾那が「閉じ込められる」と変に身構えて、距離を取ろうとしていること自体が誤りなのだとすれば。
(――――じゃあ、やっぱり問題ないって事かも?)
またしても、綾那の悪癖が出た。思い悩む事が面倒くさくなったり揉め事の匂いを察知したりすると、綾那はすぐさま考える事を止めてしまう。
(そもそも、仮にこの方が王様だとして……私、どこにも閉じ込められてない)
確かに目の前に居る男は、少々まともじゃない部分があるように思う。しかし竜禅や正妃から聞かされた国王像は、もっとぶっ飛んだ人物だった。
それこそ、輝夜の面影がある笑い顔を見せれば最後、綾那を即牢屋に閉じ込めてしまう――そんな男だと聞いている。
しかし彼は、綾那をどこかへ連れて行こうとしている訳ではない。ただ会いに来て、仲良くしたいと言うだけ。
そんな彼を国王だと決めつけて警戒するのは、可哀相な気さえしてくる。
綾那は一つ頷くと、「失礼します」と声を掛けてから椅子に腰かけた。その様子を見て、男は僅かに瞠目した――ように見えた。
「なあ。私が頼んでおいてこんな事を言うのもどうかと思うが、君は人を疑う事を知らないのか?」
「えっ」
「もし私がとんでもない悪人だったらどうするんだ。本当は王族でもなんでもなく、詐欺師かも知れない。君を油断させて、どこかへ連れ去るつもりかも」
「えぇえ~……?」
男の言葉に、綾那は随分と情けない声を上げた。
誤解しないで欲しい、仲良くしたいと言ったり、もっと人を疑えと言ったり、一体どうすれば良いのだ。
物事を疑ったり深く考えたりというのは、渚や陽香の役目である。綾那はただ、底なしの包容力をもってして、善悪全てを受け止める事しか出来ないのに。
申し訳程度に悩む素振りを見せた綾那は、やがてパッと顔を上げた。
「そ、颯月さん! 私には颯月さんがついているので、きっと何があっても平気です」
「彼は今、身動きが取れないだろう。羽月さんが、随分張り切っていたから――」
男の言葉に、綾那は「騎士団の内情をよく知っているのだな」と思う。彼自身ガタイが良いし、もしかすると同じ王族を近衛騎士として守護しているのだろうか。
正直言って、綾那は近衛とほとんど接点がない。一応同じ宿舎に住んではいるものの、近衛は護衛対象の王族に四六時中張り付いているため、宿舎の食堂さえも利用しないと聞いた事がある。
(いや、でも近衛騎士が護衛対象から離れて、二日連続で教会に来てるのはおかしいか)
――やはり謎だ。
綾那は男の顔を見つめながら思案した。しかし、すぐに「考えても分からない」と匙を投げると、両手で自身の頬を押さえて、口角を引き上げるようにクッと持ち上げた。
両手で作られた笑い顔の綾那に見つめられた男は、不思議そうに首を傾げた。
「お兄様は、もっと昨日みたいに笑えば良いと思います」
「……うん?」
「誤解されやすいのでしょう? 確かに、無表情で居られると取っ付きにくいし、何を考えているのかも分からないです。でも昨日笑っていた時は、颯月さんみたいで少し素敵でした」
綾那はもう、不敬だなんだと気にする事すら面倒になった。王族の男を相手に思った事をズバズバと口にする。
男は「うーん」と低く唸ると、綾那を真似て両手で自身の頬を引き上げた。
「それは少し、難しい。私は君と居ると楽しいが――人生、楽しい事ばかりではないから。いつもは笑えない」
「雪だるまとか、颯月さんのお話とかで笑っていたじゃあないですか。そういう事を思い出せば、いつでも笑えますよ」
「ああ確かに、好きなものの話題が出ると、つい笑ってしまうな。私は雪だるまが好きなんだ……結構いい奴なんだぞ。君も絵本――は、異大陸出身じゃあ、読んだ事がないか」
「ええと、雪の妖精、雪だるまでしたっけ……? 今度、小さなお友達に絵本を借りようと思います」
物理が強そうな大男が、絵本の登場人物――人ですらないが――を指して「いい奴」と評するとは、意外である。こう見えて、中身は幼いのだろうか。いや、見た目も実年齢以上に若いとは思うが。
綾那は「それにしても雪だるま、奥が深い――」と考え込むと同時に、おやと首を傾げた。
「好きなものの話題が出ると、笑ってしまうって……では、颯月さんもですか?」
その問いかけに、男は無言になった。
しかしたっぷりと間を空けてから、やがて小さく頷いたため、綾那は「なんだ、同志だったのか!」と喜んで――そして、ますます男の正体が分からなくなった。
(つまり、やっぱり王様じゃないって事? もう、訳が分からなくなってきちゃったな……)
国王は、颯月の事を殺したいほど憎んでいるはずだ。けれども愛する輝夜の忘れ形見を手にかける事ができず、勘当して遠ざけるに留めた――と。まかり間違っても好きな訳がない。
改めて男をじっと眺めていると、にわかに教会の中が騒がしくなった。子供達がはしゃいでいるのだろうかと思ったが、聞こえて来たのは静真の「今は、お客様がいらしていて――!」と誰かを制止する声だ。
また別の客が来たのかと目を瞬かせれば、裏庭へ繋がる扉がバン! と勢いよく開かれた。突然の事にびくりと肩を揺らして扉を見やれば、そこに立っていたのは、仮面の男――竜禅だった。




