腹を割って
オブシディアンを発ってから、どのくらい経過しただろうか。すっかり日も落ちて、空に浮かぶ光源の役割は既に太陽から月へと変わっている。
アデュレリアの領主には「領から出て行けば、文句ないのだろう」と言ったものの――移動手段が馬車しかないとくれば、どうしたって限界がある。綾那達はいまだ領内に留まったまま、本日の宿として小さな街へ立ち寄った。
屋敷に通行証を置いて来たので、領主は「右京は今後どの町村にも入れないぞ! 一人だけ野宿しろ!」と思っている頃だろうか。
しかし、右京自ら通行証を手放した事に肩透かしを食らったのか――旭らの時と違って、彼は領主から冤罪も犯罪者の濡れ衣も着せられていない。だから別の町村で新たに発行できるし、更に言えば既にアイドクレース側で二重発行されたものを所持しているので、なんの心配もない。
彼は不正をよしとしない性分で、通行証の二重発行も二重所持も、渋々了承させられたようなものだった。それも今となっては、「まさか本当に役立つなんてね」と全く気にしていない様子だ。
半獣姿で御者を務めてくれていた右京も、さすがに不特定多数の人間に姿を見せるのは気が進まないらしい。「時間逆行」をかけ直して、今は十歳男児の姿になっている。
キツネ耳の半獣姿も見応えがあって良いが、やはり綾那としてはこちらの姿の方が見慣れているので、安心する。単に、彼の『異形』が美形すぎる上、人ならざる耳や尻尾に妙な庇護欲が湧いてしまい、見ているとどうにも落ち着かなくなる――というだけかも知れないが。
「いやあ、しかし大変な一日だったな! 一日と言うべきか、二日と言うべきか分からんが――まあ、今日も無事に旨い飯が食えて良かった、良かった!」
「オネーサンって、いつも前しか見てないよね。悪い事ではないけれど、頭が軽く見える」
「一言多いんだよ!」
宿に荷物を預け終えた一行は、併設されたレストランで少し遅めの夕食をとっていた。テーブルの上に所狭しと並べられた料理に舌鼓を打って、ゆっくりとした時間が流れている。
「でも、なんつーか……後ろ見たって仕方ねえだろ? けど、あれからゼルもレオも出てこなかったし、アデュレリアの領主問題も騎士団の私物化問題も、何も解決できないまま出てきちまったな――それだけは悔いが残る。ハヤヤにはよく世話してもらったから、なんとかできれば良かったんだけどさ」
小さく肩を落とした陽香に、右京はゆるゆると首を振った。
「団長の話じゃあ、悪魔の問題は相当根深いよ。一朝一夕に解決できるくらいなら、とっくに誰かがやってる。それに――少なくとも伊織だけは、焚きつけられたんじゃないの? オネーサン達のお陰でさ」
「あー少なくとも、もかぴの件は片付いたか……主にアーニャのお陰だけどな。全く、幼気な青少年を誑かしおって――本当アーニャって教育に悪いよな」
「たっ、誑かしてないし、教育に悪くもないよ!」
唐突に貶された綾那は、小さくむせて反論する。しかし、陽香だけでなく颯月と右京もまた「いや、情操教育には相当悪いぞ」「その点は同意する」と言って頷いたため、「誠に遺憾である――」と呟いて項垂れた。
領主の息子、伊織。幼い頃に見た桃華に一目惚れして以来、十年以上変わらず彼女の事を想い続けていたらしいが――。
直接言葉を交わした今となっては、一目惚れした相手は最初から桃華ではなかったのかも知れない。桃華が育てばこうなると彼に期待させた、桃華の母親こそが初恋の相手だろう。
彼はどうも綾那を気に入ったようで、嘘か誠か分からないが、別れ際には「颯月のようになる」とまで言っていた。
綾那の宇宙一格好いい男ランキング堂々一位の見た目は、なろうと思ってなれるものではないし、中身だって休みなく働く社畜マグロである。そんな男を目指すなんて、決して楽な道程ではないだろう。
「しかしまあ、問題は颯様だな」
「問題?」
ショートパスタをフォークでぷすぷすと刺し連ねながら息を吐いた陽香に、『問題』と評された颯月が首を傾げる。
「今朝の。悪魔憑きの感情が昂ると、魔力の制御が上手く出来なくなるっていうアレ! アーニャが体張って止めなきゃ、あたしら全員颯様に殺されてたかも知らないんだろ?」
「それはさすがに言い過ぎだ。綾だけはどうにか逃がそうと考える余裕くらい残ってた」
「アーニャだけじゃ困るのよな~!」
しれっと問題発言する颯月に、陽香は胡乱な目つきをして口の中へパスタを放り込んだ。
綾那が気を逸らさなければ、危なかったかも知れない――という説明を受けた後でも、彼女が繰り出す肩パンチの威力は一切緩まなかった。しかし、綾那から進んで颯月へ求愛行動をとった理由について、一応は納得してくれているらしい。
「あんな簡単に暴発されちゃあ、命がいくつあっても足りんだろ? 後学のために聞いておくけど、一体、何がそんなに不満だった訳?」
「そんなの、あのガキ――坊ちゃんが綾に色目を使ったからに決まってる。いや、色目どころか求婚しやがった。わざわざ俺の目の前でするヤツがあるか?」
「カーッ! おいおい、そんな事で? この国じゃあ知名度ゼロとは言え、「表」のアーニャはプロのスタチューバーだぞ!」
やや大袈裟な動きで天井を仰いだ陽香に、颯月は「そんな事なんかじゃねえ、何よりも重要な事だ」と不服そうに片眉を上げた。
「しかも、男に囲まれてナンボのお色気担当大臣! 四重奏の綾那と言えば、自他ともに認める『紳士の御用達』だぞ? 着衣状態にも関わらず、写真集が初版二十万部達成なんて身内でもドン引きの偉業をもつ女なんだからな」
「ちょ、ちょっと待って、認めてない……絶対に認めてないよ」
「男が寄り付いたからってなんだよ、アーニャはそれが普通なの! だって、アイドクレース領が特殊なだけなんだろ? いちいち嫉妬してどうするよ、コイツは紳士の不躾な視線に磨かれた結果こうなったの! 紳士の本能は誰にも止められないんだから、仕方ないだろ」
「待って陽香、止まって。話を進めないで」
綾那を無視し続ける陽香が、締めくくるように「だから妬くな! 諦めて慣れろ! それがスタチューバーと付き合うという事――できないなら別れろ、分かったか!」と言い放つ。何事かを熟考していた颯月は面を上げると、キリリとやけに精悍な顔つきで口を開いた。
「いや、よく分からん。そんな事よりも、その紳士の御用達とかいう本はどこに行けば買える?」
「……お前、歪みねえな!!」
「紳士の本能は――誰にも止められんのでな」
それがまるで含蓄のある言葉のように紡ぐ颯月を見て、陽香は「てか本じゃなくて、本人がそこに居んだろ!」と吠えた。
しばらく颯月を恨めしそうに見ていた陽香だったが、やがてフーと長い息を吐き出すと、コップに入ったリンゴジュースを一気に飲み干した。そして、独り言にしては大きな声量で呟く。
「ああ~ナギと合流する前に、どうにか引き離せねえかな~!」
「オネーサンもいい加減、諦めが悪いよね。水色のお姉さんだって紫電一閃に夢中なのに、それをオネーサンの一存で引き離すなんて、無理なんじゃない?」
「それなのよなあ……まあ唯一の救いは、颯様がここぞの場面で盛大にヘタレるって事か」
ため息交じりの言葉に、颯月がぴくりと反応した。「俺がいつヘタレた」と口にすれば、まさか反論されると思っていなかったのか、陽香は不思議そうに首を傾げる。
「は? いや、今朝アーニャに色々と押し当てられた時、めちゃくちゃ困ってたじゃん」
「あれは――困っていた訳じゃない。俺はただ、この世に生を受けた喜びを噛み締めていただけだ」
「ハーン……あっそ。別にいーけど――颯様もしかしてさ、その顔と尊大な態度の割に、意外と自己評価が低い人だったりする?」
「…………」
問いかけに答えない颯月に構わず、陽香は食事を再開して、もぐもぐと咀嚼しながら続けた。
「自分から迫るのは良いけど、いざ意中の相手に迫られると「なんで俺なんかに」って、理由や裏を探るタイプとか? 意外と慎重派というか……根っこはメチャクチャ奥手で、色々と拗らせてる感じする――おい、颯様?」
颯月があまりに無反応なので、陽香は食事の手を止めて顔を上げた。彼は困っているのか不満なのか、なんとも形容しがたい複雑な顔をしている。
しかし陽香と目が合った途端に眉根を寄せると、いきなり隣に座る綾那を抱き締めた。
食事中だった綾那は、突然の事にグッと喉を詰まらせて咳込んだ。見ている目の前でそんな事をされた陽香もまた、「オイ、こら!」と眦を吊り上げる。
そんな二人に構わず、颯月はむせる綾那の髪の毛に顔を埋めると、小さく息を吐き出した。
「綾、陽香がいじめる。正妃サマそっくりな顔で、頼んでもいないのに、まるで正妃サマみたいな心理分析をしてくる……泣きそうだ」
酷く弱った声色を耳にした綾那は、咳が落ち着くと彼の背中に手を回して、ぽんぽんと宥めるように叩いた。そして、颯月越しにじっとりとこちらを見やる陽香に向かって、へらりと笑う。
「陽香、あまり怖がらせないであげて……颯月さんが可哀相」
「はあ? 怖がらせるような要素あったか? 今」
「ああ、あった――アンタの顔と見た目と雰囲気が怖い」
「それ、改善の余地なくねえか!? うーたん、あたしってそんなに怖い?」
いきなり水を向けられた右京もまた、グッと小さくむせてから「何、突然――」と胡乱な目を向けた。そしてまじまじと陽香を観察したのち、首を傾げる。
「別に――今日も十四歳くらいの女の子にしか見えないけど? お願いだから、お酒は飲もうとしないでね。絶対に止められる」
「そういう話じゃねえし、お前のそれが一番失礼だからな!!」
陽香は悔しげにギリギリと歯噛みしたが、ふと右京の皿の上に大事そうに取り分けられた唐揚げの存在に気付くと、目にも留まらぬ速さでフォークを突き刺して、己の口に運んだ。
右京の口から「僕のお肉!」と悲痛な叫びが漏れたが、陽香はもぐもぐごくんと飲み下すと「大人をバカにするからだ!」と言って右京の頭の上に肘を置く。
どうやら、本来の――二十五歳の右京を見た後でも、彼女は子供右京との接し方を変えるつもりがないらしい。陽香は右京に体重をかけて「重い」と抗議されつつも、改めて、いまだ綾那にくっついたままの颯月を見やった。
「なあ、颯様ってもしかして、根本的に女嫌いなの? アーニャ以外とは、な~んか妙な距離があるっつーか――その割に婚約者が二十四人て、意味が分からんけど」
陽香の問いかけに、颯月は深いため息とともに顔を上げた。
「ちょうどいい、アンタらとも腹を割って話さなきゃならんとは思ってた。特に陽香は、何かの拍子に骨になられると困るからな」
「……骨?」
神妙な顔つきで話す颯月に、陽香と右京は揃って首を傾げた。