公認
一人で服が着られないとは、一体どういう事なのだろうか。仮に言葉通りの意味だとしたら、彼は普段どうやって制服に着替えているのか。入浴時だって服を着脱しなければいけないし、眠る時には寝間着を――とそこまで考えた綾那は、はたと気付いた。
(まさか、いつも魔法で着衣のまま全身洗浄してるから、お風呂に入る必要も服を洗濯する必要もない……!? そもそも睡眠だって、制服のまま横になって仮眠している姿しか見た事がない――!)
綾那は衝撃を受けた。アデュレリア領まで旅していた時に問題なかったので、さすがにトイレで困るような事はないのだろうが――もしそれらの理由が一人で服を着脱できないからだとすれば、それはもう、途轍もなく。
「どうだ、義兄上は可愛いだろう?」
「か、可愛い……っ! 可愛いです、どうして、そんな事に――!?」
綾那は口元を覆って、ふるふると震えて身悶えながら声を絞り出した。
可愛いからなんだって良いのだが、しかし着られない理由が気になる。他の日常生活は問題なく出来ているのだから、不器用という言葉は少々不適当に思うのだ。
綾那の疑問に答えたのは維月ではなく、どこか気まずげな表情をした正妃だった。
「たぶん私が原因ね。まだ颯月が王太子だった頃、必ず使用人の手で着替えさせていたのよ。あの子一人で着替えようものなら、「王族の世話は全て使用人がするものよ」と説教するほど熱心に教育していたし……あの頃は私も、周りに王太子の立場を知らしめようと躍起になっていたわ。だからあの子、自分の世話が一切焼けないのよ」
恥じ入るように独りごちた正妃に、綾那は胸中でつい「またあなたですか」と思った。
つまり颯月は、決して不器用な訳でも、服の着脱方法が分からない訳でもない。ただ幼少期に正妃から説教されたトラウマのせいで、自分一人で着替えるのは悪い事――と刷り込まれているのだ。
例えば他人の着替えは手伝えても、自身の事となると途端に体が受け付けない。何故なら正妃に「お前の世話は使用人がするものだ」と教え込まれているし――そもそも幼少期にそんな経験をする機会がなかったのか――「他人の世話を焼くな」とは教えられていない。
なんとも不思議な自分ルールだが、颯月はアレで正妃の教えに絶対服従である。
道理で――厳密には服ではないが――颯月が背に纏う外套を綾那に貸与する際、いつもしっかりと留め具を留めてくれた訳だ。そのくせ自身が再び背に纏った時は、羽織るだけで留め具を付け直さなかった。
「じゃあ、普段の着替えは――?」
「ええと、まあ、その……副長が」
「竜禅さんが」
顔を逸らしたまま答える和巳に、綾那は「それでは、本当にお世話係ではないか」と思った。しかし、竜禅に騎士服を着させてもらっている颯月を想像すると、微笑ましい気持ちになってしまう。
体にも刺青が入っている以上、恐らく誰彼構わず頼めないという問題があるのだろう。その点、幼少期から颯月を守る竜禅ならば心配ない。
「同じ理由で炊事や掃除も一切できないから、騎士なのに単独で遠征する能力がない。義兄上は一人では生きていけないだろうと思うと――」
「ま、守りたい……っ」
「そう、それだ! さすが義姉上だな、やはり『よさ』が分かるか!? あれだけ図体のでかい大人の男に一切の生活能力がないなど、つい手助けしたくなってしまうよな!」
途端にワッと盛り上がる維月に、綾那は笑顔で頷きながら「あねうえではないです」としっかりと突っ込んだ。しかし彼は、「なに、それも時間の問題だ」と嘯く。
「従兄弟の幸成には理解出来んのだ。「いつまでも昔の事を引きずって、情けない」と――そんな事はない、義兄上はあれでいい。なんでもそつなくこなす人だったら、きっと俺はここまで好きになれなかった。そう考えれば義兄上を……いや、団長を散々いびり倒してくれた母上には、感謝しかないな」
「維月、言いがかりはよしなさい。いびり倒してなどいないわ、王太子として正しく教育したまでよ」
「はっはっは、母上でも冗談を仰るのですね。これは面白い、次に団長と会ったら話して聞かせよう」
手を叩いて笑う維月に、正妃はムスッと不服そうな顔をした。
見たところ、維月も颯月と同じく正妃から厳しく教育されているようだ。しかし、彼の方が颯月よりも正妃に対する軽口が多い。やはり本物の血縁だからか――それとも、義兄の教育で様々な事を学んだ正妃が自重した結果なのかは分からない。
正妃はふんと鼻を鳴らして時計を見やると、ハッとして「長居し過ぎたわね」と呟いた。
「維月、そろそろ戻るわよ。肝心の颯月が不在なのだから、これ以上長居しても仕方がないでしょう? 夏祭りの最終調整をしないと」
「あ……正妃様達も、お祭りに行かれるんですか?」
「国の催事だもの、これも王族の務――綾那。もしかしてお前、祭りに行くつもりなの?」
「そのつもりでしたけれど……でも、分かりません。もしかすると、悪魔憑きの子供達と一緒に教会でお留守番しているかも知れませんね」
苦笑いする綾那に、正妃は短く「そう」と短く答えた。
「当日は陛下も市井へ降りるから、気を付けなさい。私からすれば、教会で大人しく留守番してくれている方がよほど安心だわ。どうせ颯月は警備で忙しくて、お前から離れてしまうでしょう」
「こ、国王陛下も参加されるんですか? ええと、まあ、このマスクを外す事はないので、大丈夫だとは思いますけれど……」
「――だと、良いけれど」
正妃は踵を返した。そして維月に「先に行くわよ」と声を掛けたかと思えば、ツカツカと早足で階段を下りて行く。維月もまた正妃に続いて踵を返すと、階段へ向かって歩き始めた。しかし、ふと思い出したように足を止めると、綾那を振り返って悪戯っぽく笑う。
「義姉上、次は義兄上と一緒に会えるのを楽しみにしている」
「いや、あ、あねうえでは……! そもそも、私程度の人間が颯月さんに相応しい訳――」
またしても狼狽えて否定する綾那に、維月はゆるゆると首を横に振った。
「ソレは思い違いだな。この世のどんな人物よりも尊い存在である義兄上に、『相応しい女』など居ない」
「……へ?」
「だから、どうせどんな女が来ても義兄上とは釣り合わないんだよ。――であれば、せめて義兄上が好ましいと思う女と添い遂げて欲しいと思う。義兄上を幸せにさえしてくれるならば、俺は相手がどんな醜女だろうと、化け物だろうと構わないんだよ。よく出来た義弟だろう? ……そこ行くと義姉上は無駄に見目が良いから、今までのゴミと比べればまだ好感がもてるよ」
それだけ告げると、維月は歪な笑みを浮かべた。綾那は突然の事に、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「殿下……」
「ああ悪い、口が滑った、許せ。義姉上があまりに天使のようだから、驚いて」
窘める和巳に一つも悪びれていない様子の維月を見て、綾那は「はわわ――」と唇を戦慄かせた。
(い、維月さんって、ファンの『鑑』なのでは……!? これは絶対に勝てない――!)
彼の言葉から察するに、ポッと出の綾那の存在を一ミリも認めていない。
恐らく本音は、敬愛する義兄颯月の隣に立つなんて烏滸がましいとすら思っている。きっと彼本来の性質は『麺被りNG』なのだろう。
先ほど颯月の意外な一面を暴露したのだって、決して綾那を喜ばせるためなどではない。「俺は、お前が知らない事を知っているぞ」と、牽制するためだったのだ。
それでも表面上綾那と好意的に接してくれるのは、他でもない颯月の望む女性だからだ。彼はどこまでも颯月の幸せしか考えておらず、己の個人的な感情は二の次で押し殺している。確かに、なんてよく出来た義弟なのだろうか。
綾那は、恐怖なのか感動なのか分からないモノで一度ぶるりと体を震わせると、真っ直ぐに維月を見返した。
「これから先の事は、誰にも分かりませんけれど……精一杯、颯月さんの事を勉強させてください、先輩――!」
「……先輩?」
「だって、そうでしょう? 私などよりも先に颯月さんを好きになって、支えてきた偉大なる先人です! 私も想いだけならば負けない気持ちでいますが、どうしたって蓄積された知識や思い出には太刀打ちできません――どうか私にも、学びの機会を与えてください」
胸の前で両手を組み、真剣な表情で懇願する綾那を見下ろして、維月は「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「そうやって下手に出れば、俺から秘蔵の義兄上情報を引き出せるとでも? 顔に全部書いてあるぞ」
「――ぅぐっ! 見え見えの魂胆っ……! 我が欲望よ、鎮まりたまえ……ッ!」
馬鹿正直に呻きクッと下唇を噛む綾那を見て、維月は噴き出した。ややあってから呆れたように笑うと、「冗談だよ」と目尻に浮いた涙を拭う。
「少し試しただけだ。義兄上の周りに集まるのは、『義兄上』を見ない女ばかりだから……つい意地悪を言った。仲良くしよう、義姉上――俺があなたと仲良くすれば、義兄上も喜ぶに違いないから」
下心だかなんだか分からない言葉を継ぎ足した維月に、「どうも今までの全部、『冗談』じゃなくて本気だぞ」と察した。しかし、いちいち気にしていられない。綾那はにっこりと笑って「仲良くしてくださいね、殿下」と返す。
「……『先輩』でいいぞ、励めよ後輩」
維月は片手を上げると、二ッと笑いながら踵を返して階段を下りて行った。建物の近くに猫でも居るのか、まるで試合終了を告げるように「にゃーん」と気の抜ける鳴き声が響く。
嵐のような一連の出来事に、綾那はふうと息をついた。そうして思うのは、「ファン同士で刃傷沙汰にならずに済んで、本当に良かった」である。
綾那は和巳に「お疲れ様でした」と苦く笑われながら、お留守番も楽ではないと独りごちた。