蜜月とは
王都アイドクレースの華々しい夏祭りが終わってから、あっという間に数日が過ぎた。
悪魔憑きの子供達が静真と共に打ち上げた花火は、領民の間で話題になっているらしい。合成魔法を打ち上げる際、次回からは必ず『花』を入れよう――とか、絶対に街の明かりを落とすべき――とか。幸い批判よりも肯定的な意見の方が多いらしく、ひとまずは安心だ。
祭りの最中は人でごった返していた街中も、落ち着きを取り戻している。浮かれ、はしゃぎ、暴れ回っていた領民も、以前のように慎ましく過ごすようになった。
騎士は通常業務に戻って、人の取り締まりよりも、街の外に現れた魔物の相手をする事の方が遥かに多くなった。
あの日のように魔物の大群が押し寄せる事はないものの、普段なら王都周辺に現れる事のない種類の魔物の目撃情報が増えたらしい。いまだ魔物が大移動した原因については解明できていないため、予断を許さない状況が続いている。
「颯月様、そろそろ起きてください」
アイドクレース騎士団本部、その一角にある団長――颯月の執務室。時刻はだいたい、昼を過ぎた頃だろうか。
部屋の主である颯月は、長ソファに体を横たえたまま頭だけ起こすと、己に声かけした仮面の男――竜禅を一瞥して、すぐにまた頭をソファに沈めた。
しかし再び「颯月様」と呼びかけられると、酷く億劫そうなため息を吐き出しながら身を起こした。
「……起きてる」
「意識だけ起きておられても、働かねば仕事は溜まっていく一方ですよ。さあ、書類の仕分けは済んでいます。あとは颯月様が確認された上で、直接決裁を――」
竜禅が手で指し示した颯月の執務机の上には、うず高く書類が積まれている。颯月は彼の言葉を遮って手の平を突き出すと、囁くような声色で諫めた。
「――分かったから、静かにしろ。綾が起きる」
明らかに不機嫌な颯月の言葉に口を噤んだ竜禅は、彼の反対側の長ソファですやすやと眠る綾那を見やった。
ただソファに横たわっているだけの颯月と違い、綾那の頭の下には大きな枕が敷かれていて、体は上等なカシミアで織られた薄いブランケットに包まれている。
昼夜逆転生活を強いられている上に、夜中は眷属と対峙しっ放し。しかも、幸か不幸か神と崇める男と四六時中共に居なければならない。眠っている時以外は――いや、最早眠っている時でさえ気の抜けない日々だ。
元々雪のように白かった肌は、たった数日で更に青白くなり不健康そうに見える。夜中起きている代わりに日中眠っていても、睡眠の質が下がっているせいなのか、目の下には薄っすらと影ができてしまっている。
あの祭りの日以来、ルシフェリアがかけた魔法で眷属を引き寄せるようになった綾那。颯月はそんな綾那を守るため、ずっと傍に置いて放そうとしない。
街の外で一晩中眷属を討伐して、朝になったら騎士団本部へ戻る。若手騎士の訓練を覗き、遅めの朝食をとったら昼過ぎまで仮眠。起床すれば団長として書類仕事に精を出し、綾那が目を覚ますと共に昼食をとる。
日によってスケジュールは変わるが、午後からは綾那を連れて王都の街を巡回するか、若手の個別指導――今は伊織しか居ないらしいが――をするか、執務室に篭って書類をさばくか。
そうして夕食をとって夜になれば、また綾那と共に街の外へ散歩しに繰り出す。
明らかに綾那より過酷な生活を強いられているにも関わらず、彼は体調どころか顔色一つ損ねる事なくケロリとしているのだから、恐ろしい。
しかも、通常時であれば一晩散歩して眷属一体出てくれば良い方らしいが、ここ数日は綾那のせいで一晩平均で十体は討伐している。もちろん街の外なので、眷属だけでなく魔物も襲ってくる。
どれもこれも魔法で瞬殺するため、大した問題にはなっていないのだろうが――それにしたって働きすぎだ。
こんな生活が続いて、綾那は日々を生きるのに精いっぱいである。気付けば陽香ともしばらく話せていない。
彼女はどうも、教会の子供やヴェゼルと一緒に教会で遊んでいるようなのだが――その詳細を聞く暇もないし、あれから楓馬がどうしているのかも分からない。
まあ、もしよくない状況に陥っているとすれば、陽香が突撃してくるはずだ。それがないという事は、現状困った事にはなっていないのだろう。
「――まだ眺めていたかったのに」
不貞腐れた様子でぽつりと呟いた颯月は、ソファから立ち上がると静かに執務机へ移動した。
彼は、ただでさえ短い仮眠時間を更に削ってぱちりと覚醒すると、机を挟んだ向かい側で眠る綾那をじっと眺めているそうだ。それが新しい日課になっているらしい。
それは誰かに「そろそろ仕事しないと、後のスケジュールに障るぞ」と注意されるまで続くため、彼の側近らは「毎日よく飽きないな」と呆れ返っている。
「人の――それも女性の寝姿を眺めるのは、あまりいい趣味ではありませんよ」
「可愛いんだから仕方がないだろう。ああ……早く結婚するか、檻に閉じ込めるか――どうにかしたいもんだな」
「結婚は止めませんが、檻には閉じ込めないでくださいね。…………大丈夫ですか? 後生ですから、陛下のようにだけはならないで下さいよ」
「俺は病気じゃねえと言っているだろうが」
不快げに眉を顰める颯月に、竜禅はすかさず「好いた女性を檻に入れたがるような男は、十分病気なんですよ」とツッコんだ。
颯月はため息を吐くと、机の上に積まれた書類に手をかけた。そうして書類に目を通しながら、指先でちょいちょいと竜禅を呼ぶ。
仕事をするには、どうしても側近から報告を聞かねばならず――しかし同じ部屋で綾那が寝ているため、あまり大きな声では話せない。ゆえに、互いに近付いて小声で話そうという訳だ。
そんな配慮をするくらいならば、滅多に眷属が現れない日中は側近の誰かに綾那の護衛を任せれば済む話である。それでも頑なに「創造神は、「死にたくなければ一時も離れるな」と言ったんだぞ」と譲らないため、こんな面倒な事になっているのだ。
竜禅はこれ見よがしに肩を竦めると、颯月のすぐ横まで移動した。
「今朝、仮眠する前に和の報告書を読んだ。北の異変の原因はまだ分からないのか?」
「魔物が『何か』から逃げてきて、王都周辺まで移動した事は確からしいです。和巳は、その正体が掴めないと困り顔をしていましたね」
「ふぅん……和にしては手間取っているな、珍しい。その後、北の方で争った形跡は? 原因が魔物にしろ、人にしろ――あれだけの数を追い立てるほど大規模な魔法が使われれば、ある程度の痕跡が残るだろう。地面が抉れて地形が変わるとか、焼け焦げた跡があるとか」
「いえ、そういった事は――ああ、ただ、アイドクレースの北側五十キロ付近で魔物の死骸が複数見つかったらしいです。いや、正しくは死骸ではなく、ほとんどが仮死状態の魔物だったそうですが」
「――仮死?」
颯月は書類から顔を上げると、真横に立つ竜禅を見上げた。
「詳しくは和巳が調査中です。恐らく本日中には報告が上がるかと」
「仮死、なあ――それが時間経過で生き返って、誰に誘導されるでもなく、逃げるように王都へ侵攻するとでも? ……全く分からん」
再び書類に目を落とした颯月だったが、しかし視界の端で水色がもぞもぞと動いたのを捉えると、パッと顔を上げた。
「――綾? 起きたのか?」
「…………おはようございます」
ソファから上体を起こした綾那は、ぼんやりとした表情のまま目を擦った。それから小さく息を吐くと、少々疲れた力ない笑みを浮かべる。
いそいそとブランケットを畳み始めた綾那を見て、颯月は書類整理もそこそこに立ち上がると、ソファの横まで移動して片膝をついた。
「まだ寝てて良いんだぞ? アンタかなり疲れた顔をしてる。過労で熱でも出したら――綾には薬が効かんのに」
颯月が頬を撫でたので、綾那はほんのりと頬を紅潮させてはにかんだ。
「平気ですよ。「解毒」もちは、そもそも人より免疫力が高いので――あ、いや。今は「解毒」がないから、もしかして、そうでもないのかな……? で、でも、大丈夫です。熱が出そうな気配はありませんから」
「だが――」
「颯月様。仲睦まじい事は大変結構ですが、まずは仕事を終わらせましょうか。このままでは、綾那殿と一緒に昼食がとれなくなりますよ」
颯月の背に浴びせられた容赦ない竜禅の催促に、彼はじとりと目を眇めて振り返った。小さな声で「堅物め」と呟いたのがハッキリと聞こえて、綾那は苦笑する。
(確かに、慣れない昼夜逆転生活で疲れてはいるけど……でもそんな事、颯月さんの前では口が裂けても言えなくない――?)
朝から晩まで共に過ごす事によって改めて分かる、颯月の社畜ぶり。
休みなく動き続ける彼の前で、ただ彼について回っているだけの綾那が疲れたなんて口にするなど、一体何様なのか。そんな事をしては罰が当たる。
(うぅ、眠い。でも外明るいから、どうしても眠りが浅くなるし……そもそも変な寝言とか涎とか出してないか気になって――ああ、早く魔法とけないかなあ)
理由はなんにせよ、大好きな颯月と一緒に過ごせるのは最高に嬉しいのだが――ただ、どうしても気を遣ってしまう。
あくまでも彼の職務について回っているため、公私混同していては周囲に呆れられてしまうだろう。それに、彼と過ごす時間が長くなれば長くなるほど、綾那は今後どうしていいものか分からなくなる。
まあ、『蜜月』とは名ばかりの多忙な日々を送っているのが、せめてもの救いだろうか。なんなら、綾那の方に颯月へ言い寄る気力と体力が残されていないため、下手をすれば普段以上にプラトニックな――健全すぎる関係性かも知れない。
夜中の散歩だって、綾那と二人きりなら「魔法鎧」なしで戦えば良いのに。しかし「万が一人と会うと、驚かせるからダメだ」と断られてしまったため、彼は街の外に居る間ずっと鎧姿なのだ。
さすがの綾那でも、フルプレートアーマーの颯月を条件反射のように口説くのは難しい。
綾那は「いや、これで良いんだって……蜜月だなんて、とんでもない――」と思いつつ、緩く頭を振った。
すると、突然執務室の扉が開かれる。入口へ目を向ければ、どこか困惑した様子の和巳が立っていた。
「失礼します。あの、颯月様――」
何やら言いづらそうにしている和巳に、颯月は思い切り顔を顰めた。
「……オイ、待て和。頼むから、正妃サマが――なんて言い出すなよ?」
「そうではないのですが……ええと。実は今、ルベライトの騎士を名乗る方がいらしていて」
「ルベライトの? やはり単なる連絡の行き違いで、北では魔物が溢れていると? その応援要請が来たのか」
「いえ、全くそういった話ではなくて。ただ、「悪魔憑きの連れを助けて欲しい」、「連れは通行証がないため街へ入れない」と――ひとまず応接室へ通したのですが、よほど外に残した連れが気になるのか、ソワソワと落ち着かずに要領を得ないというか」
「……分かった。綾、行くぞ」
「は、はい」
綾那の手を取った颯月は、竜禅に「いつもの面子を揃えてくれ」と声を掛ける。竜禅は鷹揚に頷くと、執務室から出ていった。
正直、人が疲れていっぱいいっぱいの時に、次は一体なんなのだろうか。綾那は細いため息をついて応接室へ向かうのであった。