特別な魔法を
「大気を巡る精霊よ、我に従い、躍り戯れろ――「緑風」」
颯月が詠唱を終えると、本来風など吹くはずのない教会の中に、温かい風が吹き始めた。服や髪を乾燥させるための魔法をかけられた綾那は、「お手数おかけします」と一人項垂れる。
まだ幼い子供相手に、当然と言えばそれまでなのかも知れないが――「決して綾那に水をかけない」という約束は、秒速で破られてしまった。
綾那を教会の風呂場まで案内した幸輝と朔の二人は、一切の恥じらいなく服を脱ぎ散らかした。普段は静真と入るか、子供達三人で一緒に入るかの二択。彼らにとって今回の『綾那とお風呂』というイレギュラーは、どうにも楽しくて仕方がない事だったらしい。
早く早くと急かす二人を先に風呂場へ押し込んで、脱ぎ散らかされた衣類を簡単に畳んでひとまとめにするところまでは良かった。
疲れたと言う割には元気が有り余っているように見えて、頭を洗うだけでも骨が折れるだろう。そんな事を思いながら風呂場へ足を踏み入れた綾那を待ち受けていたのは、満面の笑みでシャワーを構える幸輝と朔だった。
「あ、終わり」と思ったのも束の間、勢いよく噴き出してきた温かいお湯を全身に浴びた綾那は、無言のまま子供達の頬を引き伸ばした。それでも尚キャッキャッと大喜びの子供達に色々な事を諦めて、遠い目をしながら彼らの頭を洗う。
仮に竜禅が風魔法を使えたなら、颯月達が戻ってくる前に乾燥してもらえたのだが――残念な事に、彼が使えるのは水魔法ひとつのみ。
悪魔憑きの子供達ならば、きっと風魔法も使えるだろう。しかし最近やっと魔力の制御を覚えたばかりの――それも、悪戯好きでやんちゃな彼らに乾燥を頼んで、今より状況が悪化しないとも言い切れない。
――であれば、もう颯月が帰ってくるのを待ち、彼に乾燥してもらうのが一番だ。
綾那は全身ビタビタに濡らしたまま子供達の頭を洗い終わると、「あとは、適当に温まってから出なさいね」と言って風呂場を出ようとした。しかし、幸輝と朔は揃って服をグイーッと引っ張って、「もうビショビショなんだから、アヤも入れよ!」と更なる無茶振りをしてくる。
確かに、ここまで濡れ鼠になれば最早同じ事だが――あまり悠長にしていると、外で待つ竜禅がヤキモキしてしまうだろう。それにいつまでも綾那がここに居ると、楓馬だって風呂に入れない。
そもそも、初めにした約束はシャワーの手伝いだけで、風呂に入るなんて話はしていない。まあ、「水をかけるな」という約束を速攻で破った彼らに言ったところで、詮無き事だろうが。
綾那は、子供達があまりにグイグイと服を引っ張るため――水に濡れている事もあって――生地の傷みが気になった。綾那の着る服は、全て颯月から贈られたもの。そのどれもが宝物なのだ。
一緒に湯船に浸かる気は全くないが、どちらにしても一旦脱いで服の水気を絞らねば、ここから出られない。このまま外に出れば、教会中を水浸しにしてしまうのだから。
綾那は子供達に「服が伸びるから、引っ張るのはやめて」と言い聞かせると、自ら上の服を脱いだ。そして生地を傷めないよう力加減に細心の注意を払いながら、雑巾絞りの要領で水気を絞る。
上半身だけ下着姿になった綾那に、朔が無邪気な顔をして「本当にアーニャ、おっぱいおっきいね! 牛みたい!」と言った瞬間――バァン! と勢いよく風呂場の扉が開け放たれた。
突然の事に、子供達と一緒になって肩を揺らした綾那の目に飛び込んできたのは、不愉快そうにグッと眉根を寄せた颯月だ。彼は背に纏う外套を取り払うと、水に濡れるのも気にせず綾那の身体にぐるぐると巻き付けた。
そうしてぽかんと呆けている綾那の手を引くと、「あとで説教だからな、クソガキ共」と吐き捨て――外套で簀巻き状態の綾那は、教会の厨房へ一人押し込まれた。
唯一の出入口である扉の前には颯月が立っているため、綾那以外の誰も厨房へ立ち入れない状況だ。
そうして「緑風」の温風に吹かれる綾那は、扉の傍で聞き耳を立てた。
「オイ、野郎は誰一人としてこっちに来るなよ? それから、ガキ共はしばらく綾に接近禁止だ」
「えぇー!? にーちゃん、僕明日アーニャとデートしなきゃいけないのに!」
朔は、街の子供の間で出回っているらしい「夏祭りにデートした男の人と女の人は、絶対に結婚できる」というジンクスを信じ込んで、妙な使命感に燃えている。
彼はどうしても綾那と陽香二人と結婚したいらしく、明日の祭りでは絶対にデートするのだと意気込んでいた。
「綾も陽香も撮影の仕事で忙しいから、アンタとデートする時間はない。そもそも、朔だって朝から合成魔法の調整に駆り出されるぞ。悠長に祭りを楽しむ暇なんざねえはずだ」
「なんだよ颯月! 普段アヤにちゅーとかエロイ事してんだから、俺らがちょっとおっぱい見るくらい良いだろ!」
「違ぇ。アンタらずっと俺の事を置き去りにして、常に最先端行ってんだよ、いい加減にしろ。俺はたまに手ぇ握るとか……抱き締めるだけで我慢してるんだぞ、本気で意味が分からん」
小声でぼやく颯月に、陽香が「それだって、友人がやって良い事じゃあねえだろ」と静かに突っ込んだ。
「ねえ、ちょっと颯月さん! 俺は綾那と風呂なんて入ってないんだけど!? なんで俺まで接近禁止!?」
「楓馬――アンタは、またとない入浴チャンスを断った事が逆にリアルなんだ。度合いで言うとガキ共の中で一番ヤバいだろう」
「い、意味が分かんねえ! 俺もう、結構いい歳だよ!? 女と風呂入ろうなんて思わないし、リアルでもヤバくもないって!」
「あの颯月様……そんな事よりも、一度共感覚を切りませんか?」
ギャアギャアと文句を言う楓馬に続いて、竜禅が淡々とした口調で言った。彼は『共感覚』により現在進行形で颯月の感情の起伏に振り回されているのか、いつも以上に声の抑揚がない。
「切る訳がねえだろう、禅。なんでアンタが居ながら、こんな事になってる? まだガキとは言え男には違いない、まさか俺が許すとでも思ったのか?」
取り付く島もない颯月に、竜禅は「だから叱られると言ったんだ――」と呟いた。ようやく彼の心配していた事を理解した綾那は、申し訳なさと気恥ずかしさに苛まれる。まさか颯月が、男児にまで妬くとは思わなかったのだ。
「ではせめて、怒るか喜ぶかどちらかひとつにしませんか? 先ほどから、心中がとんでもない事になっています」
「無茶を言うな、俺は図らずしも桃源郷を見ちまったんだぞ? 瞬きする度に瞼の裏へ鮮明に浮かび上がられると、紳士の本能には逆らえんくなる」
「情緒不安定にも程がありますよ」
竜禅はぴしゃりとツッコミを入れたが、颯月が共感覚を切る様子は一切ない。やがて諦めたように大きなため息を吐き出した竜禅は、その後何も言わなくなった。
彼は基本的に、颯月のやる事なす事全肯定派だ。しかし、共感覚で自身に何らかの被害が及ぶ時だけは抵抗を強める。まあ、だからと言って、颯月が要求を素直に聞き入れてくれるかどうかはまた別の話だ。
「静真。もし綾が風邪でも引いたら昨日割った魔石代、全額請求するからな。綾には薬が効かん、下手したら死ぬかも知れん」
「も、もしかして、私に死んで詫びろと言っているのか? 死ぬまで働き続けたとしても、返済できない額なんだが……?」
「颯様って、アーニャが絡むと懐が狭――いや、懐がなくなるよな。普段引くほど広いのに」
「人の体からそう簡単に懐はなくならんだろ」
「物理の話じゃねえのよな……束縛癖――デートDVってヤツか? やっぱアーニャのやつ、体にアザでもあるんじゃあ……」
「失礼なヤツだな、女を殴って悦に浸る趣味はない。俺の天使に傷がつくなんざ、考えただけで吐き気がする」
その言葉に、扉を隔てた綾那は「――ヅッ……!!」という短い奇声を漏らした。「俺の天使」という言葉には力があり過ぎて、身悶えてしまう。
「一応確認だけど、まだ颯様のアーニャじゃねえからな? あたしの他にも家族は居るんだ、全員の許しも得ずに公認の仲だと勘違いされるのは困る」
「…………」
「オッ……え? シカト? ――マ? いつの間にか、苦し紛れのなんちゃって友人設定もかき消えたし……お前ら、いよいよ引き返せなくね?」
「引き返すも何も、俺の望みは最初から何も変わらん。綾が死ぬまで養いたい、ただそれだけだ。あと『公認』に繋がるなら、陽香含めた他の家族も全員まとめて一生面倒見てやっても良い」
暗に金銭をちらつかせる颯月に、陽香は「お前さあ、すぐ金にモノ言わせるのマジでやめとけ!?」と至極真っ当なツッコミを入れた。
子供達の特訓のためだけに、億単位の金をポンと投げ出した颯月の事だ。実際に『四重奏』全員まとめて養うなど、朝飯前に違いない。
だからと言ってそれを実行に移すのは、あまりにも常識外れな行いだと思うが。
「あの――乾きました。お騒がせして、本当にすみませんでした……」
綾那は厨房の扉から顔を覗かせると、ほんのりと熱をもつ頬を押さえた。決して風邪を引いた訳でも、「緑風」で暖まり過ぎた訳でもなく――ただ単に颯月の言葉を耳にした結果だ。
体に巻いていた外套も乾燥してカラッとしている。それを颯月に手渡せば、彼はひとつ頷いて己の背に羽織り直した。しかし、やはり胸元の留め具は留めない。王太子の言う通り、一人で服が着られないというのは事実らしい。
綾那は思わず笑みを漏らすと、外套の留め具に手を伸ばした。突然の事にびくりと体を揺らした颯月に構わず、留め具を付け直す。
颯月は「綾那が死ぬまで養いたい」と言ってくれたが、綾那は「颯月が死ぬまで尽くしたい」と思っているのだ。それを口にすれば、陽香から容赦のない肩パンチが飛んで来るため、言わないが――。
もしも本当に様々な問題が全て解決して、颯月と綾那が共に生きられるような未来が訪れるとしたら――その時は、彼の苦手とする日常生活の基盤を支えて、着替えだって何から何まで手伝いたい。
それがまるで使用人のするような事だとしても、着替えのたびに体の刺青が見られるとすれば、一つも苦ではない。
外套の留め具をしっかりと留め終わった綾那は、手を下ろすと満面の笑みになった。けれど「まるで、旦那さんのネクタイを締めてあげているみたい」なんて思うと、途端に照れくさくなってはにかむ。
颯月は自身の左目を片手で覆い隠すと、参ったような声色で呟いた。
「なあ、陽香。ひとつ聞きたいんだが、公認を貰う前に手ぇ出した場合はどうなる……?」
「は!? どうもこうもねえ、ぶっ殺されるわ!! ――あたしがナギに!!!!」
「…………じゃあ、よくねえか?」
「よくねえわ! 何真剣な顔でバカ言ってんだよ!?」
言い合う陽香と颯月を尻目に、幸輝が感心したように頷いている。
「颯月とアヤは、『紙』じゃねえもんな――なんかホント、ちゃんと婚約者って感じする。なあなあ、チューは? チューしろよ~」
「幸輝にその話はまだ早い。ひとまず、噂の『アイドル』とやらに会った上で俺がなんともなければ――キスのひとつくらい、褒美に貰っても良いような気はするんだが」
「えっ」
「――は? 何言っちゃってんの……? そ、そんな事あたしが許したとなれば、ナギが何を言い出すか――!」
「陽香アンタ、俺が耐えれば綾との仲を認めると宣言しただろう。撤回はナシだ」
ぐうと唸って下唇を噛みしめた陽香に、綾那は慌てる。一体いつの間に、アリスのギフトについて話したのだろうか、と。この二人がアデュレリア領でその会話をしていた時、綾那は徹夜明けで寝落ちしていたのだ。
(そ、颯月さん、「偶像」に耐えようとしてるって事……? 絶対、ムリなのに――)
何せ過去、「偶像」に耐え抜いて綾那の元に残った男は一人も居ない。居ないが――しかし、もし。もしも颯月が耐え抜いたら、その時はもう、何一つとして遠慮する必要はない気がする。
綾那がそんな事を考えていると、陽香が強引に話を打ち切るように「アァー!」と吠えた。そしてぐるりと静真を見やると、「ズーマさん、やっぱ今日、泊まってくわ!」と告げる。
「え、陽香泊まるの? 編集は?」
「編集は別の日でも出来るし、そもそも宣伝動画に出来るかどうか微妙だからな。それよりも、今日しかできない事をやっておきたくて……実行委員のトコから帰る道すがら、ズーマさんと合成魔法の模様について話したんだよ」
曰く、子供達は無事祭りに参加できる事になったらしい。颯月の存在はもちろんだが、何よりも実行委員を震え上がらせたのは、祭り前日になって静真が「子供を参加させないなら、私も不参加で」と脅迫した事だろう。
光魔法に長けた者は本当に数が少ないらしく、一人欠けたなら新しい人員を補充――とはいかないそうだ。
そうして、参加権利をもぎ取った帰り道に陽香が提案したのは、魔法で打ち上げる模様である。伝統的な紋章や、複雑な模様も良い。しかし、せっかく悪魔憑きの子供が参加するならば、見る者の度肝を抜いてやりたいではないかと。
陽香が今思い描いているのは、「表」の花火だ。旭がこちらで花の模様を打ち上げる事はないと言っていたから、「奈落の底」では目新しく映るに違いない。
その打ち上げる花火の図案を、子供達と静真に視覚的に理解してもらうため――陽香は教会に泊まり込みで、図案をスケッチしようと考えているらしい。
「ただ参加して終わるだけじゃあ、感動も薄いだろ? やっぱここは派手に目立ってナンボだと思う訳よ、例え伝統から外れてると非難されたとしてもな。って事で、あたしは泊まるから先に帰っていいぞ」
「でも……着替えは?」
「楓馬に借りるから平気。てか、さっき颯様が魔法で全身洗って乾かしてくれたから、正直着替えがなくてもイケるんだけど」
「な!」と言って楓馬の肩を抱く陽香を見て、綾那は「確かに背丈、一緒ぐらいか」と納得した。陽香は普段十五センチある厚底ブーツを履いているので、一見すると分かりづらいが――身長150センチとかなり小柄である。靴を脱げば、楓馬の方が身長が高いくらいだ。
綾那には断られたものの陽香が泊まると聞いて、子供達はワッと盛り上がった。またしても誰のベッドで寝るか、晩御飯の席はどうするのかと大騒ぎし始める。
彼らの様子を微笑ましく思いながら、綾那は颯月と――顔色の悪い――竜禅に、「帰りましょうか」と声を掛けた。