疲労回復
一人子供部屋に残された綾那は、床に伏せたまま、どうしたものかと考えあぐねた。
子供達は、夕食前だというのに勝手に静真を鬼にして、かくれんぼを始めてしまった。綾那の監督不行き届きもいいところである。
じっと伏せっていたため、眩暈は既に収まった。静真の手を煩わせる前に子供達を探しに行きたい。しかし、動けばまた視界が回って倒れ伏すかも知れない思うと、迂闊に身動きがとれない。
ヴェゼルは「ルシフェリアが少し休めって」と言っていた。つまり、この唐突に始まったかくれんぼは――ヴェゼルの希望ではなく、ルシフェリアが彼に人払いを命じた結果なのだろう。
普段綾那を放置の偉大なる天使様が、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。その思惑を確かめたいところではあるが、しかしヴェゼルまで居なくなってしまっては、不可視の存在と会話する術がない。
綾那は息を吐き出して、床の上でごろりと仰向けになった。何はともあれ、「休め」と言うならいくらでも休む。子供達の事は――静真を呼ぶと言っていたし、ヴェゼルに任せておけば平気だろう。
思えば光魔法で眷属の囮にされてからというもの、完全に綾那一人になったのは久しぶりの事だ。
今なら寝言も涎も気にする事なく、思う存分眠れるのではないか。いや、どの道もうすぐ颯月が迎えに来てしまうから、やはり眠る訳にはいかない。
とりあえず目を閉じてみたものの気が緩む事はなく、どうしたって寝付けそうにはない。しかしせめて少しの間、眩暈を起こすほど疲れているらしい体を労わるべきだ。綾那は楽な体勢になろうと寝返りを打った。
すると、その時。突然室内が目を焼くような閃光に満たされて、綾那は閉じた瞼の上から両手で覆った。
やがて閃光が収まると、恐る恐る手をどけて目を開く。すっかり白んだ視界がクリアになると、綾那とよく似た女児が目の前に座っていた。
「……えっ」
「やあ、久しぶりだね。僕に会いたかったでしょう? 言わなくても顔を見れば分かるよ」
小首を傾げて笑う女児の表情は不敵で、ふてぶてしい。綾那と同じはずの顔も、全く違うもののように見える。
はた迷惑な出現方法にしろ、この尊大な喋り方にしろ、まず間違いなくルシフェリアが顕現した姿だ。
ただ、幼児姿だった以前とは違う。今のルシフェリアは、七つか八つ――朔くらいの年齢にまで成長している。
(ど、どうして『顕現』できるの? 夏祭りの日に力を失ったはずなのに)
綾那は何が起こっているのか理解できず、床に横たわったままぱちくりと瞬きを繰り返した。ルシフェリアは笑みを深めると、綾那の頭に小さな手を伸ばして撫でつける。
「颯月が、ここ最近一体どれだけの眷属を倒したと思っているのさ。嫌でも力が戻って来るよ、さすがにね」
「あ……颯月さんが、頑張ってくれているから――なるほど」
ルシフェリアは、呆然としている綾那の隣に腰を下ろす。そして、まるで横たわる綾那を背もたれにするようにして寝転んだ。
「随分と顔色が悪いじゃあないか、君は顔だけが取り柄なのに」
「……あれ? ええと、侮辱されていますよね……?」
「ええ? この上なく褒めてるよ。何せこの僕、美の天使が顔を褒めたんだよ? 君は本当に顔が良い――もしかして僕って、垂れ目の子に弱いのかな。ほら、あの子も垂れ目じゃない?」
あの子――というのは、もちろん颯月の事だろう。綾那は「確かに、颯月さんは宇宙一顔がいいです」と頷いて、改めてルシフェリアを見やった。
「以前より、お体が成長されているように見えますが――」
「うん、前よりも力が戻っているよ。返そうと思えば、ギフトもいくつか返せるかな」
「本当ですか? それじゃあ――」
――「怪力」を返してくれませんか。そう言いかけた綾那の言葉を遮って、ルシフェリアが「良いの?」と小首を傾げる。
問われている事の意味が分からずに、綾那もまた首を捻った。
「僕、本当はもうとっくに「偶像」の封印も解けるんだよね」
「え――」
「君から預かったギフトを先に返したら、あのいけ好かない子の封印を解かずに意地悪している事がバレちゃうじゃないか」
「い、意地悪、と言われましても……」
綾那は苦笑したつもりだったが、しかしどうしても顔が引きつって、上手く笑えなかった。解けるものをあえて解かずに放置している意味を思うと、絶望的な気持ちになってしまったのだ。
つまり、「偶像」が発動すると――颯月は間違いなく、綾那の元を離れてしまう。そう言われたも同然だった。
「……ああ、泣かないでよ。君の泣き顔って、不思議と辛くなるんだよね」
困ったように眉尻を下げたルシフェリアに頬を拭われて、またもや無意識に泣いていたらしい綾那は、すっかり参ってしまう。
やはり、奇跡なんて起きないらしい。
ただでさえ「偶像」が効きづらい相手というのは、男女問わず少数派である。それが偶然、綾那の好む男性であるなど――それは一体、どれほど限られた確立になるのだろうか。
綾那がどれだけ足掻いたって、颯月はこの先アリスのものになってしまう。綾那の事など見向きもしなくなり、ずっとアリスにべったりと寄り添うようになるのだ。その様子がやけに鮮明に想像できた綾那は、何やら怖くなってしまって、ふるりと体を震わせた。
(私は、いつからガチ恋勢になったの――? ファンなら、幸せを願わなきゃダメなのに)
いつからと言えば、正直、最初からだったような気もする。彼の姿に魅入られて、打たれ弱い中身を知って。彼に執着されるのが、もうずっと前から幸せだった。
魔法でしか外せない指輪を嵌められた時も、逃がさぬよう手首を強く掴まれて、薄いアザが出来た時も。他の男に取られたくない――なんて可愛い理由で、いとも簡単に魔法を暴走させてしまう危うさも。
果たして綾那は、アリスに寄り添う颯月の姿を見て耐えられるのだろうか。本当に彼の幸せを心から願えるのだろうか。それとも颯月の言うように、この世でダメならあの世で結ばれたい――と、危険な思想に染まってしまうのだろうか。
いっそファンでもなんでもなくなる勢いで、「あんな人、ただの浮気男だし」と興味を失ってしまえれば良いのに。そうすれば綾那が苦しむ事はないし、颯月に無理心中を迫る事もないだろう。
(どうでもいい――なんて、切り捨てられるはずがない)
何せ相手は、今や絢葵を越えて綾那の宇宙一となった男だ。
綾那は、一般的に「最低のクズ男」と呼ばれる絢葵が何をやらかそうとも、「だって、絢葵さんは神だし」と、十数年来ファンを辞められなかった。
それはきっと、相手が颯月でも同じ事なのだ。
「や、やっぱり「怪力」は、まだ当分預けておきます。そのせいで、私が颯月さんに何かしちゃうと怖いから――」
しょんぼりとしょげ返った綾那を見て、ルシフェリアは静かに「うん……まさか君がそんな事を言い出すなんて、確かに怖いね――」と、神妙な顔つきで頷いた。
そして小さく息を吐くと、綾那の髪を指先に巻き付けて遊び始める。
「どうも僕、君の事を可愛がり過ぎたみたいなんだよ」
「可愛がり、ですか?」
「そう。ずっと関わり続けていたせいか、いつの間にか君の行く末まで上手く見えなくなっちゃったんだよね。今まで余所者がリベリアスに迷い込んでも、すぐ「表」に追い返していたからさ……こんな事は初めてだよ」
「それは――何か、まずい事なのでしょうか? 今すぐに私が「表」に戻らないと、大変な事が起きるとか……?」
不安に駆られて眉尻を下げる綾那に、ルシフェリアは「んーん、別に気にしなくて良いよ」と軽い返事をした。
「僕の意識の中で、君をリベリアスの住人と認めちゃったんじゃないかな。だからきっと、「奈落の底」の世界に組み込まれたんだ。でも、いざ「表」へ帰る時の枷になるとか、この世界が壊れるって話ではないから安心してね――ただ単に、今後は君の命に危険があったとしても、全く助けてあげられそうにないってだけだからさ」
「そうですか、それを聞いて安心しま――――せんね、全く!?!?」
自身を背もたれにする女児ごと体を跳ね起こせば、ルシフェリアは「ああ~僕の枕~」と転がり、わざとらしく嘆いてみせた。
綾那は文句を言う前にハッとして、また眩暈が起きるのではないかと身構える。
しかし、不思議と頭はスッキリとしているし、体も軽やかだ。眩暈の『め』の字も思い浮かばぬほど快調な体に、目の前に転がるルシフェリアを見やった。
「――元気そうじゃあないか。やっぱり君は、元気なのが一番だよ」
「シアさん、もしかして……天使の力を使って、私に何かされましたか?」
「さあね、泣いてスッキリしただけじゃない?」
機嫌よさげな笑みを湛えて嘯く幼女に、綾那は「確かにシアさんは、私を可愛がり過ぎかも知れないな」と思って、小さく笑った。
ルシフェリアは綾那の頬に残る涙の痕を指でなぞると、珍しく慈しむような顔をする。
「……いいかい? 君の行く末が上手く見えなくなったという事は、君がこの先颯月とどうなるか、もう誰にも分からないという事だ。ただ、分からなくても不安でも――約束は約束だから、僕はどこかのタイミングで「偶像」の封印を解かなきゃならない。それは分かるね?」
「はい……私も、いつまでも逃げては居られませんよね」
「うん、君は強い子だ――まあ、もしあの子の事がダメでも……僕ってほら、これでも結構、君の事を気に入ってるからね。何かしら別の楽しみを与えて、特別に慰めてあげても良いよ」
にやりと不敵な笑みを浮かべたその表情は、やはり女児らしくない。綾那は目を瞬かせた後に破顔すると、首を傾げた。
「なんです? それ。じゃあ、シアさんが代わりに私の『宇宙一』になってくれるとでも?」
「ふふん、宇宙一? 果たしてその程度の尺度で、僕の美しさを測れるかな? そういう事は、僕の本当の姿を見てから言って欲しいね。まだまだ先は長そうだけれど」
ふーんと偉そうに胸を反らしてふんぞり返るルシフェリアに、綾那は声を出して笑った。
確かに、綾那にとって颯月の存在は大きい。しかし、まだ長い人生決して颯月が全てという訳ではないだろう。
今は彼の事以外考えられないが、他の楽しみだって沢山あるはずだ。言われてみれば、ルシフェリアの本来の姿というのも一度くらい見てみたい。
(どうしたってダメなら、早々に諦めて――ううん、もうシアさんにも読めない未来だもんね。少しだけ肩の力を抜こう)
ひとしきり笑った綾那を見届けると、ルシフェリアはふと真面目な顔つきになった。
「僕は、いつでも封印を解けるけど――そのタイミングは、君に任せるよ。颯月と沢山思い出を作った後でも良いし、下手に時間稼ぎをされても辛いだけなら、今すぐに解いてあげても良い。もうそろそろ、君にかけた光魔法の効力も消える頃合いだしね」
「……ありがとうございます。では、二週間後の繊維祭が終わった時にお願いできますか?」
綾那の問いかけに、ルシフェリアは「そんなに早くて良いの?」と目を丸めた。
早いと言ったって、本来なら今すぐに解くべきなのだ。
しかし、あっさり別れてしまう事になると寂しい。これから続く大食い大会や繊維祭のアレコレなど、『広報』の仕事に差し支える気しかしない。
腐っても広報の立ち上げメンバーとして、半端な仕事だけはしたくない。正直、颯月とダメになった後も広報としてこの場に残れるかどうかは、怪しいが――しかしその時まで、しっかりと働き切りたいのである。
「終わるなら終わるで、逃げ出す事なく……きちんとした形で終わりたいんです」
「そうか、分かった。じゃあ僕は、また二週間後に『顕現』するよ。それまで君は知らないフリをするんだ」
「はい、よろしくお願いします」
この話を聞いた上で周囲に黙っているという事は、アリスや陽香に嘘をつく事になってしまう。それはもちろん、心苦しいが――ぶっちゃけた話、綾那はもう少しだけ颯月の特別で居たいのだ。
綾那が胸中で「ごめんね、あと二週間だけ許してね」と謝罪していると、ルシフェリアの姿が光に包まれて少しずつ溶けていく。次に会う時は、「偶像」の封印を解く時――それまでは姿を消して、誰にも見せないつもりなのだろう。
光に溶けて消えていく姿をじっと眺めて見送っていると、ルシフェリアは「あ、そうそう!」と思い出したように口を開いた。
「記念に、チューくらいしても良いんじゃないかな? ――と、僕は思うよ? 昨日、凄くしたそうにしてたじゃない?」
――と言い残して、フッとかき消えたルシフェリア。
綾那は再び床に突っ伏せて、「あの時執務室に居て、しかも私の心を読んだのか――!!」と、一人身悶えたのであった。