本部へ帰還
十日ぶりに訪れた、王都アイドクレース。時刻は深夜帯に差し掛かっているため、人通りこそ少ないものの――相変わらず夜でも明るい、華やかな街並みである。街の入口に立つ見張りの検問を受けた一行は、借りていた馬車を店へ返却したのち、騎士団本部を目指す。
ちなみに、綾那は竜禅にもらったアイマスクを付けている。颯月は言葉こそ発しなかったものの、綾那がマスクを付けた途端、これ見よがしに長く深いため息を吐き出していたが――こればかりは仕方がない。
「颯様、マジであたしら宿とらなくて良いの?」
「既に入団が決まったようなものだしな――うーたんは、ひとまず入団希望の見学者って扱いで良いだろう? 入る入らないの判断は後回しで良い」
右京が「僕、まだ入団するなんて言ってない」と反論するよりも先に、颯月は彼の言葉を封じた。ムグッと口を噤んだ後に尖らせる姿は、本当に男児らしくて可愛らしい。
結局、一行が騎士団本部へ到着したのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。
颯月は到着するなり、パチンと指を鳴らす。竜禅と物理的な距離がある間、彼はずっと『共感覚』を切っていた。すぐさま駆け付けられない以上、例え颯月が嫌な思いをしても、危険な目に遭ったとしても――竜禅には為す術がないのだから、当然だ。
豪奢な裏門をくぐり抜けて、敷地内へ足を踏み入れる。すると、先ぶれ一つ出していないにも関わらず、まるで一行を出迎えるように本部の扉が開いた。中から顔を出したのは仮面の男――竜禅だ。
先ほど颯月が共感覚のスイッチを切り替えたので、帰還した事が分かったのだろう。
(そう言えば、竜禅さんと初めて会った日もこんな風に出迎えてくれたっけ――)
綾那は懐かしい気持ちになりながら、ほうと小さく息をついた。
「お帰りなさいませ、颯月様」
「ああ、禅。出迎えご苦労」
竜禅は相変わらず黒いマスクで目元を覆っていて――その抑揚の希薄な話し方も相まって――何を考えているのか分かりづらい。しかし、ふと口元に笑みを浮かべると、「遠征は、楽しめたようですね」と呟いた。
恐らく、共感覚で彼に伝わる颯月の心情が、穏やかで凪いでいるという事なのだろう。
「綾那殿も――怪我はないようだな。陽香殿と、右京殿も共に戻られたか。両名ともアイドクレース騎士団に?」
「おお! うーたん共々、お世話になりまーす!」
「いや、僕はまだ決めてないし、ただの見学者なんだけど……でも通行証のお礼ぐらいはしないと、気持ち悪いから」
「ごめんなあ、禅さん。うーたん素直じゃねえのよ、カワイーだろ」
「そのようだな」
「勝手に人の事を分析しないで――」
陽香に生暖かい目で見つめられた右京は、居心地悪そうに身じろいだ。竜禅は微かに笑みを漏らして、「今宵はもう遅い。詳しい話はまた明日にして、休んだ方が良いでしょう」と手招いた。
その言葉に頷いた颯月は、本部の扉をくぐった。そして、歩きながら竜禅に指示を飛ばす。
「禅。陽香と右京に部屋を用意してやってくれ。その後、俺が離れていた間の報告を頼みたい。執務室で良いか?」
「遠征帰りで、まだ働くつもりですか――? いえ、今に始まった事ではありませんでしたね」
「これと言って問題がなければ、早めに休む。成と和はどうしてる? ああ、休んでいるなら、わざわざ起こす必要はないからな」
颯月の問いかけに答えず、竜禅はただ黙って顎髭をザリ、と撫でた。目元の表情が分からない彼が黙ると、ますます何を考えているのか読めなくなくなる。
返事がないのを不審に思ったのか、颯月は足を止めて目を細めた。
「……何か、あったのか? いや――待て。その問題に、正妃サマが関わっているかどうかだけ先に言え。心の準備が要る」
「いえ、正妃様は関係ありません。実は、ほんの数時間前に起きたばかりの問題でして……今、和巳と幸成が対応しているところです」
「なら良い、執務室で待ってる」
颯月は、竜禅の回答を聞くと肩の力を抜いた。あからさまに安堵の息を吐き出して一向に背を向けると、再び廊下を歩き始める。
その様子を見た右京と陽香は、本当に義母が苦手なのだな――と呆れたような、それでいて同情するような視線を彼の背中へ送っている。竜禅は気を取り直すように頭を振ってから、「部屋へ案内しよう。二人はこちらへ」と言って歩き出した。
「じゃあ、まあ……ひとまず、お世話になります」
「アーニャ、颯様、また明日なー!」
「おやすみなさい」
竜禅に連れられて、宿舎側の棟へ向かう二人に手を振る。夜も深いし、綾那も今日の所は大人しく自室へ向かった方がいいだろう。
颯月がまだ働く気でいるらしい事や、竜禅が口にした『問題』について気にならなくもないが――綾那が気にしても仕方がない。せめて、彼の背中を見送ってから自室へ行こうと目線を投げれば、何故か颯月は、くるりと反転してこちらへ引き返してくるところだった。
綾那が目を瞬かせていると、彼はあっという間に目の前まで戻って来る。
「悪い。ようやく仕事が出来ると思ったら、つい舞い上がって……危うく夜の挨拶もせずに置いて行くところだった」
この十日間も、一応仕事だったはずなのだが――違うのだろうか。そもそも仕事が出来ると思って舞い上がるとは、彼の感覚は一体どうなってしまっているのだろうか。
綾那は色々と心配になりつつも、余計なツッコミは入れず「おやすみなさい」と言って微笑むだけに留めた。
しかし、いつもならば蕩けるような甘い笑みを浮かべて「おやすみ」と返してくれるはずが、今日は綾那を見下ろしてグッと眉根を寄せた。颯月は綾那の髪に手を差し入れると、手櫛で梳くように撫でつける。
「ああ、もう――本当に邪魔な仮面だな。アイドクレースに戻って来たのは良いが、これからは綾の顔を満足に見られんのかと思うと……それだけが憂鬱だ。俺は綾の垂れ目を見るのが一番好きなのに」
残念そうに囁かれて、綾那はウッと呻いて胸元を押さえた。
(過剰なファンサは止めて……! これ以上『颯様サービス料』のツケが増えると、破産するしか……!!)
正直、颯月と共に過ごした十日間の距離感はファンでも友人でもなく、もっと密接な何かだった気がしなくもない。しかし、アイドクレースに戻ったからには気を引き締めて、綾那の甘えた態度も改めなければならないだろう。
何故なら、ここには颯月のファンが多数存在する。下手をすれば、最早アイドル扱いの騎士団が過激なファンの手で炎上してしまう。
しかも彼は、綾那の上官にあたるのだ。一応婚約者という役割も与えられてはいるが、そんな肩書の上に胡坐をかいて甘えているようでは、広報の仕事など務まらない。
(そう、私は『広報』を任された身! しかも、陽香曰く私が立ち上げメンバーだから、なし崩し的に『リーダー』扱い! ここは職場、そして私は広報リーダー……毅然とした態度で、騎士団長と接するの!)
綾那は、緩んだ口元をどうにか引き締めた。彼に甘い言葉を掛けられる度に、身悶えているようではダメなのだ。いい加減免疫を身に着けて、そして適度な距離感を保って接するべきである。
毅然な態度で! と颯月の顔を見上げた綾那だったが、しかしすぐに頭が真っ白になった。
「綾――? どうした?」
いつの間にか緩められた紫色の瞳は、廊下の灯りを優しく反射して、宝石のように煌めいて見える。それを縁取る長い睫毛も、高く整った鼻梁も、薄い唇も――雪のように白く滑らかな肌も、彼を形作るもの全てが完璧だ。
綾那はマスクの下に隠れた目を潤ませて、熱に浮かされるように呟いた。
「やっぱり、格好いい……無理、大好き――」
「……うん? もしかして、久々に口説いてくれているのか?」
「――ッハ!? く、口が、勝手に……!? まさかこれが、噂の「魅了」? わ、私は毅然な態度を心掛けたはずだったのに!」
我に返った綾那が、どうしてこうなった――と激しく取り乱せば、颯月はクッと噴き出して、そして笑いを堪えるように肩を震わせた。
綾那はすっかり熱を持った頬を鬱陶しく思いながら、「これだから、魔性の男は困るのだ」と天井を見上げる。ひとしきり笑った颯月は小さく息を吐き出すと、綾那の頭をぽんぽんと叩いた。そうして甘く緩んだ目で綾那を見下ろして、低く囁く。
「……おやすみ、俺の天使」
「――ン゛! 死ッ……!!」
特大級のファンサービスを受けた綾那は、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
「明日も生きた綾に会える事を祈ってるよ――遠出して疲れただろう、ゆっくり休むようにな」
「はいぃ……」
愉快そうに笑う颯月を見送った後も、しばらく――それこそ、右京と陽香の案内を終えて戻って来た竜禅に「どこか悪いのか?」と声を掛けられるまで、綾那はその場を動く事が出来なかった。
心配する竜禅に「いつもの発作ですから」と答えた綾那は、幸福なダメージによるふらつく足取りで、ヨロヨロと自室へ向かうのであった。




