プロローグ
優崎優人は逃げ惑う。
誰もいる筈のない夜中の墓地を彼はひたすら駆けた。脇目も振らずただ一心に。
街の一角に建つこじんまりとした寺の墓地。午後六時を回ったばかりにも関わらず、異様な静けさと不穏な暗闇が一帯を覆う。
優人は泣きじゃくりながらただ走った。羽織った青パーカーには涙と跳ねた泥汚れが飛んでいる。
「た、たすけ……うッ!」
極限状態が続き集中力を削がれていた所、彼の足はぬかるみに取られ転倒した。精神が限界まで追い込まれた結果、優人はボロボロと大粒の涙を零す。
恐怖心に支配される中、優人は「いなくなっていて」と何度も縋るように言葉を吐き出す。
しかしその願いは虚しく、人の形をした異形なる存在が無数に彼の元へ這い寄る。
『ア、アアァ……』
自我を失って尚迫り来るその者達はまさに亡者であった。闇夜に溶けない黒霧で体を包み、蒼炎を灯した瞳で生者を捉える『悪霊』。
それは負の感情に飲まれ自我を失った死者の霊だ。
その悪霊の群れを前にし、優人は抵抗さえままならずその場へ蹲った。耳と目を塞いでただ慄く。
「怖い、怖いよぉ。お願い、お願い、お願い。助けて、助けて、助けて──」
無垢で無力な少年に反撃の手段などない。泥水で汚れた薄黄の髪は小刻みに震える。
何故なら自分の身にこれから何が起こるのかさえ優人は理解していないのだから。
「嫌だ、死にたくない。助けて、お願いします。お願い、します」
通じる筈のない命乞いをそれでも優人は続けた。合掌し必死に経を唱えて彼らの除霊を試みるも、悪霊の進行は止まらない。
「なんで、なんで消えないのぉ」
袋の鼠になっただけで一向に状況は変わらない。そんな一部始終を傍観する者がいた。
「妙だな、普通なら多少の除霊効果が出てる筈なんだが」
ビル三階分の高さに相当する虚空にて展開された魔法陣。その上に立って場を見下ろす蒼眼の青年が一人、眉をひそめて事態を分析する。
青年が優人を見つめて悠長に長考していると、その間に寺の屋根をよじ登った悪霊が彼の背後を取っていた。
死角を取った瞬間、悪霊はノミのような跳躍で無防備な彼に飛びかかる。
「あー、おまえ邪魔」
接近する悪霊の指先が青年の肩に触れようとした寸前、その頭蓋が内部から爆ぜて後方へ弾かれる。頭部の吹き飛んだ悪霊は程なくして霧散化し、完全に消失した。
青年は悪霊に対し最後まで無関心であったが、上空から迫りつつある気配を察知して不意に舌打ちする。
「……引き寄せられたか、まあこんぐらい悪霊がいんなら仕方ねぇか」
東の空より向かって来るそれは無数の翼と角を生やした虎の群れだ。ツノが脚や背中など全身の至る場所で無作為に突起し、その図体に見合わない貧相な翼を生やした奇怪な獣達。
その生物として有り得ない構造を持つ存在、『魔獣』共が悪霊達を認識して集いつつあった。
だがそれでも青年は一切危機感を抱かない。ただ不満そうな声を漏らさせただけ。
「なんだ低級魔獣じゃねぇか。弱ぇけどあれじゃ指導には使えねぇな」
愚痴を垂れ流して首をグルっと回すと、彼は魔獣の群れへ右手の掌を見せる。
次の瞬間、黒い稲光を伴って魔法陣が展開された。手に浮かび上がった魔法陣は回転を始め、光の残像が円を描くほどまでに加速する。
「貫厳腐槍」
その言葉を口にする共に一筋の黒い雷光が射出された。
群れの中を雷光が突き抜けた直後、花火のような爆撃が魔獣共を襲う。雷と爆風を受けた魔獣は肉が瞬く間に腐り崩れて塵と化した。
「試作の魔術だったが、精度も効果もイマイチだな。効率的にも制圧にゃ使えねぇ。ボツだこれ」
全くの被害も出さずに魔獣達を屠ろうとも、彼は不満げに溜息をつく。そして墓場に目線を戻しても尚変わっていない状況が、更に青年の気分を沈めた。
「なんで除霊すら出来ねぇんだ?」
「こっちが聞きたいよ! ほら、僕はこの通り除霊ができないから早く助けて」
「仕方ないか……良い霊能力者の卵を見つけたと思ったんだが、こいつは想定外だったな」
こうして話している間にも悪霊達は足を止めず、ついにその中の一体が優人目掛けて飛び付いる。
彼への期待を諦め青年がこの場の悪霊を一掃しようと魔術を発動しかけた。その時だった。
泣き叫ぶ優人の身体から、その号哭に呼応するように黒煙が放出された。
少年の小さな肉体から解き放たれた黒煙は集約して一つの拳を形作り、黒拳を成す。拳は硬く、霊力を帯び、手首のみが自律して浮遊している。
黒拳は形成されるや間髪入れず撃ち放たれ、接近した悪霊の顔面を一つ殴り飛ばした。