誰かの思惑?
颯月は戻って来るなり「魔法鎧」を解除すると、まるで戦争で生き別れた恋人と十年越しに再会したぐらいの熱量をもってして、綾那を強く抱きしめた。
普段は手加減してくれているだけで相当な怪力なのか、それともまだ「身体強化」が効いているのか――背骨がきしみ、肺が圧迫される程の抱擁。綾那は赤面する余裕一つなく息を詰まらせて、「このまま鯖折りで仕留められるのでは?」と、身の危険を抱いた。
表の「怪力」もちでもないのに、この膂力とは。やはり颯月のスペックは尋常ではないと言わざるを得ない。
「綾、ケガはないか? 万が一にも魔物が流れんよう注意はしていたんだが、なにぶん数が多くてな……随分と手間取った。長い間一人にして本当に悪かった、心細かっただろう」
「私が傍におりましたので、決して一人ではありませんよ――それよりも颯月様、そのままでは綾那殿が要らぬケガをしますから、少しは加減なさって下さい」
竜禅の冷静な指摘にハッとした颯月は、「悪い」と言って腕の力を抜いた。ようやく肺に新鮮な空気を取り込めた綾那は、少々咳込んだものの、しかし首を横に振って「いいえ」と答える。
颯月は綾那に被せたフードを取り払うと、髪を撫でつけるようにかき上げた。そうして露になったこめかみの傷を目にすると、グッと眉間に皺を寄せて陰鬱そうな息を吐く。
目にするだけで憂鬱な気持ちになるくらいなら、わざわざ髪をかき上げてまで見なくても――と思うのだが、どうにも傷の具合が気になるようだ。確認せずにはいられないらしい。そんな彼の背後に立つ幸成もまた、心配そうに綾那を見やった。
「もしかして綾ちゃん、毒や薬だけでなく回復魔法まで効かなかったのか?」
「そうみたいです。でもかすり傷ですから、きっと痕もほとんど残らないと思いますよ」
「そっか……でも心配だな。今回は綾ちゃんのお陰で助かった面があるから、一概には言えねえけど……やっぱ女が前線に出てくるのは、まずいんじゃあ――いや、この法律のせいで騎士団は人手不足な訳だし、別に陛下を肯定する訳じゃねえんだけど。もしこの決まりがなくて、桃華が家業を継がずに騎士になっていたらと思うと――」
幸成は静かに目を伏せて、そんな言葉を口にした。騎士に憧れていると言う桃華本人の希望は別として、少なくとも幸成は彼女に戦場ではなく、安全な場所で過ごして欲しいと願っている筈だ。
まあ、「解毒」が邪魔をする綾那と違い、桃華には回復魔法が有効なのだろうが――しかし、だからと言って「いくらでもケガして、どうぞ」という訳にはいかないだろう。
「なあ、颯。殿下が王位を継いだ後に、頼む予定だったヤツ――」
「それは事が落ち着いてから、改めて考える。今は正直……まともな思考じゃあねえだろう、考えるべき時は今じゃあない」
二人の会話に綾那は首を傾げたが、しかし仕事の話だろうと思い聞き流した。そうこうしていると、正門辺りに控えていたらしい和巳がやって来る。
「颯月様、お疲れ様です。特に北の一群に向けて放った魔法は、圧巻の一言でしたね」
「ああ、和もよく働いてくれた。更に無理を重ねて悪いが、今回の異変について調べたい。最初の一波は悪魔がけしかけて来たモノなんだろうが――その後に続いたのは、違うだろう? 街へ向かってくるというよりも、何かから逃げ惑っている様子だった」
颯月の言葉に和巳は大きく頷いて――その問いを受ける事は、既に予想済みだったのか――淀みなく状況の説明を始める。
「あれだけ多種多様な、それも食性の異なる魔物達が一挙に押し寄せて来たのですから。原因は恐らく、個体が増えすぎた事による食糧難ではありませんね。考えられるとすれば、北側でなんらかの……在来種の魔物にとって、強大な敵となりえる存在が現れたのだと思います。それが魔物なのか眷属なのか――人なのかは、まだ」
「――人。そうか、その線もあるな」
「しかし、襲い来る魔物を追い払うにしても、普通は街のある方角を避けるはず。もしこれが、人為的なものによる魔物の襲来だったとすれば――それは悪魔や眷属などを相手取るよりも、遥かに難度の高い問題です。下手をすれば、三百年以上守られてきた『人間同士』の暗黙の不戦条約を揺るがすような」
「げえ……マジかよ?」
思わずと言った様子で顔を顰めた幸成に、話を聞いているだけの綾那もまた身を強張らせた。和巳は小さく肩を竦めて、「そうでない事を祈るばかり、としか言いようがありませんね」と呟く。
人類共通の敵――必要悪である悪魔の存在がある限り、人同士で戦争をしている暇はないはず。それにも関わらず、王都に向けて魔物を追い立てた何者かが存在するとすれば。
それは、とても恐ろしい事である。
「まあ、何はともあれ調査はまた明日――外が明るくなってからですね。ところで颯月様、お疲れですか? 今すぐに休まれたいようでしたら、綾那さんの護衛は私にお任せください」
「――は?」
綾那に向かって流れるように片手を差し出した和巳に、颯月は随分と不機嫌な声を上げた。そして綾那を抱き寄せると、まるでお気に入りの玩具を奪われまいとする子供のように、胡乱な目をして和巳を見返した。
「何をバカな。この俺があれしきの事で疲れるとでも? 綾は俺が守る、誰の手助けも要らん」
「颯月さん……ええと、あまりこういう事をされると――ますます好きになってしまうというか、後戻りできなくるというか……」
「後戻りする必要はない。綾はただ、俺の元へ嫁いでくれば良いんだからな」
目元が甘く緩んだ颯月に見下ろされた綾那は、頬を紅潮させて唇を噛むと、胸中で「全力で嫁ぎたい……! この人に嫁げれば、どんなに幸せか……っ!」と叫んだ。
ちゃっかりその胸中を読んだらしいルシフェリアの「そのまま堕ちちゃえば良いのに」なんていう悪魔の――いや、大天使の囁きは、一切聞こえなかった事にする。
身悶える綾那を腕に抱き、満足げな颯月を見た和巳は「ああ、その言葉を聞いて安心しました」と言って、胸を撫で下ろした。その様子に綾那と颯月が揃って首を傾げると、彼はふうと息をついてから口を開いた。
「――いえ、実は正妃様がお呼びなんですよ」
柔和な笑みを浮かべた和巳の言葉に、颯月はぴしりと固まった。
「よほど、綾那さんが傷を負った事がショックなのですね。いつもの颯月様らしくない迂闊さです」
「和……謀りやがったな――」
「つい先ほど、正妃様に捕まりましてね。「必ず、本日中に団長とその「契約」済みの婚約者を連れて来る事」と命令されては、とても逆らえません。疲れているからまた明日――なんて言い訳をして、逃げられては困りますからね。言質は頂きましたよ」
「…………嘘だ、俺は嘘をついた。あれだけの魔物の相手をしたんだぞ? 本当は疲れてる、今にも倒れそうなほどに」
「そうですか。では、綾那さんの護衛は私が代わりましょうね」
「いや……それは、ちょっと無理だな――」
「無理ではありません、倒れそうなほど疲れていては護衛などできませんよ。綾那さんが危険でしょう」
正妃と会うのは嫌。だからと言って綾那を人に任せるのも嫌。いやいやと駄々っ子のように首を振る颯月の背を、呆れ顔の幸成が軽く叩いた。
「なあ、颯。嫌な事はさっさと済ませるに限るぜ? 下手に先延ばしにすると、明日まで憂鬱な思いで過ごす事になるじゃねえか。今夜中に済ませちまおうよ」
「颯月様、今回ばかりは共感覚を入れてくれても構いませんよ。私もあなたと共に、思う存分嫌な思いを味わいましょう」
「いや、あの。皆さん、正妃様に対して不敬すぎませんか?」
苦く笑う綾那を見下ろした颯月は、絞り出すような深いため息を吐くと、「行くか――」と言って歩き出したのであった。