悪魔を懐柔
己の行く末に嘆き、すっかり落ち込んでしまった綾那は――意気消沈したまま、自身が置かれた状況について説明した。
眷属の囮となるべくルシフェリアにかけられた魔法の効果は、今後一、二週間続く。恐らくその間は光魔法に長けた者と同様に、夜中眷属が悪戯しに来るだろう。
だと言うのに、綾那は「怪力」を一時的に失ってしまったため、眷属に対抗する手段がない。ルシフェリア曰く「死にたくなければ、颯月から一時も離れるな」との事。
以前教会の静真から聞いた話では、眷属達の『悪戯』といえば夜中に大きな物音を立てるとか、モノを壊すとか――安眠妨害に勤しむのがスタンダードらしい。
しかし綾那の場合は違う。この世界の創造神ルシフェリアがかけた、強力な光魔法のせいか――先ほど戦ったゴーレムの眷属の様子からして、明らかに悪戯の範疇を超えている。
説明を聞き終わった陽香は、「シアお前、『余所者』に厳し過ぎんだろ! ……つーか、どこに居る!?」と大層キレ散らかしたが、ギフトを全て失った今となっては、綾那にもルシフェリアの存在は視認できない。
竜禅に通訳を頼もうにも、彼は今祭りの後片付けに奔走している。颯月が共感覚を入れれば、恐らく彼の位置も掴めるのだろうが――しかし颯月は、頑なに「今は心中を共有したくない」と言っていた。
そんな時に「共感覚で竜禅を探してくれ」なんて頼みづらい。
「――あ、そうだ、ヴェゼルさん。シアさんが、ヴェゼルさんに通訳を頼めば良いって言ってた」
「はあ、ゼル!? ――それこそ大丈夫なのか? まあ良いや、ゼルどこに居るって?」
「えっと、確か向こうの建物の陰に隠れてるって――」
「よっしゃ、捕まえてくる!!」
「ちょ、ちょっと待ってオネーサン! 見た目子供でも相手はれっきとした悪魔なんだからね、落ち着きなよ!」
綾那が指差した方へ向かって、陽香はサンダルをぺったんぺったん! と鳴らしながら駆けて行った。慌てて彼女の後を追う右京の姿はいつもと違って、彼の方が陽香の保護者らしく見える。
今までと速度は段違いだが、いつの間にか「軽業師」なしでも走れるようになってしまったようだ。綾那は「生まれたての仔馬、スマホに収められなかったな――」と、状況も忘れてしゅんと肩を落とした。
◆
「痛い痛い、やめろ! もう痛い遊びはダメだって! 痛くない遊びをしようって言ったじゃないか! 嘘つき! 人でなし女! この悪魔!」
「いや、悪魔はお前だろ」
ややあってから、陽香に引きずられて来たヴェゼル。彼は、陽香のゲンコツでこめかみの辺りをぐりぐりと万力のように締められながら、涙目になって喚いている。
ヴェゼルは綾那の姿を目にするなり、話が違うと目を白黒させた。
「よ、陽香。暴力はやめてあげて」
「けど、結果治ったとは言え、アーニャにケガさせた原因だぞ? 騎士だって大変な目に遭ったんだし――」
「彼ずっとシアさんに放置されてたから、情緒が成熟していないみたいなの。まだ幼いだけだから、今回は大目に見よう? それに、シアさんが通訳に勧めるぐらいだし、たぶん話せば分かると思うんだ」
にっこりと笑う綾那に、陽香は目を細めて「シアの勧めだから、余計に心配なんだろうがよ」と呟いた。それでも、ひとまずは納得したのかヴェゼルを解放すると、「お前、シアの言葉を訳せるか」と、やや高圧的に問いかける。
「――や、訳? なんで? だってお前ら、ルシフェリアと話――へ? あ、ああ……そうなの?」
ヴェゼルは両手でこめかみを擦りながら「意味が分からない」といった表情になった。しかし突然、弾かれたように何もない宙を見やると、一人で納得したように頷いた。
(わあ……シアさんと話してる時の私達って、傍から見るとこんなに怪しいんだ)
空虚を見つめて、大きな独り言を呟いているようにしか見えないヴェゼルの姿に、綾那はなんとも言えない気持ちになる。ほんの数分前の綾那も全く同じ状況だった事を思うと、つい遠い目をしてしまう。
「シアはなんて?」
「ん、いや……よく分かんねえ。「生き残りたいなら、ずっと一緒に居るんだよ」って言ってる。「これは予知だ」って」
まず間違いなく、綾那の――というか、綾那と颯月の話だろう。途端に眦を吊り上げた陽香は、何もない宙に向かってビシッと指差して吠えた。
「いや、ふざけんなってシア! いくら傷を治すためだからって、こんなタイミングで「怪力」を奪うとか、完全に殺しにかかってるだろ!? 傷よりもまず先に、眷属の話をするべきだったのに!」
「えと……「最高の囮が居るんだ。眷属をたくさん倒せば、僕の力はすぐに取り戻せる。そうすればギフトも返せるんだから、安心していいよ」だって」
「……お前、さては! 手っ取り早く力を取り戻す為に、アーニャを生き餌に使う所まで計算して光魔法かけたな!? だいたい、「ずっと一緒に居るんだよ」じゃねえのよなー! 嫁入り前の女が四六時中、男と過ごすなんざ普通に考えて無理無理の……!!」
「あっ! ――ああ……ルシフェリア、どっか飛んでった。アレは追いかけられない」
困った様子で頬をかくヴェゼルに、陽香は頭を抱えると「野郎、逃げてんじゃねえぞ……!!」と、まるで怨嗟を吐くように低い声を絞り出した。
その背後で思案顔をしていた右京は、ふと颯月を一瞥する。
「――で、ダンチョー。どうするの? なんか、しばらく水色のお姉さんと離れられないみたいだけど」
「…………どうすると言われても」
酷く困惑した様子の颯月に、綾那は申し訳ない気持ちになる。
彼はただでさえ社畜を窮めていて、しかも深夜から明け方まで眷属を探しに散歩へ出かける生活を続けているのだ。その上、綾那と四六時中一緒に居て護衛するなど、どう考えたって非現実的だ。タスクオーバーにも程がある。
少なくとも『日課の散歩』については、綾那という囮が居る方が通常時より遥かに捗る可能性はあるだろうか。いや、例えそうだとしても、綾那は忙しい彼の手をこれ以上煩わせたくない。
(とは言っても、「怪力」がないんじゃあ……シアさんも「予知だ」って言うくらいだし、今度こそ死ぬ可能性もある――?)
どうすれば綾那の力だけでも生存できるのかと悩んでいると、颯月が戸惑いがちに口を開いた。
「ずっと一緒に居ろという事は、その……いや。そもそも眷属の性質からして、ソコだけは外せんだろうとは思うんだが……つまり、夜も綾と過ごすんだろう? そうなると俺の『散歩』にも連れて行く事になるし――いや、仮に散歩を休んだところで、眷属の方から街へ飛び込んで来るな。どちらにせよ綾は、ずっと俺の傍に居る訳で……」
随分と遠回しで、要領の得ない話し方をする颯月。彼の様子に何事か察したのか、陽香はピンと閃き顔になった。
「ハーン……なんだ、そうか。今回も無事、颯様のヘタレが発動した訳か。こうなると、かえって安全かもな」
「断じてヘタレじゃねえ。俺はただ、まだ籍も入れてねえ内から一、二週間も蜜月の日々が続くと、綾に何もせずに居られる自信がないと――」
反論する颯月の言葉を遮るように、陽香は「いい、いい。良いって、分かったよ、OK」と、余裕の笑みさえ浮かべて何度も頷いた。そして目を眇めた颯月に構わず、綾那の肩をぽんと軽く叩く。
「アーニャ、今回ばかりはお前の命が掛かってる訳だからな。シアの助言通り、眷属とやらの襲撃が収まるまでは、颯様から離れるなよ」
「え? で、でも」
「正直ここで諸手を挙げて喜ぶような男が相手だったら、何がなんでも阻止したんだけど……颯様はここぞで腰が引くから、絶対に一線を超える事はない――アーニャさえしっかりしてれば、の話だけど」
「分かってんだろうな」と凄んで肩をグッと強く掴んだ陽香に、綾那はギクリとして目を泳がせた。
彼女の言う通り、なんだかんだと言いながら颯月が一線を超えない事は、綾那自身がよく理解している。唯一それが揺らぐ時というのは、いつも大抵、綾那が彼に何事かを仕掛けた時なのだ。
確かに綾那が節度を守ってさえいれば、二人の間に男女のアレやコレやが起きる事はないのかも知れない。
「断言するね。いや、でもオネーサン。こんな婚約者と四六時中一緒に過ごしてたら、普通の男は耐えられなくなると思うけど?」
「いいや、耐えるね、颯様なら。だってこの二、三か月間、手ぇ握るかハグするかしかやってねえんだぞ? アーニャ相手に、「表」でそんなプラトニック貫いた紳士は居ねえっつーのに」
「オイ、やめろ。俺の前で綾の昔の男の話をするな」
「――てか、颯様たぶんアレだ。正妃の姉さん辺りに、「結婚するまでは婚約者に手を出すな」とか、「不純異性交遊は禁止」とか、どうも王族として厳しく言いつけられていると見たね!」
陽香は、キリリと無駄にキメ顔をして言い切った。
綾那は初め、その謎の自信は、一体どこからやってくるのだろうかと苦笑いしたが――しかし、隣に立つ颯月が僅かに肩を揺らしたのを見ると、意外と陽香の推理は良い線行っているのかも知れない。
(そっか。いくら一夫多妻を認められているとは言っても、颯月さんは元王族……好き放題女遊びして、周囲に『放蕩者』なんて烙印を押されたら王族の恥になっちゃうのか)
綾那が「なるほど、あり得る」と納得していると、陽香は我が意を得たりと言わんばかりの表情になった。
「んじゃま、アーニャの事はしばらく颯様に任せるとするか。眷属ってのも、魔法さえ使えれば颯様の敵じゃあねえんだろう?」
「それは、まあ。綾を囮に使うのは気が引けるとは言え、俺としても眷属をまとめて祓えるのは、ありがたいんだが――」
「あ。言っとくけど、颯様がアリスの「偶像」を破るまでは、何一つとしてお前らの関係を認めてねえんだからな? 変な事したらタダじゃおかねえぞ、なんなら正妃の姉さんと結託して何かする事も辞さない」
「…………それは本気で勘弁してくれ、泡吹いて倒れる自信がある――」
陽香は、頭痛を堪えるような表情になった颯月を見て満足げに笑うと、頷いた。そして次にヴェゼルを見やると、「ゼルの事はどうしたもんかな」と思案顔になる。
親のルシフェリアに放任され過ぎたせいで、情操教育が不十分なのか――綾那などよりも遥かに長い時を生きているはずなのに、まるで幼いきかん坊のようなヴェゼル。
今回は大目に見るとは言ったものの、しかし彼が悪魔である以上、人間の敵だという事に変わりはない。
人同士が戦争を起こさないよう、定期的に眷属を作り出して苦しめる。これは、このリベリアスの秩序を守るために必要不可欠な仕事なのだから。
「ルシフェリアが怒るなら、もうあんまり調子に乗って眷属作らないようにするから……その代わりに、お前らが俺と遊ぶんだぞ」
むっつりとむくれた表情でぼやくヴェゼルに、陽香は「遊び、なあ」と首を捻る。右京はそんな彼女の頭にぽんと手を置くと、「ねえ」と口を開いた。
「今日はもう遅いし、また明日改めて話さない? 結構、僕も働き疲れてるんだよね」
「それはまあ、確かに……教会のキッズ達とも話したかったのに、今から邪魔すると迷惑だろうしなあ。よし、じゃあゼル、お前明日また来い。遊ぶのはそれから――ってか、どうせ遊ぶなら教会へ来い、教会へ。あんま目立たない格好で来いよ」
「きょ、教会? 分かった――今度嘘ついたら、タダじゃすまさないからな!?」
「絶対に遊べよ!」と言い残したヴェゼルは、まるで闇に溶けるように忽然と姿を消した。
ふうと小さく息をついた陽香は、「あー、早く帰って編集してえ」とぼやく。そんな通常運行の彼女に、綾那は苦笑した。しかしふと、今夜は色々な事があり過ぎて、肝心の『花火』を撮影できなかった事を思い出すと――僅かに肩を落とす。
「でも結局、花火は撮れなかったよね……皆が特訓した集大成だったのに、まさか撮り逃しちゃうなんて――」
「――ん? いや、撮った撮った! なぁに言ってんだよ、撮ったに決まってんだろ~! 何せ、このあたしだぜ!?」
「へ?」
ハハハと明るい笑いながらバシバシ背中を叩く陽香に、綾那は思い切り首を傾げた。
(いつの間に? そんな暇なかったでしょ――?)
魔法封じが発動するのと同時に、街は停電したのだ。その停電を合図にして、静真と子供達に「花火を上げてくれ」と頼んでいた訳で――あの時陽香は、ルシフェリアから形も分からない魔具を探して破壊しろという無茶振りを受けて、街中を奔走していたはずだ。
彼女が早々に街の魔法封じの媒体だった魔物を退治してくれたからこそ、あっという間に街に平穏が戻った――のではなかったか。
困惑する綾那に、陽香は無邪気に笑いながら説明する。
「あたし、ずっと屋根を伝って移動してただろ? そりゃ火の玉だから熱さはあるけど、「表」と違って音がないもんだから、いくらでも花火に近付けるのが最高に楽しくてなあ――まあ、撮るよな! 結構上手く撮れたと思うんだよ!」
「……陽香、あの状況でカメラ回してたの!? な、何してるの……!」
「何って、回すだろ! スタチューバーだぞ!? ……そもそもあのカラスだって、花火撮ってる時に画角に入り込むのがどうしても邪魔で、やむなく強制退場させただけなんだからな。したら、停電直るじゃん。いや、ありゃ笑ったわ」
などと、まるでなんでもない事のように言いながら、宿舎へ向かって歩き出した陽香。綾那は「やっぱり運がイイというか、勘がイイというか――」と思うと共に、初めて奈落の底へ落ちた日の事を思い出した。
あの日、アリスがイカヴェゼルに大穴へ引きずり込まれそうになっている時だって、陽香は頑なにカメラを下ろさなかった。果たしてスタチューバーとは、有事の際にカメラを止めると死ぬ職業だっただろうか。
いつか彼女は、前代未聞の大型台風が接近する海にカメラを携えて行って、高波に飲み込まれて死ぬのではないか。
大地震が起きた非常時でも頑なに撮影を続けて、逃げ遅れて死ぬのではないだろうか――そんな事を思っていると、綾那は段々と不安になってくる。
(思えば、正門で私と合流するまでに「追跡者」で動きを追った時も変だった。あの子がやたらと蛇行していたのって――アレまさか、花火の後に予定時間通り打ち上げが始まった、合成魔法の撮影をしながら移動していたんじゃあ……)
恐らく――いや、まず間違いないだろう。彼女が非常時でもカメラを回してくれたお陰で、子供達の成長記録は無事完成するのだが――しかし本当に、陽香のプロ根性は常軌を逸している。
綾那は、うーんと複雑な表情を浮かべながら、自身も宿舎へ戻ろうと足を踏み出しかけた。しかしふと、陽香のすぐ後ろを歩く右京が振り向いたため、動きを止める。
「ダンチョーは分かってると思うけど……水色のお姉さん、これからしばらくは街の外で野宿コースだね」
「……野宿?」
「だって、さっきの眷属みたいに殺気に満ち溢れたのが、これから毎晩お姉さん目掛けて押し寄せて来るんだよ? 可哀相だとは思うけれど、街中に居ると領民にまで被害が出ちゃうから……夜は外に居てくれないと、死人が出るんだよね。今だって、もうすぐそこまで来てるかも知れないし?」
同情するように眉尻を下げた右京に、綾那は「えっ」と漏らして、隣の颯月を見上げた。すると、彼もまた同情なのか心配なのか分からない、どこか申し訳なさそうな表情をして小さく頷いた。
「ああ、ひとまず外へ出た方が良い。疲れているだろうに、可哀相な綾――眷属は俺に任せて、寝てて良いからな」
「そんな状況で眠れるものか」と思ったものの、綾那の唇は戦慄くだけで、何一つとして言葉にならなかった。
颯月は綾那の手を引くと、背中に「頑張って、ダンチョー」「毎晩それなら、変な気も起きねえわな」などと呑気な応援を受けながら、再び街の外へ出て行くのであった。