第31話 呪詛顕現
感覚が消えていく。視覚だけが残っている。左腕を失った事実と迫り来る死だけを知覚している。
負けた、もうこれでお終いだと優人の頭は埋まっていた。
そんな中、炎を吐き出そうと口を開けた龍の前で、優人は浮いたまま静止していた。
「なんで……周りが?」
目を周囲に向けると、状況の異変にすぐ気が付いた。大きく舞った砂埃は停滞し、自分の体には重力がかかっている感覚が一つも無い。
加えて、火球を口の中に留めて固まっている眼前の紅龍が、決定的な証拠となった。
「時間が、止まってる」
世界の全てが、停止していた。その様子を優人だけが眺める事が出来ている。
身体は少しも動かせない。目を動かすことが精一杯。しかし優人の意識だけはハッキリしていた。痛みは引いて、頭の中は鮮明になる。
「これって……!」
似たような経験を瞬間的に優人は思い出した。それはArthur教団員による2度目の異界襲撃事件の際。
魔獣に不意を突かれた時、一瞬だけ相手が静止した瞬間があった。その時は他の比較対象もなかった為、気にも止めていなかった。
しかし今となっては分かる。この現象があの時に体験したものと同じであると。
あれが、この時間停止の力の片鱗であったのだと。
死の直前に知り得たこの事実を踏まえ、優人の脳にはあることが過ぎる。
「まだ今は、負けてないんだ」
そんな自覚だけが優人の中に現れる。
しかし今となっては何も出来ない。肉体を動かすことは出来ず、回避は不可能。防御や反撃にしても、余力はない。
死という終わりに猶予が与えられ、先延ばしに乗じて絶望が主張しに来たのだと。
だが思考していると、優人は自分である疑問を感じた。
「──? なんで僕、諦めてるんだろう」
普通であれば、当然の思考だ。実力差と状況を鑑みて、諦めや絶望を抱くのはごくごく普通の感覚だ。
だが優人はここで、新たな答えに至ったのだった。
「そうだ、そうじゃん、そうだよ。だから僕は、中途半端だったんだ」
今までの思考を全て吹っ切って、今までの自分にあった問題とその解答を同時に得る。
それが分かった瞬間に心は僅かばかり軽くなって、スッキリとした気持ちが顔を出した。
「僕はいつも、逃げようとしてた。戦ってても、僕の心は逃げてばっかりだった」
始まりの時から、自分にあったその気持ちを優人は理解する。
「悪霊を怖いと思うほど、呪いで倒せた。でもそれって戦ってたんじゃない。逃げられる為に倒してたんだ」
過去の戦闘の映像が、走馬灯の如く一気に頭の中で投写される。呪いを発動した時、悪霊や魔獣を前にした時、敵を倒した時の記憶。
「勘違いだったんだね、僕の。たまたま呪術式があったから、霊力が多かったから、零人君に……認めてもらえたから」
今まで映っていたのは目の前の敵と自分、そして目指した零人だけ。
考える余裕も無く、意識さえして来なかった。周りの人間、同じ志しを持った仲間たち。
自分以外の、悪霊や魔獣に挑み続ける能力者達。
「みんなは、もっと危険な思いをしてる。僕みたいにズルした戦い方じゃなくて、本当の意味でいつも、恐怖と戦ってる」
純粋な恐怖心を力として行使していた優人にとって、ある意味味わったことの無い感覚だった。
戦いの術を持っていようと、恐怖心が仇となることを。
「何度も怖さに打ち勝って、痛みも沢山味わって、それで皆は立派な能力者になってた」
出会ってきた能力者達の顔が次々に浮かんでは消える。その全員が、覚悟を決めた顔で敵に立ち向かっていた光景が、これ以上になく頭の中で再生される。
──優人の頭に映像が巡る最中、ふつふつと湧き上がるものがあった。
「生き返れるかとか、再生能力があるかないかは関係ない。命をかけて、死ぬ気で皆は戦ってた。僕とは、覚悟のレベルが全然違ってたんだね」
覚悟の違い。その認識が優人の中で強く鮮烈になっていくと共に、枯れかけた筈の霊力は優人の体に漲り始める。
「大罪の能力者のみんなだって、きっとそうだよ。僕は、7つの大罪を目指すってことをちゃんと分かってなかったんだ」
大切な友人たちの顔が1人づつ脳裏に浮かぶ。彼らの顔を思い出すにつれて、霊力はやがて優人の体を循環し出した。
霊力回路の綻んだ場所でさえも、霊力は流れて回り始める。
「それなら僕は、全力をかける。後のことや、生きて帰ることも、全部忘れる」
優人の決意は霊魂に眠る力を呼び覚ましていく。
霊力は膨張し、増大し、成長し、爆発的に魂から生み出されて激流が発生する。
増長するエネルギーは優人に奇跡を与え、全身に力を送り込み、残された右の拳を硬く握らせた。
「怖がる心を持って、前に。退こうとしてる力と気持ちも、全部前に押し出す!」
停止した世界の中、優人の霊力だけが蠢いていた。霊力は以前の優人の最大霊力量とうに超え、許容量を拡張しながら優人の全身を満たしていく。
そして霊力は溢れ、肉体から染み出し黒に変貌する。魂に刻まれた術式はより濃く、より凶悪で、より強いビジョンを持った呪いを顕現させる。
「死んだとしても、残った力と使い切って必ず勝つ。だって僕は」
死をも厭わない覚悟を目に宿し、優人は右手を眼前の龍へと向ける。
掌の一点に呪詛を収縮し、勝利を求める少年は叫んだ。
「霊能力者の、優崎優人だからッ!」
──優人の叫びを合図に世界は時間を取り戻す。
紅龍は炎の息吹を放つべく口を大きく開いた。しかしその時、紅龍はかつてない未知の恐怖を一瞬にして抱く。
全身全霊をかけた少年の渇望に、封印を解いた呪術式は花開いた。
「黒奇歪界ッ!!」
優人の手から漆黒に輝く、呪いの爆発が放出された。
膨大に発生した優人の霊力は、解放すると同等の威力を呪いに込めて放つ。空前絶後の大爆発は巨大な紅龍の全身をも飲み込み、構えていた火炎さえも吹き飛ばした。
その威力を全身に浴び、紅龍の高密度だった霊力は大幅に削られていた。龍は無防備で真正面から呪いを喰らい、あまりの衝撃に白目を剥いた。
『ガッ……!!』
想像を絶するダメージ、霊力で構成された身体の大きな損傷。紅龍は生まれて初めて、痛みを感じた。
だが優人の攻撃はこれだけに留まらなかった。
『再生が、出来ぬ──』
爆発を引き起こした呪い。それは紅龍の全身に直撃すると同時に、奴の身体を蝕んでいた。
霊力の層を次から次に侵食し、龍の再生を上回る速度で拡張し、喰らい続けていた。
攻撃を食らって口を開けたままだった紅龍。優人は隙だらけになった魔獣へ畳み掛ける。
「状態変化、ロープ!」
優人の心臓部から細長い呪いの紐が伸び、紐の先端が龍の喉へと突き刺さる。すると紐は巻取られ、優人は紅龍の体内へと潜っていった。
喉の奥に優人が侵入してから間もなく、龍の身体は何度も内部から衝撃を受け、ジグザグに折れ曲がっていった。
体内で優人は飛び跳ね回り、尾に向かいながら呪いの打撃を撃ち込み続ける。
『アガガ……!!』
中から突き抜ける衝撃波に身を揺さぶられ、紅龍は優人に翻弄される。
この地下で王として君臨していたが故、龍にとって戦闘とは一方的な暴力。甚大なダメージを負ったままの反撃など、行うことは出来なかった。
一方、龍の腹の中で暴れ回った優人は、尾に近付いたと判断すると、指を鳴らして魔術を発動する。
「──錬金術」
年季を帯びた霊力の上を若く膂力のある霊力が疾走する。
消化器官もなく、空洞のようだった龍の腸の霊力は変換され、巨大な無数の棘が紅龍の腹を貫通して露になった。
錬金術で生成した棘は鮮やかな宝石類で構築されている。出現した超質量の物質は、霊力を直接流して呪いが流れ出す。
喘ぎ苦しむ龍は身を捩っては霊力を呪いに食われ、管の如き身体が細くなりつつあった。
しかし優崎優人はこの期を逃しはしない。
「幻想刀」
回転する深緑の斬撃が龍の体を上ってくる。
呪いの黒き斬撃を纏うエメラルドの刃。凶刃はいとも容易く魔獣の身を斬り、龍を尾から輪切りにしていった。
片手で刀を振って己の体を這い上がる優人に、紅龍は反撃の余地がなかった。
『畜生めがッ……!』
苦悶の表情を浮かべると、紅龍は激痛を覚悟し己の爪で胴を切り離した。
腕から上だけの最小限の肉体となった紅龍は、何の策も無しに地下空間の天井へ向かって逃げ出す。
断面から霊力は蒸発し、みっともない様になった龍は一人の人間に畏怖していた。
その恐怖が、紅龍の奥底に眠っていた古の記憶を呼び起こす。
『この気配、忘れもせん。これはし──』
紅龍の思考が現実と過去とで入り乱れていた最中、彼はハッと優人の存在を思い出した。
『ッ!!』
振り返った先には、龍目掛けて一直線に飛んでくる優人の姿があった。
金色の鬣と翼を生やした優人が凄まじい速度で龍を追う。
優人は飛びながら胸に手を当て、愛すべき己の式神に感謝の言葉を伝えた。
「ありがとう、ヴァーレ」
軌道に乗り、十分な加速を得た優人は憑依を解除し、生身の姿へ戻る。
身を守る事さえ止めた紅龍は困惑した。自分が与える立場であると思っていたものが、与えられる立場であったことに。
自分が、狩られる側に立っていたことに、驚きを隠せなかった。
残る全ての霊力をかき集め、優人は握り締めた拳に最後の力を振り絞る。彼の意思に乗じ、呪いは拳へと収束していった。
(零人君から、もらった技──!)
親友から、相棒から、世界最強から託された打撃技。優崎優人が霊能力者として開花した証である、その技の名を高々に叫ぶ。
「カーズ・デスティネーション!!」
呪拳は霊力の爆破と共に龍へ放たれた。漆黒の閃光が地下空間全体に走り、衝撃波の轟音が轟く。
紅龍は優崎優人の呪いに敗れ、星屑となって砕かれ葬られる。





