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逃避行

 ――あれから、どれぐらいの時間が過ぎただろうか?

 途轍もない時間が過ぎたような気もするし、まだ五分すら経っていないような気もする。

 ふと、ここには時計があるじゃないかと思い至り、執務室の壁に掛けられたものを見やれば、どうやら大体三十分経ったところらしい。


 もう三十分なのか、それともまだ三十分か。この部屋に居る以上、綾那は室内訓練場の様子を一切窺い知る事ができない。


 今どんな状況だろうか。アリスはルシフェリアが顕現した姿を見るのが初めてだから、まずはその説明からか。

 ギフト「偶像(アイドル)」の詳しい説明も必要だろうし、颯月よりも先に他の誰かで効果を実証しようという話になっているかも知れない。


 お誂え向きにあの場所は多くの男性が集められているし、同性の桃華も居る。まあ「偶像」が原因で仲(たが)いするなど、双方にとって可哀相な話だから避けて欲しいが――実験し放題である。

 そうして実験しているにしても、もうそろそろ結果が出ても良い頃合いなのではないか。


 綾那は、無意識の内に白くなるほど強く握り込んでいた拳を開いた。その手は僅かに震えていて、結局は期待よりも、颯月を失う恐れの方が(まさ)っているのだと思い知らされる。


(ダメ、弱気になるな……いい結果を引き寄せなきゃ……引き寄せ――)


 繰り返し言い聞かせていると、その時は突然訪れた。――ズシンと、突然建物が揺れたのだ。


(じ、地震……!?)


 綾那はすぐさまソファから立ち上がると、ひとまず目の前にあるローテーブルの下に身を隠すべきかと考えた。「表」に居た時はそれなりに経験したが、リベリアスで地震が起きるのは初めての事だ。


 しかし、どうも初めの一回だけで揺れはぴたりと止んだらしい。家具が倒れるとか身動きが取れなくなるとか、そんな深刻なものではないようだ。


(震度三か四ぐらい……かな。びっくりした)


 ただ、油断は禁物だ。もしかするとこの後に、もっと大きな揺れが来るかも知れないのだから。


 綾那は、一人取り残されている自身の安全についてはもちろんの事だが、颯月達の事が心配になった。

 室内訓練場には調理用に器具を運び込んでいるし、火元――備え付けのコンロもある。地震と言えば、振動だけでなく火事も怖い。誰もケガをしていないと良いのだが。


 その時ふと、この執務室の窓から室内訓練場の屋根ぐらいは見えるのではないかと気付いた。綾那は窓際へ移動すると、訓練場のある方角を見て瞠目する。


(煙!? ――と、なんだろう、アレ?)


 訓練場の屋根から細く黒い煙が上がっている。更に建物全体を覆うようにして、紫色の光がばちばちと明滅しているではないか。

 その様相は見ようによっては美しいが、しかしまるで漏電したように絶えず弾ける火花は、どう考えたって不穏である。


 一体、何が起こっているのか。やはり先ほどの地震のせいで火事でも起きたか。綾那にはイマイチ仕組みの理解できない、魔法の電気を供給するためのケーブルか何かが損傷したのかも知れない。


(大丈夫なのかな……様子を見に行った方が――いや、でも)


 ここで心配していたって仕方がない。不安なら、今すぐに様子を見に行くべきだろう――それは理解できる。

 ただ、魔法の使えない綾那が行ってどうなるのか。それも、「怪力(ストレングス)」すらもたない状態であの場所へ行って、何ができるのだろうか。


 邪魔になるだけかも知れない。そもそもあそこでは今、颯月とアリスが『試合』しているはずだ。綾那が殴り込みに行ったせいでズルだなんだと言われては、真剣に頑張っている颯月に申し訳が立たない。


 ――いや。これらは全て、()()に過ぎない。

 綾那はただ、見たくないのだ。あっさり「偶像」に負けて、自分からアリスに乗り換えた颯月を。


 そうして弱気になったのがまずかったのだろうか。ダンダンダン! と叩くように扉をノックする性急な『迎え』に、綾那は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。


(颯月さんじゃ、ない――)


 この執務室は彼の部屋だ。颯月なら自分の意思で、ロックのかかった魔法の扉を開けられる。


 綾那は、胸にぽっかりと大きな穴が開いたような喪失感を覚えた。視界は瞬く間にじわりと滲み、歪んだ。

 それでもなんとか気力を振り絞って、絶えず焦燥に駆られるように叩かれ続ける扉に、一歩一歩近付いた。


 がちゃりと扉を開けば、飛び込んできたのはやはり颯月ではなく、陽香だった。


「陽香――」


 気付けば、ぽろぽろと涙が溢れていた。やはり颯月でも「偶像」には勝てなかったか。十分に覚悟していた事とは言え、辛くて仕方がない。


 陽香は一瞬言葉を詰まらせたが、しかしすぐさま「ちょっと外出るから、マスクしろ!」と言いながら綾那の手を引くと、執務室から引っ張り出した。そうしてズンズンと歩く陽香に、綾那はもう一度「陽香」と呼び掛ける。


 今まで散々、どうせ捨てられるとイメージトレーニングをしてきた成果なのだろうか?

 とんでもなく辛くて泣きじゃくりたいくらいの心境なのに、不思議と頭の芯は冷え切っている。だから陽香の歩く方向が、室内訓練場とは真逆である事にもすぐに気付いた。


「どこに行くの? 颯月さんは、どう――」

「――い、今それどころじゃねえんだ、まずい事が起きた!」

「え……」

「とにかく、ここから逃げるんだよ! 今以上にヤベー事になる前にな!!」


 陽香の話す内容も、彼女が恐れている事も、綾那には何一つとして理解できなかった。

 ただ前を歩く陽香の焦りようと言ったら、数年に一度見られるかどうかの焦りっぷりである。それこそ、すぐそこまで命の危機が迫っていると言っても過言ではないほどに。


「もしかして、さっきの地震と何か関係がある……?」


 恐らく、なんらかの緊急事態が発生したのだろう。アリスと颯月の試合も中断したのかも知れない。


 陽香の尋常ではない様子に泣いている場合ではないと思った綾那は、なんとか涙を引っ込めた。まだ瞳も頬も濡れたままで視界も悪いが、マスクを付けたせいで満足に拭えないため、こればかりは仕方がない。


「――地震? 違う、さっきのは魔法だ。ただ、関係は……ある、めちゃくちゃある。とにかく今は危険すぎるから、急いでここから離れるぞ。ああクソ、アーニャにも「軽業師(アクロバット)」があればな! したら確実に逃げられただろうに……あたしにだけあっても、意味がねえのよなあ……!」

「え? あ……じゃあ陽香、シアさんにギフト返してもらえたんだ」


 綾那は陽香に手を引かれたまま、思案に耽る。

 先ほどの揺れが魔法によるものだとしたら、そもそも何故、誰が、そんなものを発動したのだろうか。そうすると、訓練場の周りを渦巻いていたあの紫色の光も魔法――色からして、颯月のものか。


 陽香のこの慌てよう、そして建物が揺れるほど大掛かりな魔法。それも、発動したのは恐らく室内訓練場で、訓練場からは煙も上がっていた。

 彼女まで無事ギフトを返却されているという事は、ルシフェリアはまず間違いなくアリスの「偶像」を吸収し終わっている。

「偶像」を吸収する事によって得られる天使の力とやらは他と比較できないほど大きいらしく、「偶像」さえ吸収すれば綾那と陽香から借りたギフトを一括で返せる――とは、ルシフェリアの言である。


 つまり、アリスと颯月の試合は既に終わっているのだ。しかも、こうして颯月ではなく陽香が迎えに来たという事は――やはり彼は、()()()のだろう。


 それら一つ一つを組み合わせて浮かび上がって来た可能性に、綾那はまさかと唇を戦慄かせた。


「よ、陽香。もしかして颯月さん――「偶像」に負けて、竜禅さんに介錯(かいしゃく)を頼んだ……?」


 あの主従は、いつかの会議で言っていたではないか。もしも颯月が「偶像」に負けそうな時は、「いっそ殺してくれ」と。

 竜禅はその頼みを承諾しただけでなく、「そのあと、必ず綾那も道連れに」と続けられたトンデモな要請にも頷いた。


 まさかその結果が、この謎の逃避行であると言うのか。つまり、綾那はこれから竜禅に追われる事になるのだろうか。いや、そんな事よりも一番の問題は、颯月の生死である。


 サッと青褪めた綾那に、陽香は足を止ないまま顔だけで振り向いた。やはり彼女はなんとも言えない複雑な表情を浮かべていて、その心情はイマイチ読み取りづらい。


「…………いや、まあ、とりあえず颯様生きてはいるから、そこは安心しろ。ただ、お前が()()()()()事に違いはない」

「狙――それって、颯月さん直々(じきじき)に邪魔な私を始末する方針に変わった、とか? やっぱり、「偶像」で考えが変わっちゃったんだ……でも、生きてて良かった」


 陽香は答えないまま前を向くと、まるで話している時間が惜しいとでも言うように足を速めた。そうして辿り着いたのは、騎士団本部の裏口である。

 扉を開いて庭へ出れば、五十メートル先にはあの豪奢な裏門が見えた。結局のところ、何がどうなっているのか事態は全く分からないが――とにかく、逃げるという目的だけは達成できるだろう。


(逃げる、か。でも逃げると言ったって、これからどうすれば――)


 これまで颯月の財力に依存して生活してきた綾那には、いまだに自由に使える金がない。

 しかもリベリアスの知人と言えば、アイドクレース騎士団の面々がほとんどだ。少なくとも団長(颯月)が正気に戻るまでは、綾那の手助けなんてできないだろう。

 教会の静真や桃華の店を訪ねたところで、どちらも颯月の庭なのだ。愛情深い彼の事だから、「偶像」の効果が完全に切れるまでアリスを寵愛するだろう。綾那にそうしたように、彼女を連れて庭を歩き回るに決まっている。


 しかし、他の領に助けを乞える相手が居る訳でもない。どうせなら事が落ち着くまで、南のセレスティンへ行って渚と合流したい――のは山々だが、そもそも綾那に海を渡る術なんてない。

 逃げるのは良いが、その後はどこでどう生きれば良いのだろうか。


 綾那は現実逃避するように、ただ漠然と、最低でもルシフェリアに「怪力」を返却してもらわねば辛いと考えた。「怪力」さえあれば野宿も頑張れるかも知れない。

 そうして少しずつ大きくなる裏門をぼんやり眺めていると、陽香が綾那の手を離す。彼女は門を開こうと、一人豪奢な門に駆け寄った。


 するとその時、不意に背後から聞き慣れた低い声が響く。


「――「風縛(バインド)」」

「おぅわっ!?」

「よ、陽香!?」


 風の拘束魔法――半透明な鞭のようなもので手足を絡めとられた陽香は、あっという間に芝へ転がされてしまった。

 綾那は、「風縛」で人間を簀巻きにするとは、こういう使い方もあるのか――と、状況も忘れて感心する。


 刺すような視線を感じて振り向けば、随分と不機嫌な顔をした颯月がこちらへ歩いてくるのが見えて、綾那はその場へ立ちすくんだ。

 何やらこうして颯月を目の当たりにすると、実感が湧いてくる。彼のあの顔は――不快極まりないといった表情は、今まで綾那に対してほとんど向けられなかったものだ。

 もしかすると初めて出会った時、森の中で彼の素顔を見た綾那が悲鳴を上げた時以来ではないか。


 ――ああ、本当に颯月は負けたのだ。「偶像」に釣られていながらアリスの傍を離れているのは、綾那を消すという使命に燃えてしまっているからなのか。


(殺されちゃうのかな……私が邪魔なら、言ってくれれば消えるのに……「契約(エンゲージメント)」だって、解除に応じるし――)


 気付けば、綾那の身体は震えていた。いくら愛する颯月が相手だとしても、殺されるのは――それもこんな、ギフトによる痴情のもつれで死ぬのは辛い。

 しかし、魔法を使えば敵なしの悪魔憑きから逃げ切れるはずもない。不意打ちだったとは言え、「軽業師」をもつ陽香でさえあっという間に簀巻きにされたのだから。


 詰みだ。綾那は、まるで許しを請うように――あるいは逃げる気力を失って観念したように、その場にへたり込んで俯いた。祈るように組まれた両手も、先ほどから震えが止まらない。

 ショックのせいか急激に酸素が薄くなった気がして、視界がぼやける。


「ちょっ、ちょっと待て!? 颯様ストップ! 実力行使の前にまず、話をしようぜ!!」


 簀巻きにされたままようよう顔を上げた陽香が、焦燥した様子で叫んでいる。颯月は眉根を寄せたまま小首を傾げると、「話?」と言って彼女を嘲るような笑みを浮かべた。


「――()()が、対話を希望するヤツの態度なのか? あまりにも不誠実だと思うがな」

「ち、違う違う! 別に逃げようとした訳じゃねえんだって! これは……ホラ、まずアーニャに説明してやらないと混乱するだろうと思って、一旦落ち着ける場所にだな――!」

「ああ、そうか。それは気遣い痛み()るな。だが説明なら俺がするから必要ない、「土壁(アースウォール)」」

「あ!? 待てって! オイ!? ……アーニャ! アーニャ何してんだ、早く逃げ――!!」


 颯月が魔法の名を口にすると、地面がぼこりぼこりと盛り上がった。陽香が必死の形相で「逃げろ」と叫ぶ中、綾那は颯月と共に、盛り上がった土の壁で作られた真四角の空間に閉じ込められる。


 天井まで土で覆われると、閉鎖空間は真っ暗闇になった。土壁は光だけでなく音まで遮断するのか、あれだけ大声で叫んでいた陽香の声も今では一切聞こえない。


「――「(ライト)」」


 次は、真っ暗闇の空間が柔らかな光で満ちた。天井を見やれば、まるでルシフェリアのような小さな光球が輝いている。

 悪魔憑きは光魔法を使えないと言うし、あれは雷魔法の一種か。ちらと地面を見渡せば、綺麗に手入れされていた芝が台無しになっているが、平気なのだろうか――。


 綾那はまたしても現実逃避をしながら、目の前に立つ愛しい男を黙って見上げた。

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