危機を脱して
(あぁ、もう――顔!)
綾那は状況も忘れて瞳を閉じると、ウッと呻いて天を仰いだ。決してルシフェリアに感化された訳ではないが、やはりスタチューバーとして、顔くらいは守りたかった。
いくらかすり傷だろうが、多少の傷跡は残るだろう。最悪こめかみならば、髪で隠せるが――それにしたってショックである。
(そう言えばシアさん、マスクを外さなきゃ失明するって言っていたけど――もしかして、今のがそうだった?)
こん棒は、綾那のこめかみを掠めた。もしあのマスクをしていれば、確実に割られていただろう。割れた破片が瞳に飛び込めば――まず間違いなく、失明チャンスだった。こんなに嬉しくないチャンスは、そうそうない。
はあ、と憂鬱な息を吐いた綾那の頭上で、またしても「顔……!!」と震える声が聞こえた。しかしそのすぐ後に「伏せて!」と続いたため、綾那は我に返ると、身を低くしてゴロンと前転した。
頭上を通り過ぎたのはスライムの腕ではなく、すぐさま体勢を整えて二激目を繰り出した、ゴブリンのこん棒だ。ビュオン! という風切音と共に空振りしたこん棒に、ゴブリンは「ギィ!」と苛立った声を上げた。
確実に獲物を仕留めるために頭を狙う習性でもあるのか、攻撃の度に高く跳躍して、全体重をこん棒へ乗せる癖があるようだ。綾那はすぐさま立ち上がりゴブリンと対峙すると、「反撃するなら、次に跳躍した時だ」と考えた。
宙に浮いた状態であれば、こちらの攻撃を躱せない。
攻撃速度はともかくとして、移動速度が極端に遅いらしいスライム――強制マラソンの時、ゴーレムの膜に相当引きずられたのではなかろうか――とは、まだ距離がある。
知能が高いゴーレムの動きには注意しなければならないが、少なくとも、すぐぶち当たるような距離に魔法封じの膜はない。
こめかみから頬、顎先へ伝う血液を鬱陶しく思いながら、ジャマダハルを構え直す。すると、綾那の狙い通りゴブリンが高く跳躍した。
相手がこん棒を振りかぶるよりも前に、ジャマダハルを斜めに一閃して袈裟斬りにする。肩から腹にかけて切り裂かれたゴブリンは、地面へ仰向けに倒れ込んだ。
しばらく苦しげに地面をのた打ち回っていたゴブリンは、やがて事切れたのか、弛緩して完全に動かなくなる。
残るは、綾那向きではないらしいスライムの魔物と、メインディッシュのゴーレム。綾那は頭上に漂う光球に向かって、意見を求めた。
「――シアさん! この二体だけなら、もう眷属を倒してしまっても良いでしょうか!?」
半透明な膜の外を一瞥するが、いまだ人影はない。すぐさま助けてくれるだろうと思っていた颯月の到着は、思いのほか遅れている。
もしや、このゴーレムの他にも眷属が居たのだろうか。それとも、また魔物の軍勢が街の正門へ押し寄せて、綾那の援護どころではないのか。
この眷属を倒せば、魔法封じも消える。そうすると、残るスライムが魔法を使えるようになってしまう。
綾那はますます、窮地に追い込まれるだろうが――しかし「怪力」のフルプレートアーマーならば、きっと魔法にも耐えられるはずだ。
(――まだ試した事、ないけど!)
ルシフェリアだってレベルマックスでどうのこうと言っていたし――なんにせよ、少なくとも綾那がフルプレートアーマーを維持できる五分間は無敵だ。
むしろ、このまま生身でスライムとゴーレムの攻撃を躱し続ける事の方が、よほどリスクが高く感じる。これ以上顔に傷を作るのだって、勘弁願いたい。
ルシフェリアは黙り込んだまま、逡巡するように右へ左へ移動すると、やがて声高に宣言した。
『分からない!!』
「――わっ、分からない!?」
『力を使い過ぎて、もう君の行く末がまともに見えない! だから、どうなるか全く分からない! ただ何が起きても、僕は君を――見届ける!!』
「……いっそ清々しいですね!」
怒りも戸惑いも何もかも、一周回っておかしくなってしまったのか。綾那は思わず笑みを零すと、ジャマダハルをしまい込んだ。そして全力の「怪力」を発動すれば、一瞬で純白のフルプレートアーマーに全身を包まれる。
強く握り込んだ拳に、ガントレットがギシリと鈍い音を立てた。綾那は一つ息を吐くと、ゴーレムに向かって駆け出した。
イマイチどこを狙えば良いのか分からないままに、なんとなくで大きく振りかぶった拳が殴り抜いたのは、ボディの中央――人間でいう、みぞおちの辺りだ。
頑強な岩が、文字通り砂のごとく粉砕されて穴が開く。拳が無事通って安堵する綾那のガントレットに、コツンと何かが当たった。拳を引き抜いて穴を覗けば、真っ赤なルビーのような魔石がぴしりとひび割れて、砕けるのが見えた。
恐らく、今のが魔法封じの核だったのだろう。ぱちりと瞬く間に、辺りを覆う半透明の膜がかき消えた。ゴーレムの身体は砂に変わり、夜風に吹かれてさらさらと飛ばされていく。
(やった! 悪魔は無理でも、普通の眷属ならギフトで倒せるんだ……!)
パッと上を見やれば――今まさに眷属が討伐された事で、僅かながら力を取り戻したのか――拳大だったルシフェリアの身体が、サッカーボール大にまで成長している。
本人が居ないので確認しようもないが、もしかすると、今頃楓馬は普通の人間に戻っているのだろうか。
「ありがとう、シアさん! シアさんが助けてくれたお陰です!」
『――僕は、美と慈愛を司る天使だからね。当然さ』
正直ルシフェリアの助言がなければ、かすり傷程度では済まなかっただろう。いや、そもそもルシフェリアのせいでこんな窮地に立たされたという事は、一旦置いておいて。
綾那は達成感を噛み締めるように俯いて、鎧の中で目元を緩ませた。しかし、ふと暗い影が落とされて我に返る。眷属を倒しても、まだスライムが残っているのだ。それも、魔法を解禁された状態のスライムが。
「――へ?」
パッと顔を上げると、先ほどまで人型だったスライムは見る見るうちに体積を増して、まるで反り立つ壁のように姿を変えていた。スライムはそのまま、間抜けな声を漏らした綾那に覆いかぶさるように、ゆっくりと倒れ込んでくる。
真っ黒なスライムの大壁は、綾那を飲み込む津波のようであり、深淵の大穴のようでもあった。
(これは……本当に、「怪力」で防げるヤツなのかな――!?)
綾那を丸飲みしようとするスライムの行動が、物理攻撃なのか、何かしらの魔法なのかも分からないまま――綾那は途端に不安に陥った。まさか、コレを防げずに死ぬというのが、ルシフェリアの予知した綾那の未来ではないだろうなと。
視界一面を塗り潰す真っ黒なタールの海に、まるでリンゴのような赤い球が浮かんでいる。それが狙いを定める目のように思えて、綾那は身動き一つ取れないまま、ヒッと喉を引きつらせた。
――しかしスライムが綾那を押し潰す前に、パァンと乾いた銃声が響いた。途端に赤い球が砕け散り、体積を増したスライムは、まるで幻のようにスーッと溶けて綾那の前から姿を消した。
「アーニャ! 平気か!?」
ドッドッと激しく脈打つ鼓動はそのままに、声のした方を見やる。するとそこには、右京に体を支えられながら両手で銃を構えている仔馬――もとい、陽香の姿があった。どうも、彼女が銃で撃ち抜いた赤い球こそがスライムの弱点だったらしい。
綾那はフルプレートアーマーを着たまま、まるで腰を抜かしたようにその場にへたり込みかけた。しかし綾那がへたり込むよりも早く、紫紺色の鎧を着た騎士――颯月が、その身体を抱えるようにして支えた。
これ以上ない安堵感に包まれた綾那は、颯月を見上げて首を傾げる。
「……颯月さん、お怪我はありませんか?」
「それは、アンタが言う台詞じゃあねえだろう」
呆れたような声色に、綾那は鎧の中で「確かに」と小さく笑った。
颯月が「魔法鎧」を発動させているという事は、やはりゴーレムの他にも敵が居たのだろう。それが眷属なのか魔物なのかは分からないが、とにかく彼が『異形』を隠しながらマナを吸収するには、この鎧を着るしかないのだから。
正門を見やれば、遠目でよく見えないものの――更に魔物の死骸が増えているような気もする。その周辺には複数の騎士が集まっているので、事後処理に当たっているのかも知れない。
とにかくこの場に居るのは、心配そうに綾那を見やる陽香と右京、そして綾那を支える颯月の三人だ。
「アーニャこそ、怪我はねえのか? 魔法封じの膜――お前を飲み込んだ後から、いきなりおかしくなってさ」
「おかしく?」
「半透明だったのがいきなり真っ黒になって、外からは中の様子が一切見えねえし……助けに飛び込もうにも膜に弾かれて、誰も入れなかったんだよ」
「え? 中から見たら、半透明だったんだけどな……? それに、皆すぐ傍に居てくれたって事? 姿が見えなかったのに――」
ルシフェリアが無理やり干渉して、魔具を弄った事による不具合でも出たのだろうか。綾那は、ふと「まさか、万が一にも颯月さんが魔法封じの中へ戻ってこないように、上からずっと干渉していた訳じゃないよね?」と思い至ると、上空を漂う光球を見やった。
ただの光球であるから表情は分からないが、しかし、一瞬ピュン! と不自然に跳ね上がった所からして、当たらずとも遠からずなのではないだろうか。
何せ今、この場でルシフェリアの声が聞こえるのは綾那だけなのだ。膜の上空で綾那に向かってどんなアドバイスをしていようが、彼らは何一つとして聞き取れなかったはず。
いくら颯月を守りたいからと言って、わざわざ綾那に孤軍奮闘を強いたのは、さすがに鬼なのではないか。
(でも、まあ――こうでもしなきゃ、颯月さんに何かがあったのかも知れないし……終わり良ければって言うものね)
呆気なく納得した――というよりも、考える事を放棄した綾那は、一つ息を吐き出した。そして、これ以上「怪力」を維持するのはしんどいからと、おもむろにギフトを解除した。
純白の鎧がパッと光り輝いて、光がかき消えると共に鎧も消える。しかしその瞬間、綾那の肩を支える颯月の指にグッと力が入り、僅かにめり込んだ。
さすがに痛みを覚えた綾那は眉根を寄せると、「颯月さん――?」と窺うように呼び掛けた。
「綾、アンタ――」
声を震わせる颯月に、綾那はますます困り顔になる。いきなりどうしてしまったのだろうか。
改めて問いかけようと口を開けば、正面に立つ陽香が突然「ッア゛アァ゛アーーーーーーッ!!!!」と、まるで昔流行った腹を押すとシャウトするチキン人形のような絶叫を上げたため、瞠目する。
なんだなんだと目を丸めて陽香を見やれば、彼女は眦を吊り上げて綾那を指差した。
「テメエ! 馬鹿、ふざっけんな!?!? 顔だけは怪我すんなって、いっつも言ってんだろ!!!!」
「――――あっ」
「あ、じゃねえのよなー!! どーっすんだよ、オイィ!! ってか、血ぃ! 血ぃスゲーけど!?!?」
「だ、大丈夫! かすり傷で、見た目ほど酷くは――」
「全っ然、大丈夫じゃねえから!!!」
「いや、うぅ……ええっと」
綾那が奮闘している内に、合成魔法の打ち上げは終了したらしい。今年の祭りは終幕だなんだと騒いでいる頃だろうか――離れたこの場所にまで、街の喧騒が届く。
領民は魔法封じに、街が悪魔に襲われた事すら気取る事なく、祭りを楽しめただろうか。正門に魔物が押し寄せた事も、眷属が居た事も気付かず、何にも怯える事なく終えられたなら、それで良い。
陽香は「終わり! もう終わりだ! 四重奏のお色気担当大臣が、傷物になっちまったー!!」と絶叫しながら頭を抱えているし、その横には、陽香の声量に迷惑そうな顔をしてキツネ耳を塞いでいる右京。
ルシフェリアは「自分は関係ない」とでも言いたげに空中散歩しているし、いまだ綾那の肩に指をめり込ませたままの颯月は一言も発さず、「魔法鎧」のせいで表情一つ分からない。
綾那は弁明の言葉も、彼らに掛ける言葉すら見つけられないまま、ただ「ごめんなさい」と一言呟くと項垂れて――その場に立ち尽くしたのであった。
これにて第四章、完結です。
後半は颯月がログアウトしていた事もあり、完全にラブコメ詐欺でした……一体どうしてこうなったのか。
第五章は反省して、もっとラブコメ感を出せるように頑張ります。これからもお付き合い頂けると幸いです^^