執務室
大盛り上がりの新任挨拶を終え、食堂から出て来た陽香に「百点!」と伝えた綾那は――ちなみに陽香は、「当然!」と言って胸を反らせた――そろそろ『散歩』の準備があるため、彼女と別れて颯月の執務室へ向かった。
食堂で陽香の挨拶に立ち会わなかったという事は、恐らくまだ仕事が立て込んでいるのだろう。
もしかすると、昼間に執務机を埋め尽くしていた書類を残したまま、取り急ぎセレスティンの話を伝えに来てくれていたのかも知れない。
彼の執務室の扉の前に辿り着き、ドアノブを回す。ゆっくり扉を開いて中を覗くと、こんもりと積まれていた書類の山は綺麗に整理整頓されていて、既に決裁済みなのだという事が分かる。
(うわあ……明らかに二、三日分の量だったのに、もう綺麗に片付いてる。やっぱり颯月さんって凄いんだな)
ほうと感嘆の息を漏らした綾那は、しかし室内を見回して首を傾げる。肝心の颯月の姿が見当たらないのだ。
まさか、綾那を置いて一人で街の外へ行ったとは考えにくいが――しかし執務室に居ないとなると、この時間彼が行きそうな場所なんて思い浮かばない。
何せ綾那は、彼の私室がどこにあるのかさえ知らないのだから。
ただ、部屋の電気がついている事からして、恐らく一時的に留守にしているのだろう。
電話やメールといった通信機器がない世界のため、下手に動き回るとすれ違いかねない。綾那はひとまずここで待ってみよう――と、室内へ足を踏み入れた。
すっかり綾那の特等席兼、仮眠用ベッドとなった長ソファに腰掛けると、改めて部屋の中を見渡す。
窓際の日当たりが良い場所に大きな執務机。壁際には背の高い本棚が並んでいる。
今まで緊張や颯月を目に焼き付ける事に夢中で、本のタイトルを観察する余裕がなかった。しかし一冊あたり何百、何千ページとありそうな分厚い背表紙が、パッと見ただけでも百冊以上ありそうだ。
棚の一部分、ごっそりと本が抜けているところもある。誰かに貸し出しているのだろうか。
棚に並んだ本は、どうやら法律に関するものが多いらしい。
さすがは元王太子だ。彼は現王太子の維月が生まれてから勘当されるまでの間、次期国王として厳しい教育を施されていた。
リベリアスの国王は単なる国の象徴というだけでなく、「表」の最高裁判事のようなものでもある。ゆえに法律に精通していなければ、仕事にならないのだ。
これらは颯月にとって、幼少期のトラウマをこれでもかと刺激する教材だろうに――わざわざ日常的に目に入る所へ置いているのは、少々意外である。
綾那はふと、趣味の魔法関連の本は置いていないのだなと思った。しかし考えてみれば彼は、既に魔法の詠唱を丸暗記しているのだ。
きっと読み返す事もないだろうし、あっても本棚のスペースを圧迫するだけなのかも知れない。
(となると、法律は丸暗記している訳じゃあないって事なのかな? いや、もし丸暗記してるって言われたら、ちょっと魔法の詠唱の時以上に引いちゃうんだけど――)
颯月ならば丸暗記もあり得る。そんな事を思いながら、綾那はソファから立ち上がると、執務机の方へ移動した。
普段彼が座っている時は仕事の邪魔になるだろうと、あまり近付かないようにしているのだ。
しかし今は誰も居ないため、少しくらい見させてもらっても良いだろう。もちろん、引き出しを開けるなんて不躾な真似はしないが――。
「…………――ッヅ……!」
執務机の椅子側に回った綾那は、机の上に置かれているモノを目にすると、短い奇声を上げてその場へしゃがみ込んだ。
(いや、家宝にするとは、言っていたけれど……っ!)
机の上に置かれた手の平サイズの写真立て。その中には、いつか綾那とルシフェリアと颯月の三人で竜禅に撮ってもらった写真が飾られている。
仕事場の机に置かれたら、まるで本当に家族写真のようではないか。一体どれだけルシフェリアが気に入ったのだ――そう考えた綾那は、途端に頭が冷えてしょんぼりと落ち込んだ。
(やっぱり、養子じゃなくて自分と血の繋がった子供……欲しいのかな)
悪魔憑きには子種がない。だから一生悪魔憑きの颯月に、実子は望めない。
彼と輝夜の人生を狂わせたのは、確かヴィレオールとかいう悪魔だったはずだ。
どこか抜けていて精神的に幼いヴェゼルとは、悪さのレベルが段違いである。もしも会ったら、少し強めに殴っても良いだろうか。
綾那はそんな物騒な事を考えながら立ち上がると、再び長ソファに戻った。
――すると、ちょうど腰を下ろしたタイミングでがちゃりとドアが開かれる。
パッと顔を上げると、街中ではなく本部の中だと言うのに、何故か「魔法鎧」を着込んだ颯月が入室してきた。
「…………颯月さん?」
「――ああ。綾、悪い、待たせたな。行こうか」
「え? あ、はい……」
――何故、街へ降りる前から「魔法鎧」を? 今までどこに? 結局、陽香の挨拶は見なかったのか?
綾那は頭上に大量の『?』を飛ばしながらも、「急ごう」と手を引く颯月に大人しくついて行った。




