繋がり
室内に響くのは、書類をめくる音と紙上をペンが走る音だけだ。目付け役の竜禅が大会準備に奔走しているため、執務室には綾那と颯月の二人しか居ない。
普段なら沈黙も苦ではないし、ただ働く颯月を眺めているだけで幸せなのだが――今日ばかりは色々と気まずい。何せ綾那は、彼に一度「さようなら」を告げている。
ルシフェリアが機転を利かせたのか、それとも単なる気まぐれかは分からないが、とにかく、時間稼ぎという名の猶予は与えられた。しかしだからと言って、今後どう接すれば良いのか分からない。
別れのカウントダウンは既に始まっている。やはり傷を浅く済ませようと思えば、颯月の傍に居られなくなった時の事を考えて、今からでも一線を引くべきなのだろう。
それは分かっているのだが、颯月ならもしかしたら――なんて期待している事も確かだ。
綾那はすっかり冷めたお茶を口に含むと、揺れる水面をじっと眺めた。
特にやる事もなく気まずいだけならば、いっそソファで寝てしまえば良いのだ。しかし横で颯月が働いているのに呑気に眠るなど、さすがにそこまで図太い神経は持ち合わせていない。
何はともあれ、一旦冷静になるべきだ。今は私情に駆られ過ぎている。綾那は細く息を吐きながら、目を閉じた。
(陽香がよく言っているじゃない。起こるかどうかも分からない事を憂うだけ無駄だ、『今』を楽しめって――)
どうなるか分からない未来を憂いたって仕方がない。考えても答えの出ない事で悩むのは時間の無駄だ。
そもそも、颯月がアリスに釣られたからなんだと言うのか。綾那にとって彼が宇宙一格好いい男である事に変わりはないし、ただ以前のようないちファンに戻るだけの話である。
(私ったら……ファンの立場を忘れて増長していたのかも)
正直、彼の婚約者でなくなるのは寂しい。「契約」を解除されてしまうのも、今となっては辛い。しかし、誠のファンならば――王太子のようなファンの鑑ならば、彼の選択全てを受け入れなければならない。
受け入れた上で、ただ颯月の幸せを願うのだ。
(そうなるとアリスに、「釣るからには他所でリリースせずに、責任をもって颯月さんを幸せにして!」って言い聞かせなくちゃ……! なんだ、冷静に考えてみれば単純な話じゃない――いつの間にかファンを超えて、繋がりになった気で居たんだね。こういうの本当、よくない……!)
――『繋がり』とは。
いちファンがファンの枠を超えて、バンドのメンバーとより私生活に踏み入った関係をもつ事を指す。端的に言えばバンドメンバーと付き合うとか、継続的に性的な関係を結ぶなどである。
もちろん綾那と颯月は清い付き合いを続けているが、それにしたって彼の度を越えた甘やかしは綾那を増長させるのに十分だった。
(私はちゃんとした、普通のファンに戻るの――そして、維月先輩のように完璧な『鑑』を目指す。それだけ……!)
一度そう決意してしまえば、もしもの時も怖くない。あくまでも怖くないだけであって悲しみはあるものの、しかし今までが幸せ過ぎただけだ。だからきっと、乗り越えられる。
そうして綾那が思い耽っていると、不意に手ごとティーカップを握られて、おやと目を開く。
すると、一体いつの間に移動したのか。綾那の目の前――ソファではなく、行儀悪くもテーブルに腰掛けた颯月が、綾那の手をカップごと握り込んでいた。
綾那が「えっ」と声を漏らして肩を揺らすと、颯月は小さく笑みを漏らした。
「――ああ、起きてたのか。悪い、座ったまま寝てるのかと思って」
颯月は「落としたら危ないだろ?」と言いながら、綾那の指を一本ずつほどいてカップをテーブルの上に置いた。
紛らわしい真似をして申し訳ないと謝罪すれば、彼は目元を甘く緩ませて綾那を見下ろした。その顔はやはり宇宙一で、綾那の薄っぺらい決意など吹き飛ばして心臓をわし掴みにする。
「えっ……こんなの無理、絶対に繋がりたい――」
「……つながり?」
「――――ハッ!? な、なんでもありません、やっぱり寝てたのかも!? いやあ、見事に寝ぼけちゃってますねえ……!」
思わず漏らした言葉は、間違いなく綾那の本音だった。つい先ほどまで「ただのファンに戻るというだけの話」なんて高尚な事を言っていたのに、颯月の顔面を前に呆気なく屈してしまった。
綾那はクッと眉根を寄せたが、しかしふと正面に座る颯月を見やると苦く笑う。
「あの、颯月さん、テーブルの上に座るのは――」
「うん? ああ、そうだな……そっちに座っても?」
「――えぇ!? アッ、は、ど、どうぞ……!」
そっち、と言って彼が指差したのは、綾那の隣だ。綾那は些か過剰な反応を見せつつ、広い長ソファの端へ移動してギュッと縮こまった。
「……そうして綾に避けられると、初めて会った日の事を思い出すな」
「避けていませんよ、ファンとしての分を弁えているんです――!」
震えた声の主張などどこ吹く風で、颯月はソファの真ん中に腰を下ろしてゆったりと足を組んだ。そうして端から戻ってくる気配がない綾那にため息をつくと、おもむろに眼帯の留め具に手を掛ける。
カチャリと擦れる留め具の音に綾那は肩を揺らして、まるで吸い寄せられるように彼の顔を注視した。
やがて眼帯が外されて、黒い刺青のような――茨の模様が露になる。綾那は「ふえぇ……っ」と言葉にならない奇声を漏らして、瞳を熱っぽく潤ませた。
「綾、こっちへ来い。今日は何かと気疲れしたから、アンタを抱いて癒されたい」
「だ――だから、言い方……! わ、私は、颯月さんのファンなので……! 軽々しく触れ合わないと、今日、決めましたッ……!」
颯月の誘惑に抗いがたく、綾那は今にも血反吐を吐き出しそうな鬼気迫る形相で拒絶した。
すると颯月は面白くなさそうな顔をして、「ふぅん」と鼻を鳴らす。
「今日は特別に、右腕を見せてやろうかと思ったのに――」
「…………えっ」
颯月は右の袖口に指を引っかけると、それを僅かに引き上げて腕に這う刺青をちらりと見せた。しかしそれは一瞬の事で、すぐに指を外して「気が削がれちまったな――」と深いため息を吐き出す。
綾那は機敏な動きでソファから立ち上がると、颯月の真正面に立ち両手を広げた。そして、どこまでも真剣な表情で口を開く。
「――今すぐ抱いてください」
「ック……フフ、その言い方で良いのか?」
「お願いします、抱いて(※腕を見せて)くだざい゛ぃッ……! 意地悪しないでぇ……!」
「ああ、分かった、分かった。抱くよ、抱く抱く……ホント可愛いな、アンタ」
颯月は変わり身の早さに小さく噴き出したが、綾那の必死の懇願を受け入れると組んだ足を解いて抱き寄せた。
そして綾那の眼前に右腕を差し出して、笑い交じりに「好きなだけボタンを外していいぞ」と告げた。
――果たして、これが普通のファンと呼べるのか。
綾那はそんな疑問を思い浮かべる暇もなく、満面の笑みで上衣の袖口のボタンを外していく。外し終わると同時にグイーッと袖を捲り上げれば、その下にまだ黒シャツを着ている。なんという防御力の高さか。綾那は意気揚々とシャツの袖のボタンも外しにかかった。
本音を言えば、こんな腕まくりなんて言うチラ見せではなく、全部脱いで欲しいのだが――そういう訳にもいかないのが辛い所だ。必死に袖を捲り上げても肘辺りが限界で、露に出来たのは肘下のみである。
顔色と同じく白肌の腕。その白を浸食する黒い刺青は、やはり顔と同じ茨模様だ。
(ああ――やっぱり、最高に格好いいぃ……!)
綾那は、颯月の腕をうっとりと眺めた。こんなにも格好いいのに――綾那だって彫りたいのに、なぜ師は「そんなもの彫るな」と止めるのか。
しばらく刺青を目で追っていると、ふと気付く。普段は隠れていて分かりづらいが、彼の腕は随分太いのだと。鍛え上げられた筋肉を纏う腕は、綾那の二倍以上あるのではないだろうか。刺青があるため目立ちにくいが、浮き上がる血管も太く逞しい。
(あ……そう言えば私、絢葵さんがギター弾いてる時の腕を見るの、大好きだったっけ! あの人も血管が凄くて、つい目を奪われちゃうんだよなあ……私、血管フェチなのかな)
触れても良いだろうか――と思った時にはもう、彼の腕に触れていた。指先で刺青をなぞれば、やはりざらつきも凹凸もない。綾那はそのまま隆起した筋肉を撫でて、浮き出た血管を指でぷに、と押さえて堪能した。
そうして自身の腕と並べると、やはり太さが全く違う。彼の隣ならば――いくらアイドクレースだろうが――綾那とて十分細身に見えるだろう。
綾那の脳内は、あっという間に『幸せ』で埋め尽くされた。
「…………綾に別れを告げられた時、かなりショックだった」
颯月の腕に夢中になっていると、彼はぽつりとそんな事を呟いた。綾那は手の動きを止めて弾かれたように顔を上げると、複雑な表情を浮かべる颯月を見やった。
「俺は、そんなにも信用がねえのかと思ってな」
「ち、ちが……違います! そうじゃなくて……その、颯月さんが信用できない訳じゃ――ただ、「偶像」の実績が積まれ過ぎていて」
「結果、同じ事だろう? 綾は俺が裏切ると決めつけている」
綾那は何も言えなくなった。
確かに、決めつけている。颯月は今までの男とは違うなんて言いながら、しかし「偶像」には抗えないだろうと、綾那はいとも簡単に諦めた。
それは結果として、颯月を全く信用していないのと同じ事なのだろう。
「でも期待、しちゃうと……ダメだった時、今度は立ち直れそうになくて――」
「……ああ」
「だって――すき……好きなんです。好きなのは顔だけじゃない。だから、本当は離れたくない、です、けど……」
颯月の手が綾那の顔に伸ばされて、優しく頬を拭われる。そこで綾那は初めて、「今、自分は泣いているのか」と気付いた。
困ったように笑う颯月の顔がすぐ近くにあって、綾那があともう少しでも動けば、簡単にキスできる。そんな事を流れるように考えてしまい、すぐさまハッとする。
(キスできる、じゃないし! 私の大バカ! 何を考えてるの――!!)
不純異性交遊ダメ、絶対。それ以前に「普通のファンとは?」である。
そうして「静まれ、煩悩」と念じながら小さく唸る綾那の腰を、不意に大きな手の平が撫でた。ふと見上げた颯月の目はやけに気だるげで、危うい熱のようなものを孕んでいるように見えて――綾那は息を詰まらせる。
「……なあ綾、知ってたか? 俺はアンタのその顔を見ると、どうしようもなく――」
しかし颯月の言葉は、応接室の扉をドンドンドン!!! と激しくノックする音に遮られて、中断する。颯月はなんとも言えない表情になると、おもむろに指をパチンと鳴らした。
がちゃりと勢いよく開けられた扉から姿を見せたのは、仮面の男――竜禅である。
「――颯月様……ッ!」
「…………なんだ? 言われる前に共感覚は切ったぞ」
「今ですよね? 今切ったでしょう? 私はいつも、そうなる前に切ってくれと頼んでいるのですが……?」
「それは難しい、俺にも何故こうなるのか分からんからな」
ツーンと顔を逸らす颯月に、竜禅は大きなため息を吐き出した。そして、颯月の腕の中に居る綾那を見やると「また二人きりでそのような――」と言いかけて、口を噤んだ。
「泣いたのか――いや、それはそうだろうな。近い将来、颯月様と無理心中する事が決まったのだから……」
「……へ!? い、いやいや、そういう訳では――えっ、ていうかアレ、本気のお話なんですか?」
「俺はいつだって本気だ。特に、綾に対しては」
うっとりするような笑みを湛えた颯月に、綾那は「へぁ……」と、よく分からない声を漏らした。そして、これ以上顔を見ているとおかしくなる――と、彼の胸板に顔を押し付けたのであった。