突然の帰還
陽香を教会に残して、綾那達は騎士団本部まで戻って来た。綾那がこれからやる事と言えば、明日の撮影に向けて魔具に不調がないか確認、調整と――あとは正直、祭りに備えて英気を養うくらいだろう。明日は早朝から動くので、早めに眠らねばならない。
しかし、一緒に帰って来た颯月と竜禅は違う。祭りの間に誰がどう、街中を巡回するかの最終調整。人員配置にミスや偏りがないかの見直し。出店や、芸人達がショーをするための舞台の調整。その設営場所の確認など――すべき事は、枚挙にいとまがない。
彼らはきっと、今晩も揃いも揃って、寝ずに働き続けるのだろうと思うと複雑だが――まだまだ『広報』の恩恵は少ないし、深刻な人手不足は続いている。
実は綾那がアデュレリア領へ出かけている間、更に新人が十数名増えたらしいと耳にした。とはいえ、彼らが現場に出られるようになるのは、厳しい訓練を終えてからの事だ。少なくとも数か月は本部で訓練漬けの日々を送り、外でも使いものになると判断された者から順に、各地へ送られる。つまり入団したばかりの新人は、今回の祭りにはどう足掻いても間に合わないのだ。
「綾、どこも不調はないか? 寒気や熱っぽさは?」
心配そうに眉根を寄せている颯月に、綾那は苦笑いしながら「平気ですよ」と答える。颯月、竜禅と共に遅めの夕食をとった綾那は、そのまま流れで颯月の執務室へ呼ばれると、食後の茶をご馳走してもらう事になった。
真夏だというのに――それも、浴びたのはお湯だというのに、どうも颯月は綾那が風邪をひくのではないかと危惧しているようだ。
綾那はギフト「解毒」のせいで、毒物だけでなくアルコールや薬物まで一切効かない。ゆえに単なる風邪だろうが、こじらせれば治療する術もなく死に至る可能性がある。
しかしその辺りのバランスは、やはり「表」でギフトを配る神様とやらがよく考えているのだろう。「解毒」もちは総じて免疫力が高く、滅多な事では風邪をひかないと相場が決まっている。
インフルエンザや麻疹など、流行しやすい感染症の類もまたしかりだ。そうでなくては、「解毒」もちとして生まれた者は皆、病で早世してしまう。
「もし異変があれば、すぐに言え。薬は効かずとも、光魔法なら効くかも知れんからな――それと、あのタイミングで風呂場へ押し入った事は悪かった。セクハラするつもりはなかったし、せめて綾が外に出てくるまでは待とうと思っていたんだが……朔の声を聞いて、堪えられなかった。禅からはシャワーの手伝いだけと聞いていたから、まさか綾まで脱いでいるとは……俺はまだ見ていないのに、ふざけるなと思ったら体が動いていた」
颯月は、どこまでも正直な本音を吐露した。
確かに上半身だけとはいえ、颯月に下着姿を見られてしまった訳だが――しかし彼は、すぐさま己の外套で綾那を簀巻きにした。
そもそも仕事柄、薄着や水着で人前に出る経験をしている綾那からすれば、別段目くじらを立てるような事でもない。見られる事には、ある程度耐性があるのだ。
どちらかと言えば、下着姿を見られる事よりも――颯月が日常的に『健康管理』と称して無断で行う「分析」の方が、精神的にクるものがある。何せあれは、スリーサイズの数値まで詳細に把握されてしまうのだから。
「セクハラだなんて思っていませんから、気になさらないでください」
「……俺が言うのもなんだが、あまり簡単に許されると増長するぞ」
「颯月さんは、少しくらい増長された方がいいですよ、謙虚すぎる所がありますからね」
「颯月様が謙虚……」
淹れたてのお茶が入ったポットを手に持ったまま、竜禅が思わずと言った様子で口を挟んだ。颯月は「何か言いたい事でも?」と目を眇めたが、しかし竜禅は「いいえ」と首を横に振るのみだ。
そうして彼が空のカップに茶を注ぎ始めた所、窓の外で「にゃーん」という猫の鳴き声が聞こえた。
(そういえば最近、よく猫の鳴き声を聞くような――)
以前までそういった事はなかったように思うが、もしや野良猫が敷地内に棲みついたのだろうか。それとも誰かが飼い始めたのか。
正直、陽香が騎士団本部で過ごすようになってから頻繁に聞くようになった気がするので、もしかすると彼女がこっそり餌付けしているのかも知れない。
(十分にあり得る話だよね……でも「解毒してくれ」って頼みに来ない辺り、陽香は違うのかな?)
まあ、猫ならば害にはならないだろうが――と考え込んでいると、ふと視界に光るものが映ったような気がして、首を傾げる。どうも、窓の外――遠くの方で何かが光っているようだ。
さすがにこの時間帯、誰かが街中で合成魔法打ち上げの予行練習をしている訳ではないだろうが――。
「な、なんでしょうか、アレ」
「――綾?」
綾那はソファから立ち上がると、窓の外を注視した。颯月は目を瞬かせて、竜禅はお茶のポットを机の上に置くと、綾那の視線の先へ顔を向けた。
遠くの方で光る小さな物体は、どうも真っ直ぐにこちらへ向かって来ているようだ。――いや、正確に言えば小さいというのは間違いで、こちらへぐんぐんと近付いてくる物体は、さながら空から降る隕石の欠片のような存在感がある。
まだ綾那の知らない魔物の類か、それとも何者かが放った攻撃魔法か。なんにせよ、このままここに居ては、あの正体不明の光が到達してしまう。
綾那はハッと息を呑んだ。竜禅もまたその光に危機感を覚えたのか、ソファに腰掛けたままの颯月を守るように立ちはだかっている。
そうしている間にも光はどんどん大きくなり、確かにこの場所へ近付いているようだ。
窓の外を注視して身構える綾那と竜禅に、颯月はこてんと首を傾げた。
「……何か、見えるのか?」
「――えっ」
その言葉に、綾那は絶句した。「何か見えるのか」とは、一体どういう事だろうか。謎の物体は俄然存在感を増して、まともに目を開けていられないほど眩しいのに。
どうして颯月はなんともないのか――と、そこまで考えた綾那は、一つの可能性に思い至る。
「颯月さんに見えないって事は……じゃあアレ、ルシフェリアさん――?」
「うん? ああ、創造神が戻って来たのか?」
綾那はぽかんと呆けた顔で、改めて窓の外を見やった。最後に別れた時、ルシフェリアはどのくらいの大きさだっただろうか。綾那の拳よりは大きくなっていただろうが、しかし――あれは、大きくなり過ぎなのではないか。
少し離れている間に、一体何があったのか。ルシフェリアらしき光る物体は、直径二メートルを超えているように見える。あまりに強く光り輝き過ぎているため、輪郭がぼやけて正確な大きさは分からないが――さすがに、存在感を強め過ぎだ。
やはり光に焼かれてまともに目を開けていられない。グッと眉根を寄せて目を細めた綾那は、ふと、今更ながらある事に気付く。
「――あれ? 竜禅さん、見えてます……?」
「………………いや、何も見えないな」
「え? でも――」
先ほどの彼は、明らかに見えている者の反応だったように思う。そうでなければ、颯月を守ろうと彼の前に立った行動の説明がつかない。疑問がありありと顔に浮かんでいたのか、竜禅は綾那を見やると、ゆるゆると首を横に振った。
「綾那殿が何事か身構えているのを見て、とりあえず備えただけだ」
「え? あ――なるほど……?」
綾那が困惑気味に頷くのと同時に、ペカー! と、窓から尋常ではない明度の光が降り注いだ。
『ぃやっほー! 僕が帰って来たよー!!』
輝く光と同じく、底抜けに明るい声色でルシフェリアが言葉を発した。光り輝く物体は窓をするりと通り抜けると、常時ストロボフラッシュでも焚いているのかと疑う程の眩い閃光で、執務室を白く染め上げている。
綾那は思わず両目を閉じて顔を逸らしたが、しかしそれでも、瞼の向こう側から目を焼かれる感覚が消えない。
「――ちょ、やめ、眩しッ……!!」
『ねえねえねえねえ! 元気だった? 僕はねえ、この通りとっても調子が良いんだよー!』
「ま、待ってルシフェリアさん、目が潰れてしまいます!」
ルシフェリアを視認できない颯月の目に、今の綾那の姿はさぞかし滑稽に映るだろう。しかし体裁など気にしていられない、それほど今のルシフェリアの輝きは、人体――特に眼球、網膜にとって有害なのだ。
目を閉じたところで結局眩しいため、綾那はぐぐ、と薄目を開いた。すると、光り輝く視界の端に立つ竜禅もまた、綾那と同じようにルシフェリアから顔を逸らしている。
彼は目元にマスクを付けているため、どのような表情をしているのか傍目からは分からない。しかしあの顔の角度は、確実にルシフェリアの光から逃れようとする動きをしているように見える。
「りゅ、竜禅さん! やっぱり見えてますよね!?」
「…………何の話をしているのか、全く分からないな。私はただ、突然首が曲がらなくなっただけだ」
「どうしてそう頑ななのか分かりませんけれど、その理由の方がかえって心配になりますよ!? ……ああもう、ルシフェリアさん! まともにお話できないから、その姿は勘弁してくださーい!!」
綾那の絶叫に、ルシフェリアは「ああ――分かる、僕の神々しさが全面に溢れ出ちゃっているもんね……恐れ多いのは分かるけれど、でもそんなに恐縮することはないんだよ」と、やけに慈愛に満ちた声色で囁いた。
綾那は続けて「違う、そうじゃありません」と叫んだが、その後しばらくの間、執務室に焚かれるストロボフラッシュが収まる事はなかった。