少女と雪の精
綾那が教会に身を寄せた、翌朝。
静真や子供達と一緒に朝食をとり、そう広くない教会内の清掃を済ませる。するとあっという間に昼食の時間がやって来て、腹ごなしに子供達と遊ぼうか――というタイミングで、一人の少女が母親に連れられて教会を訪れた。
それは、朔に恋心を抱いているらしい澪という少女だった。
肩より長い黒髪を両耳の横で結んだツインテールに、少々気の強そうな釣り目は焦げ茶色。肌もよく日に焼けていて、綾那は初めて間近で見る澪に対して、「なんだか黒兎のようで可愛らしい女の子」という感想を抱いた。
――しかし残念な事に、澪の方は綾那に対して全く好意的ではなかった。
彼女は、綾那達が裏庭で何をして遊ぶか悩んでいるところに、意気揚々と飛び込んで来た。
ただ飛び込んで来たタイミングが大変悪く、彼女の意中の人間である朔はその時――綾那に抱き着いて「アーニャ大好き! 大きくなったら僕と結婚しよーね!」とプロポーズしていたのだ。
石像のようにカチンと固まった澪は、大層ショックを受けた顔をしていた。
恋する少女の登場と傷心に気付いた綾那は、「あっ」と漏らして苦く笑ったが――澪はぷるぷると体を震わせたのち綾那を睨みつけると、開口一番「誰!? このぶっさいく!!」と罵声を浴びせたのである。
そこから瞬く間に、綾那を囲んで子供達の戦争が勃発した。
「アーニャは可愛いよ! 女の子の中で一番可愛いもん!!」
「そんな訳ないでしょ? だって、正妃様と全然違うじゃない! そんなに太ってて、恥ずかしくないの!?」
「恥ずかしくない! アーニャはふわふわで、牛みたいなのが可愛いんだもん! おっぱいだって一番大きいんだから!」
「バッカじゃないのー!? それが一番恥ずかしいって言ってるのよ、朔ってばホンット見る目なーい!!」
「――あ、あの、もうその辺でやめて欲しいかな……ええと、私ちょっと向こうに行ってるから、朔はまず澪ちゃんと仲直りして――」
「ダメ! ヤダ! 僕アーニャと一緒に遊ぶ、アーニャの方が好きだもん!!」
「はあ!? こんなオバサンのどこがいーの、あり得ない!! 朔のバカ!!」
「あぁあ朔、お願いだから澪ちゃんに謝って……私、もし颯月さんにそんな事言われたら、大泣きしちゃうよ――」
綾那は両手で顔を覆うと、出会ったばかりの澪の心情を想い涙目になった。
確かに、初対面の人間に向かって「不細工」「太ってる」なんて容貌を貶す言葉を浴びせるのは、決して褒められた事ではない。ただ、彼女のコレはあくまでも嫉妬なのだから、可愛らしいものである。
澪は、朔に会いたくて教会へ足を運んでいるのだ。何故会いたいのかと言えば、それはもちろん朔が好きだからだ。
まだ幼いとは言え、好いた男が他の女――それも、アイドクレース民からすれば魅力の欠片もないような女――を口説く場面に遭遇したら、どうなるか。
取り乱すのも牽制するのも、至極当然である。
さて、どう収拾をつけたものかと悩んでいると、次は横から幸輝が参戦してきた。
「おい澪! お前より、アヤの方が先に朔と仲良くなったんだからな! 後から来たヤツがガタガタ言うなよ!」
「え!? で、でも、いつも教会にこんな人、居なかったじゃない!」
「アヤは大人だから、お前と違って忙しいんだ! ――あと、確かにアヤは牛女だけど、顔だけはブスじゃねえだろ!? お前性格悪すぎ!」
「うっ……」
(うーん……庇ってくれているはずなのに、絶妙に貶されているような気がするのはどうしてかな)
幸輝に詰め寄られた澪は、グッと口を噤んだ。突然現れた恋敵にくわえて、年上の男の子からキツイ態度で叱られた彼女は、ショックで瞳をウルウルと潤ませている。
綾那は幸輝を落ち着かせるようにぽんぽんと頭を撫でると、澪と視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「――初めまして、澪ちゃん。私は綾那っていいます」
「………………」
「どうしたんだチビ、話せなくなったのか?」
更にヴェゼルまで割って入って声を掛けたが、澪は口を噤んだまま、綾那の視線から逃れるように俯いた。
しかし、ふと綾那の左手薬指に嵌る指輪に気付くと、弾かれるように顔を上げる。
「――えっ、何? オバサン、結婚してるの?」
「うん? ああ……これはまだ婚約指輪だよ。でも、絶対に結婚したい人がくれたものだね」
「紫色……悪魔憑きの赤じゃない。じゃあ、朔の「契約」じゃないよね?」
指輪を彩る魔石の色を確かめて、澪は首を傾げた。
男性の場合、法律上婚約者をもっていいのは二十歳を超えてからだ。そもそも幼い朔が「契約」を使っても問題ないのだろうか――なんて思いつつ、綾那は指輪を眺めて微笑み、幸せな気持ちで頷いた。
綾那の反応に、澪はほっと息をつく。
「な、なーんだ。じゃあ、朔の片想いなの?」
「片想いって何?」
朔は目を瞬かせて不思議そうに首を傾げたが、澪は途端に上機嫌になると「なんでもなーい」と嘯いた。
しかし改めて綾那の顔を見やると、途端に気まずげな表情になる。
「その――不細工では、ない……ごめんなさい……」
「うん、謝ってくれてありがとう。アイドクレースらしくないって事は、よく分かってるからね」
そもそも颯月が庇ってくれなければ、綾那など本当にただの牛女である。アイドクレース領が――特に、正妃が住まう王都がそういう所なのだから、こればかりは仕方がない。
綾那はもじもじしている澪の頭を撫でると、朔と幸輝の腕を引いた。
「ほら、澪ちゃんは謝ってくれたよ、仲直りしようね」
「でも、アヤのことブスって言ったじゃん。アヤは颯月の女なんだから、ブスな訳ないのによ――」
「ふふふ、そうよ? 私は颯月さんの女だからブスじゃあないし、颯月さんの女はこんな些細な事で怒らないの。澪ちゃんは謝ったんだから、もう良いでしょう? 幸輝は騎士になるんだし、女の子には優しくしなくちゃね」
機嫌よく笑う綾那を見て、やがて幸輝は澪に「……キツイ言い方して悪かった」と言って軽く頭を下げた。
澪もまた慌てたように頭を下げて「ごめんなさい」と返したが、問題の朔はしゃがんだままの綾那にぎゅうとしがみついて、頬を膨らませている。
「――ミオ、優しくなったと思ったのに、やっぱり意地悪だよ。アーニャが可哀相……」
「ご、ごめんなさい……」
「朔、澪ちゃんは知らない人が教会に居たから、びっくりしただけだよ。朔だって、初めて会う人とお話しするのは怖いでしょう?」
「……うん」
「じゃあ許してあげて、澪ちゃんはお友達なんだよね」
「うん、分かった。ミオ、もうアーニャに意地悪しないでね。僕達、にーちゃんからアーニャを守るように言われてるんだから」
澪は「にーちゃん?」と首を傾げだが、しかしすぐにコクコクと何度も頷いた。ひとまず終戦を迎えた子供達に、綾那はほうと安堵の息を吐き出す。
まさか、教会で迎えた最初の朝にこんな騒動が起きるとは。それなりに精神力を削られた気はするが、逆に考えれば早い段階で澪と出会えて良かったのかも知れない。
これからしばらく教会で過ごす以上、ほぼ毎日遊びに訪れるらしい彼女との出会いイベントは避けて通れない。何かと綾那を構う朔に恋心を抱いているところからして、澪とのバトルもまた避けられなかっただろう。
だから、この揉め事を早々にこなせたのは大きい。颯月の指輪のお陰で妙な誤解をされずに済んだし、もう明日からは彼女の目を気にする事なく子供達と遊べそうだ。
「澪ちゃん、お母様は?」
「神父様と、楓馬お兄ちゃんとお話してるけど……あとでこっち、来ると思う」
「そっか。じゃあ澪ちゃんも一緒に遊ぼう?」
「えっ……お、オバサンも一緒なの?」
「うん、ダメかな? 私が居ると遊びづらかったら、テラスで皆の事見てるけど――」
「ええと……」
戸惑う澪を、朔がじろりと見た。彼の視線に気付いたらしい澪は、びくりと肩を揺らして首を横に振る。
「う、ううん、ダメじゃないよ、一緒に遊ぶ!」
「良かった、それじゃあ何をして遊ぼうかな」
朔との関係性について妙な誤解をされなかったと言っても、綾那と澪が打ち解けるまでの道程が前途多難である事に変わりはないようだ。
どう距離を縮めるべきかと頭を悩ませる綾那の背を、ヴェゼルがばんばんと叩いた。
「なあ、この前赤いのが大縄跳びっての教えてくれた! それやりたい! 縄探そう!」
「赤いのって……もしかしなくても陽香の事です? 本当に人の名前を覚えるのが苦手なんですね……でも、分かりました。静真さんに長い縄があるかどうか聞いてみましょうか」
「俺が聞いてくる! ついでに楓馬も連れて来るからな!」
ヴェゼルは意気揚々と教会の中へ駆け込んで行った。本当に無邪気な悪魔である。
綾那は困ったように笑って立ち上がると、澪をおいでおいでと手招き裏庭の中央まで誘った。
彼女は素直について来たが、じーっと穴が開きそうなほど綾那を凝視して、上から下まで品定めするように観察しているのがよく分かる。
太陽代わりの明るい光球の下では、綾那の肌の白さは殊更際立つ。日焼けしているのが当たり前のアイドクレース民からすれば、少々病的に映るレベルの白さかもしれない。
水色の髪は異大陸の人間である事をこれでもかと示しているし、『マシュマロ』『牛』と称される肢体は、どこもかしこも豊満過ぎるだろう。
「…………雪だるまみたい」
ぽそりと呟かれた澪の言葉に、綾那はまた新しい蔑称が増えたと遠い目をする。
リベリアスに来てからと言うもの、『ゴリラ』と呼ばれる事は随分減ったのだが――しかしまさか、神子として持て囃されて生きて来た自身が、ここまで容姿を揶揄される事になるとは思わなかった。
(まあ、他でもない颯月さんが痩せるなって言うなら、痩せずに耐えるけどさ……)
だからと言って一つも傷つかないかと言われれば、それも少々違うのだ。
複雑な表情を浮かべた綾那を尻目に、朔が「雪だるまって?」と問いかけた。
彼はアイドクレース生まれのアイドクレース育ち。年中温暖な気候のアイドクレースには、雪など降らない。
澪は朔に話しかけられた事が嬉しかったのか、ふふんと得意げな顔をして説明する。
「何よ朔、雪だるまも知らないの? 北の寒い所では、空から雪っていうのが降るのよ」
「空から? じゃあ雨みたいなもの?」
「そうだけど、もっと冷たくてふわふわの氷なの。今度絵本を持って来てあげる。雪だるまは、雪でできた真っ白で真ん丸の妖精よ」
「白くてふわふわの妖精なんだ! じゃあ、アーニャにぴったりだね! 僕もこれから雪だるまって呼ぼうかな?」
「えっ? いや、で、でも、あんまり外では言わない方が良いかも? 人の事を雪だるまなんて言ったら、びっくりされちゃうかもだし……!」
「そっかー、可愛すぎてビックリされちゃうかもだよねー」
「そ、そうよ! この人が妖精だって事がバレたら大変でしょ? 誰かが捕まえに来るかも知れないわ!」
「うん、それは大変だ!」
雪を知らない朔は、どうやら『雪だるま』が綾那の体形を揶揄した蔑称だと気付かなかったらしい。
素直に自分もその呼び方を使おうかと笑った朔に、澪は慌てた様子で「他所で言うな」と釘を刺した。大人の耳に入れば、面倒な事になると危惧したのかも知れない。
しかし、ここまで分かりやすく同性に――それも女児から敵意を向けられるのは初めての事だ。やはり男女を巡る痴情のもつれというものは、年齢関係なくこの世で一番恐ろしい。
(今まで同性の目の敵にされる役割は、問答無用でアリスが担ってくれていたから……ちょっと新鮮かも知れない。「偶像」が無くなった以上、これからはアリスを頼れないものね)
まあ子供のする事なのだから、ある程度は大目に見た方が良いだろう。好きな男が奪われるかも知れないと恐れて攻撃的になる気持ちは、綾那にもよく分かる。
それにしても、雪だるまが雪の妖精として描かれた絵本とやらは、面白そうである。
澪は今度絵本を持ってくると言っていたし、朗読役を綾那に任せてもらえたら、絵本の内容も分かるだろうか。その日が楽しみだ。
(――――ん? 雪だるまが雪の妖精……? それってつまり、雪の精?)
その答えに至った綾那は、街の駐在騎士の間で自身が『雪の精』なんて呼ばれているアレは、もしや褒め言葉ではなく『雪だるま』の暗喩だったのではないか? ――と、疑心暗鬼に陥った。
雪の精とは、まるで美々しい女神のような姿をしているものだと勝手に思い込んでいた。
だから、そんなハードルを上げるような真似はよしてくれと辟易していたのだが――とんでもなく傲慢な、恥ずかしい勘違いだったのかも知れない。
子供から呼ばれる分にはまだダメージも少ないが、モノの分別のついた大人にそんな蔑称を使われるのは、なかなかにクるものがある。
綾那は子供達が居る手前表情にこそ出さないように注意したが、それでも小さく肩を落としたのであった。




