第24話 少女の心情
「ふあぁ……なんか眠くなっちゃったなぁ」
朝日教室の窓から差し込むせいで彼女、入山菜乃花は睡魔に襲われた。今日はおそらく、いつもと変わらないただの1日。ただそれが菜乃花にとって何とも愛おしく安らかな時間だった。
以前に幽体離脱した時の恐怖や不安が彼女にはまだ残っている。だからこそ、この平和で何も無い日常が素晴らしいと感じられるのだ。
ふと外を見ていると、菜乃花は空を舞っている翼の生えた猫の召喚獣ヴァーレが目に飛び込んできた。
「優人君かな?……今度この猫ちゃんモフらせてもらおうかな」
彼女が幽体離脱後に大きく変わったことは主に2つだ。
1つは霊能力である。彼女の霊力は普通の人と変わらなくわずかしかないが、幽体離脱をしてから霊や術を集中すれば視認することができるようになった。
なので夜道を歩く時は悪霊を見てしまうことがあり、それだけ少し困っている。
──もう1つは、友人が増えたことだ。彼女はこの学校に通う生徒の大半の人達とは中学が別であった。この学校の生徒は三用中から来た生徒が多いが、彼女はここからもう少し離れた中学校出身校だった。
そのためクラスでは少し話す程度の友人が3人ほどいたものの、今まではあまり深く関わることはなかった。
しかし彼らと出会い菜乃花は優人と零人とよく話をする間柄となった。最近では優人の繋がりで同じクラスの香菜とも仲良くなり、教室では香菜と一緒にいることが多くなった。
毎日が刺激的になった彼女は2人のことを恩人と思うようになった。ただ優人と零人はどちらも恩人であり、友人であることに変わりないのだが──どうも零人には違うような感覚がある。
何とも言えない違和感である。本人はこれがなんなのか分からない。言葉や文にもできなければ、自分の心に聞いても理解ができない。
その違和感がなんなのかは分からないが、彼とは接する中で違和感の正体を見つけようと思っている。だが不思議と、彼と接している時の方が更に分からなくなる。
「はぁ、なんかモヤッとしちゃうんだよね〜」
──この日の昼、菜乃花は屋上へと向かう。最近は優人達のように菜乃花は屋上で香菜と一緒に昼を食べるのだ。
「なっちゃん屋上行こ〜」
「うんっ」
香菜は菜乃花にとって一番仲の良い女子で、頼りがいがある一方で優人のことになると照れて可愛くなる乙女な部分にひかれていた。香菜もお淑やかで何かと面倒見の良い菜乃花と一緒にいて落ち着くところがあった。
「あ、香菜ちゃ〜ん、菜乃花ちゃ〜ん!」
「あっ優人君、どうしたの?」
廊下を走ってきた優人息を切らしながらも急いで説明をしていた。
「今日学校にたぬきの妖怪が出たみたいなの。その妖怪は頭良くて、化けたり誰かのフリをしちゃうんだって。その妖怪を捕まえるから、おかしい人がいたらメールで教えてって零人君が」
「うん、分かった。香菜ちゃんはどうする?」
菜乃花は一応香菜や零人の立場や関係性を知っていたため聞いてみた。
「──私はいいよ、この2人ならすぐ捕まえられるだろうし心配ない。それに私はお昼食べながら菜乃花ちゃんを守らないと!」
『わお、香菜ちゃんカッコ良い〜!』
優人と菜乃花は無意識に言った言葉がハモった。
そしてこれは香菜自身の成長でもあった。香菜は今まで優人を守るためにと悪霊達と幾度も戦い、その過程で色々なものを背負ってきた。
だが零人が来たことと優人の成長は香菜にとって良いことだったのかもしれない。1人の人間を守るということはそういうことだ……
要件が終わると優人は廊下を走り抜ける。少し長めの廊下ではあるがあっという間にいなくなってしまう。
「じゃ、屋上いこっ」
「うんっ!」
そう言って2人は屋上へ向かおうとしたが、優人が去ってから数秒もしない内に止められた。
「あ、そこの2人〜!」
「れ、零人君!?」
零人は到着すると荒く呼吸をして脇腹を抑えた。さっきの優人は少し息を切らす程度だったが、こっちはフルマラソンの後のように疲れ切っていた。
「あ、さっき優人君から聞いたよ。それっぽい人がいたら教えるね」
「お?あ、あぁそうか……助かった」
話の内容を先読みされ、一瞬戸惑ったがすぐに理解した零人は軽く呟いた。
「なんだよ優崎、伝えたんなら教えてくれよ。あいつはいつもこうだから大変なんだよ。使えねぇ……」
「結構優人君って焦ると色々忘れちゃうタイプだからね」
そして、あとを追うように零人は優人の行った方向に向かうとする。香菜は優人のことを言われて少し機嫌が悪くなった様子だ。
「ま、そういうことだから──」
そのまま零人は廊下の向こうとしたが、菜乃花は少しだけ彼を引き止めた。
「あ、零人君ちょっと待って……」
「ん?なん──」
菜乃花は零人に近づくとその無防備だった胴体に膝蹴りを食らわせた。
「かはっ!」
「え!? なっちゃん何を……」
香菜はその光景に驚いた。菜乃花が零人を蹴るなど思ってもいなかった上、菜乃花の蹴りは全くの容赦がなかった。
しかしそれ以上に香菜は菜乃花の冷徹な表情を見てギョッとした。静かに燃えるその怒り、獲物を狙うような眼光は闇夜に光る豹の目だった。
「零人君が敵を探すためにただ走っただけで疲れてた時点でおかしいと思ったけどね……優人君にそんなこと言うはずないましてや、こんな悪口みたいに──」
『アギュ!?』
菜乃花はもう一蹴り、今度は顎を狙い脚を振り抜いた。狸は今の一撃で脳震盪を起こしたらしく、フラフラとしながら白目を剥いた。
「まぁ、そもそも本当の零人君ならこれも多分防げるよね。──零人君の姿で優人君の悪口をいうんじゃない……」
菜乃花が人生において、初めて本気でキレた瞬間だった。彼女の目からはハイライトが消える。
すると煙で零人の体は消滅し、小さく醜い狸が現れた。
今の蹴りでダメージはあるようだがまだ動ける体力はあるようだった。
「嘘……霊力の感じとかも似せてたんだ。本体はかなり弱そうだし霊力も少ないけど──あっ、だから零人君も探すのに手こずってたわけか」
正体がバレた上に2発も蹴りを食らった狸は怒り心頭であった。獣なりのプライドを汚した菜乃花に向かい、狸は短い脚で飛翔した。
手を変化させ、悪魔のような鋭い爪にかえて菜乃花に遅いかかろうとする。
『ぎゅいぃぎいぃぃ!!』
爪で菜乃花の顔を引き裂こうとする畜生。菜乃花はその動きに反応し切れない。香菜は死神の大鎌を取り出そうとした時、獣は唐突に断末魔を上げた。
『あぎゃあ──』
狸はどこからともなく飛んで来た黒刀によって心臓を刺される。香菜は取り出した大鎌を持って苦笑いしてしまった。
「アハハ、先こされちゃったかぁ」
狸は胴体を綺麗に貫かれたと同時に消えていく。すると廊下の空いている窓から零人が飛び込んでくると2人の前でスっと着地をした。そして安心したような表情を浮かべる。
「間に会った……2人共、怪我なさそうだな。西源寺が見つけてくれたのか?」
先の偽物と違い、言葉の端々からは優しさを感じた。本人と対話すると香菜は菜乃花の洞察力の鋭さに驚いた。
「いやいや〜、なっちゃんのおかげだよぉ。真神君に化けてた狸を偽物ってすぐ見抜いたよ。分かったあとは、なっちゃんがすごい膝蹴りを決めてたよ〜」
「わっ、ちょっ香菜ちゃん!」
「入山さんが? それすげぇな……膝蹴り」
零人が膝蹴りとボソッと言うと菜乃花は恥ずかしそうに顔を赤らめる。零人は全くそれに気が付かずに、率直な礼を言う。
「──入山さん、ありがとう。おかげで助かったよ」
「〜っ!!」
優しく包み込むような言葉で褒められた菜乃花は嬉しさもあり、顔が炎のように真っ赤になる。今にも声にならない叫びが出そうになるのを必死に堪えた。
それを見ていた香菜は面白そうな目で2人を見た。香菜は菜乃花の反応でだいたいの察しがつく。
(ふーん、そういうことか。零人君もずいぶんと純粋だな〜。優人から少し影響でも受けたのかな?)
確かに優人と接することで零人にも優人のようなピュアが少しではあるが移っているようだ。
しかし香菜は自分自身が1番優人の影響を受けていることを知らない。プラスして彼女本来の天然さもあるので場合によれば優人とはイーブンと言った具合だ。
「そうだ、この後は優崎と屋上行くんだが2人もどう?」
「あ、うんっ!」
「ウチらも行くよー」
──この日4人で食べた昼食はいつもよりも美味だった、他愛のない話がとても楽しかった、これが日常の一コマとなることが非常に嬉しかった。
そしてその4人に零人がいるという事実は言葉にするのがやっとなぐらいの嬉しさだった。
(あぁ、楽しいな……)
このかけがえのない瞬間を大切に感じながら菜乃花は感じていた。そしてふと、こんなことを思う。
(いつか、零人君と2人でこうやって一緒にお昼食べたいな……あっ)
「うおっと!?」
「風だぁ」
巻き上げるような風が吹いて、青い植物の葉が何枚か空へ舞う。舞って行った先にあったのは薄く白い雲のかかる青空とこの屋上から見える上葉町の街並だった。
菜乃花にはその数秒間だけ意味もなく一瞬が長く感じ、とても静かになった。静止画のようにその風景が目に飛び込んで来ると、再び風が吹く。止まった時計の針がまた進み始めたように音が戻ってくる。
「あれ、なっちゃんどうしたの?」
「…………」
「ん?」
「あっ、ごめんね。何でもないよ」
「本当に?」
「うん、大丈夫だよ」
そして菜乃花は再び街の方を見ると、青い葉はまだ舞っていた。それで彼女は、自分の感じていた違和感の正体にようやく気がついた。
変わったことでもなければ難しいことでもなかった。だが知る時は本当に突然……予期せぬ瞬間にその答え合わせがされるものだ。
菜乃花は少し意地悪な自分の心に向かって、フフっと笑いかける。
そしてまた、楽しそうに話している3人を見る。すると自然に零人へ視線が向いた。零人が笑う姿がとても──愛おしく感じた。
(なんだ……これが恋なんだ)
少しだけ心臓がキュッとなる感覚の余韻に菜乃花は浸った。





