危機一髪
正門へ辿り着いた綾那は、まず通行証の確認をするはずの門番が居ない事を訝しんだ。恐らく、通行証がどうとか見張りがどうとか言っていられるような状況ではないのだろう。
一旦ルシフェリアを地面に下ろして弾んだ息を整えていると、不意に綾那の頭上へ影がかかった。「追跡者」で常に動向を追っていたため、大した驚きもなく見上げれば――焦った表情の陽香と目が合った。
どこかの屋根から飛んで来た陽香は、門の上に着地したようだ。しゃがみ込んだ体勢のまま街の外を指差すと、「おい、アレ」と唇を戦慄かせる。
「――外! なんかよく分からんが、ヤバヤバのヤバだぞ!!」
魔法封じの魔具を処理してきたばかりの陽香に労いの言葉をかける暇もなく、綾那は硬く閉じられた門扉へ近付いた。そうして「怪力」を発動しつつ重厚な扉を両手で押せば、ギィイと耳障りな音を立てながら開く。
綾那の目に飛び込んで来た光景は、乱戦を繰り広げる騎士と魔物の姿だ。彼らは魔物と共に、ドーム状の半透明な膜に囲われていた。
閉じ込められている騎士は一人や二人ではない。何人も魔法封じに閉じ込められているせいで、十分な機動力を確保できないようだ。その上、地面に横たわる魔物の死骸が増えれば足元が悪くなる。
動き続ける騎士へ視線を巡らせれば、すぐさま金混じりの頭を見つけて息を詰まらせた。颯月と背中合わせに立っているのは、竜禅だろうか。幸成の姿も見えたような気がした。無事でいて良かったと安堵するのと同時に、一刻も早く助けなければと焦燥する。
(でも、どうやって?)
颯月が対峙している魔物は、小山のような岩男だった。魔法封じのドームの中心に立ち、彼が振るう剣を物ともせず弾き返し続けて、微動だにしない。いつもの大剣ではなく騎士の基本装備らしい長剣を使っているのは、やはり一切の魔法が使えないせいだろうか。
「アレだ――眷属が魔具の媒体。あの子さえ倒せば、魔法封じも消えるはずだよ」
背後から掛けられたルシフェリアの言葉に、綾那は改めてゴーレムのような岩男を見やった。
全身を覆うごつごつとした岩肌には、切り傷一つついていない。それだけで、あの眷属がいかに頑丈であるかが分かる。ただ、恐らく魔法さえ封じられていなければ、颯月達の敵ではないのだろう。肉弾戦をするにしたって、「身体強化」さえ使えれば、もう少しまともなダメージを与えられたはず。
「眷属って――地球外生命体みたいな見た目ばかりじゃないんですね」
「そりゃあ、ね。だってそんなのばかりだったら、呪われた子は皆同じ『異形』になるよ。悪魔憑きの『異形』は、呪いの元になった眷属の姿に左右されるんだから」
ルシフェリアの説明に、綾那はそれはその通りだと納得した。颯月の薔薇しかり、右京の狐しかり、教会の子供達だって――と考えた綾那は、ふと首を傾げた。
「シアさん、あの眷属……もしかして、楓馬の――じゃ、ないですよね?」
「ああ、よく分かったね。そう、君の小さなお友達と繋がっているみたいだよ」
「やっぱり! ゴーレムっぽいから、そうじゃないかと……」
楓馬の肌は、ところどころ石化していて、全体的に土気色だ。玄武岩のように丸みを帯びた石が張り付いたその『異形』は、まるで人とゴーレムを掛け合わせたような姿をしている。
(つまり、あの眷属を倒せば――楓馬は普通の人間に戻れるって事?)
あくまでも綾那は、己の目を楽しませてくれる楓馬の『異形が』――と言うと、真剣に悩む彼に悪いが――好きだ。悪魔憑きの子供が三人揃って、ワチャワチャと遊んでいる所を見るのだって好きだ。
しかし、「できる事なら己の姿を人目に晒したくない」と口にする彼ならば。彼が抱く願いはきっと、呪いから解放されて普通の人間に戻る事だろう。
魔法封じに閉じ込められた騎士を救うのは勿論の事だが、これは俄然やる気が出るというものだ。ただ問題は、どうやって眷属を討伐するのかという事である。
剣が一切通用しない所からして、恐らく陽香の銃もダメだろう。せめて、もっと口径の大きなものならば話は違っただろうが――恐らく小銃では、あの分厚い岩肌に致命傷を与えられない。
ひとまず綾那もドームの中へ入って、一度全力の「怪力」であの岩男を殴り抜いてみるか。グッと拳を握りこんだ綾那の背に、またしてもルシフェリアが声を掛けた。
「待って。君には何がなんでも、あの子を助けて欲しいんだ。助けるのに少しも手を抜きたくない――失敗は許されない、限界まで成功率を上げよう」
「あの子って……颯月さんですか?」
「うん」
勘当されたとはいえ、彼は間違いなく王族直系の血を引く末裔だ。子供の中でも、特に王族が可愛いというルシフェリアの事だから――何がなんでも救いたいのだろう。
それはもちろん、綾那も同じ気持ちだ。ルシフェリアの言う通りに動きを止めて、成功率を上げるための指示とやらを待つ。
少しも手を抜きたくないとは、どういう意味か。一体何をするつもりなのか。幼女を注視していると、その小さな手の平がおもむろに門の上へ向けられた。
綾那は目を瞬かせて、首を傾げる。何を――そう言いかけた途端に、頭上から「オイ馬鹿、ちょっと待て! せめて下に降りるまで待てよ!?」という叫び声が降ってきた。それと同時に、地面に黒い影ができるのを見た。
尋常ではない様子に、綾那は「まさか、今陽香のギフトを吸収したの?」と瞠目した。陽香の叫びも虚しく、彼女のギフトは――「軽業師」は、一瞬で奪われてしまったらしい。
平坦な道を歩いていた時でさえ、ギフトを失った陽香は一歩も動けなかった。まるで重力に打ち負かされたように膝へ手をつき、両足を震わせていた。
地上から三メートル以上ある、しかも門なんて不安定な足場でギフトを失えば、どうなるか。陽香は、当然のように屋根の上でバランスを崩すと、そのまま真っ逆さまに落下したらしい。
綾那と陽香の間に、大した距離はなかった。しかし、思いも寄らぬ出来事にこれでもかと初動が遅れた。陽香の名を呼ぶ事も、彼女を受け止めるために動く事もできない。いつの間にか、綾那の足元には幼子――ルシフェリアがぎゅうと絡みついていた。
動くな、とでも言うように――。
「軽業師」さえあれば、この程度の高さから落下するぐらい訳もない。まるで忍者か猫のように、軽やかに着地できただろう。しかし、ギフトを奪われた今の状態では――死ぬか、運がよくても麻痺など、脳か体に何かしらの後遺症が残るに違いない。
今更どうする事もできないのは、分かり切っている。綾那は無情にも、両目を閉じる事しかできなかった。目の前で陽香が地面と衝突する様なんて、見られるはずがない。
いくら切羽詰まった状況だからと言って、ルシフェリアにとって王族が何よりも優先すべき事だからと言って――この仕打ちは、あんまりだ。陽香が門から降りるまでの、たった数秒を待ってくれるだけで良かったのに。「余所者はどうでもいい」と言ったって、わざわざ奪う必要のない命まで奪わなくても良いのに。
硬く閉じた目。布のはためくような音と強い風圧を近くで感じて、身を強張らせる。しかし、いつまで経っても聞こえこない陽香の衝突音に、まさか時でも止まったのかと、恐る恐る瞳を開く。
そうして目の前に立つ人影に気付くと、綾那は唇を戦慄かせて、安堵の息を漏らした。
どこか呆れたような表情で、陽香を横抱きにしたキツネ耳の男性――右京。彼は珍しくマナの吸収を抑制する魔具を付けているのか、金色のキツネ耳と大きな尻尾はそのまま、金髪と赤目だけは鳴りを潜めて、やや色素の薄い灰色のポニーテールに、黄色の目をしている。
彼の腕に抱かれた陽香は、まるで高所から降りられなくなった猫のように、目を見開いたまま体をピンと硬直させて、一言も話さない。
右京は、何故か騎士服を着用していない。明らかに私服だろうと思うワイシャツにベスト、動きやすそうなチノパンという出で立ちだ。
いつもの金髪であれば、同じ色をしたキツネ耳と尾が馴染んでいるのだが――この髪色では妙に浮く。まるで、ルシフェリアが付けていたサーバルキャットとかいう猫のカチューシャをしているようで、付け耳感が凄い。
「なん……なに、なんで――?」
目を閉じていたため、目の前で何が起こったのか一切分からなかった。そもそも、なぜ右京が半獣姿のまま平然と街を歩いているのかも分からない。
酷く混乱している綾那のすぐ傍まで歩いて来た右京は――死の恐怖を体験したせいか、ただ驚愕しているだけか――石像のように固まる陽香を腕に抱いたまま、ため息交じり口を開いた。
「子供の姿じゃあ働けないから、この姿で仕事してただけ。この恰好は……祭りの間なら、ただの浮かれたコスプレ野郎にしか見えないでしょう? あえてだよ」
綾那が一つ一つ疑問を口にする前に、右京は先んじて分かりやすく説明してくれた。
億劫そうに話しながら犬歯の目立つ口を開くと、陽香の側頭部にあるアルミラージのお面の耳を噛んだ。それをくわえたままグッと後ろに引いたかと思えば、唐突に口を放して――黒兎のお面は、ぺちん! と気の抜ける音を立てて陽香の頭へ戻る。
つまり彼は、今日一日キツネ耳カチューシャとキツネ尻尾で仮装した、浮かれお祭り男スタイル――と、周囲に見せかけた姿――で、街を巡回していたという訳か。曲がりなりにも、子供の新人としてアイドクレース騎士団に入団した右京。その素性は勿論、本来の実力すら隠して生活している。
ゆえに、領民の取り締まりで忙しい今日も、子供の姿で働く訳には行かなかった。だからと言って、本来の姿で街中に現れたとしても、彼の素性を知っているのは限られた人間のみだ。
周りの認識からすれば『どこの誰だか分からない悪魔憑き』が、堂々と騎士の手伝いをできるはずもない。早朝の会議で「表立って手伝えないなら、裏から手を回せ」と颯月に無茶ぶりをされていた事は、記憶に新しい。
「まあ、この姿の僕は騎士でもなんでもないから、人の取り締まりはできないし……街の外で魔物の相手でもしようかと思ってさ。ただ、見れば分かると思うけど、皆いきなりアレに閉じ込められちゃってね。運が良かったのか悪かったのか、僕だけ難を逃れたものの……外から魔法を撃ってもかき消されちゃうし、無理やり中に入ったところで魔法が封じられるのは分かってるし。これじゃいくら応援を呼んだって仕方ないから、どうしたものかと困ってたら――突然オネーサンが足滑らせて、落ちてくのが見えたからさ」
「びっくりしたよ」と息を吐き出した右京に、ようやく体の硬直が溶けたらしい陽香が、やけに重たそうにしながら腕を上げて彼の頭を撫でた。そして、ふと綾那の足にしがみつくルシフェリアの存在に気付くと、ギリィッと歯噛みする。
「――テメエ! シア!! 死ぬところだったろうが、タイミング考えろ!?」
「でも、死ななかったじゃない」
「死ななかったじゃない――じゃ、ねえだろ!!」
「今は緊急事態だから、説明する暇が惜しいんだよ。生きてるから良いじゃない」
「お前、マジで……ッマジで、性格ヤバヤバのヤバだかんな!? 自覚と反省……! 自覚と反省をしろ!?」
「誰に向かって命令してるの」
不満げに頬を膨らませたルシフェリアは、いまだ憤慨する陽香を無視して、サッと視線を綾那へ移した。そして「仕事の時間だよ」と呟くと、次は綾那に向かって手の平を翳す。
先ほどの陽香を目の当たりにした以上、思わず何をされるのかと身構えた。しかし綾那の身体は不調を訴えるどころか、見る見るうちに不思議な光の粒子に包まれる。
しかも、何やら街の外――颯月達が閉じ込められている魔法封じのドームも、僅かに光ったような気がする。
目を瞬かせてルシフェリアを見やれば、幼女だったはずの姿はいつの間にか――目に優しいレベルの――小さな光球姿になっていて、綾那は「えっ」と声を上げた。
ルシフェリアが今、何をしているのかは分からない。ただ、人の姿を模して『顕現』できるだけの力が残らないほどの何かを、綾那と外の眷属に施している事は確かだ。
この世界の住人である右京と、どうやら「軽業師」だけでなく、全てのギフトを奪われてしまったらしい陽香に、光球は認識できないようだ。口々に「消えた」と言って戸惑っている。
(元々「転移」から奪って蓄えてた力と、陽香から取ったギフト全部を合わせた上で……それでも、こんなに小さな光になるなんて―――)
何かをやり終えたのか、綾那の体を包んでいた光の粒子はかき消えた。あっという間に拳大にまで縮んでしまったルシフェリアは、「よし」と呟く。綾那は、光球に向かって微かに頷いた。