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第8話  西暦1914(大正三)年 十一月 其の一 

 

 大学の授業が終わり、僕はいつものように寄り道もせず椿荘に帰る。

 この数か月でようやく自分の居場所だと自覚できるようになってきた。

 辰巳夫妻に帰宅の挨拶を済ませてから応接間を覗くと、いつもの場所に椿様。

 そしてその向かいにはアンジュではなく三十代半ばぐらいだと思える男性が腰掛けていた。

 ここでお世話になって以来初めて見る客人に対して、僕自身としてはどのような挨拶すべきなのかと、一瞬躊躇していると、椿様が笑顔で僕を手招きする。


「……健次郎さん、おかえりなさい!」


 上機嫌なのは一目で察することが出来た。

 この男性がそうさせたのだろうか?

 そういう仲だったりするのだろうか?

 やっぱり大人の男性じゃないと釣り合わないのだろうか? 


「はい、……ただいま戻りました」


 何となく気分が落ち込み、元気のない挨拶を返してしまう。


「……では私はこれぐらいで失礼します」


 男性はこちらを一瞥して軽く口元を歪めると、目の前の椿様に会釈して立ち上がる。そして何もできずにポカンと間抜け面を晒している僕の近くまで寄ってきた。

 そんな後姿に椿様が声を掛ける。


「採掘権に関してはまだ時間的に二、三年の余裕があるはずです。今はまだ先方さんが必要とするであろう含有数値や土地情報の(たぐい)の報告書さえ準備しておけば十分です」


 彼に向けられた笑みはいつもより余所余所しいもの。

 声も少し硬いように感じられた。 


「……了解致しました。確かにそうお伝えておきます。……それでは」


 神妙な顔で深々と頭を下げる男性。

 しかしすぐにこちらに振り返ると一転、笑顔で僕の肩をパンパンと叩き無言で家の外を指差した。


「こちらの本庄君、そこまでお借りしますね?」


 それだけ伝えると返事も待たず、突っ立っている僕の腕を引っぱるようにして外へと誘いだした。


「どうぞ、ご自由に。ですが早めに返して下さいね。……健次郎さん、いってらっしゃい」


 にこやかに手を振る椿様に見送られ、僕はまた屋敷の外まで引き返すことになった。




「おやおや、お出かけですか?」


 屋敷のすぐ外にはまだ辰巳さんがいた。

 何故かあのお使い以降、急に優しくなった。

 険のある視線がなくなり、全体的に穏やかな表情を見せる。

 ここの住人として認めて貰えた、という感覚に近い。

 奥様も徐々に怯えなくなったのも嬉しい変化だった。


「いえ、ちょっとそこまで……」


「そうですか、お気をつけて」


 言葉を濁す僕にもイヤな顔一つせず丁寧な辰巳さんだけれど、何故か先を歩く男性には声もかけず含むような薄い笑みを見せるだけだった。

 居候でしかない僕に対してこんなにも礼儀正しい彼が、明らかに僕よりも格上の彼に頭すら下げない。

 だけどそれに対して前を行く彼は全く気にも留めないのだ。

 僕たちは屋敷の外に出るまで何の会話もなく淡々と歩く。

 門をくぐると、男性はようやくこちらを振り返り、先程のような笑顔を見せた。


「そういえば自己紹介がまだだったか。……はじめまして、辰巳幸四郎(こうしろう)だ。さっきすれ違った()()の息子だな。いつも両親が世話になっている」


 そういって幸四郎氏は軽く頭を下げる。こちらこそ、と僕もそれに応じた。

 これで納得できた。息子だから頭を下げる必要がなかったのだ。


「いやいや、別にそんな世間話をしたくて君を呼び出した訳じゃないんだった。……その、なんだ。今回の一件、お手柄だったな」


「……え? 何のことですか? 僕、別に何もしていませんが……」

 

 いきなりそんなことを言われても、さっぱり見当もつかない。

 第一、手柄なんて今までの人生で一度も上げたことなんてない。

 そんな考えが顔に出ていたのか、幸四郎氏は声をあげて笑った。


「例の大正ねずみ小僧の一件だよ。……まぁ、確かに君自身は何もしていないな。こちらへ指示を出したのは椿様だし、詳しい報告をしたのはアンジュだからね。……だがこの一件に椿様を巻き込んだこと。()()()()が君の手柄だ。おかげで、銀行は莫大な利益を上げることができる見込みだ」


 ……何だろう、それは。

 褒められているのか、けなされているのか分からない。

 もし褒められているのだとしても全然嬉しくない。

 そもそも君自身何もしていない、ってはっきり言われているし。

 話の筋も読めない。


「そりゃそうだよな。いきなりそんなこと言われても困るよな。でも今から説明するには時間がないし、あったとしても……ちょっと面倒だしなぁ。それに折角の椿様の見せ場を取る訳にはいかないだろう? ……な?」


 そんな感じで一人で納得して楽しそうに僕の肩を叩く。

 ――今度を強めにバンバンと。

 物凄く馴れ馴れしい。……ちょっと不愉快だった。

 幸四郎氏はフッと息を吐き少しだけ真顔になる。

 

「……今言えることは、君や私のような庶民が千人集まって一生馬車馬のように働いても稼ぎきれないような額を、銀行は右から左へ流すという作業だけで稼ぎ出せそうな目処が立ったということぐらいか。……たった一か月でね。……真面目に汗して働くなんて気失せるよな」


 彼は呆れたように呟き天を仰ぐ。


「それはまた、凄いですね……」


 僕も同じように空を見上げ呟くことしかできなかった。

 お金がたくさんあるところにお金が集まるという話は聞いたことがあるが、実際にそういう話を聞かされると、どこか別の世界のことのように思える。

 

「……今や銀行の中で君の存在価値はウナギ登りだ。椿様の兄上であられる橘頭取も大層喜ばれている。これから君が大学を卒業するまでの学費及び椿荘での生活費、それら全てを暁銀行で負担することが重役会議で決定したよ。もう即決だ。わずかではあるが毎月のお小遣いも出すという話になっている。……すごいね、特別待遇だ。本当にうらやましい」


 僕にそんな資格はないです、と断ったが、彼はその言葉を聞いた途端、機嫌を悪くして眉間に皺を寄せる。

 

「君は断れる身分ではないはずだ。確かに銀行からしたら痛くも痒くもない金額だが、それでも()()庶民からすれば十分大金だ。この額よりもはるかに少ない額を求めて人は殺し合いをしているんだからね」


 幸四郎氏は真剣そのものの表情で、理路整然と僕を斬る。

 浮世離れした面々の椿荘の人間と違って彼は()()()()感覚を持っているように思えた。そして僕もその環境に甘え切っていたのだと思い知らされる。

 それをちゃんと指摘してくれた彼を見直した。

 思っていたよりも立派な人だったようだ。


「すまない。そんな話をしたい訳ではないんだ。君自身が割に合わない過分なお金をもらうことに抵抗を覚えることには十分理解するし、迷うことなく断ることが出来るのは君の美徳ですらあるだろう。しかし、そもそも君は生活諸々を宮原家に依存している身分だということを忘れないことだ。そんな偉そうなことは自分の足で立ってからいうこと。どうしてもそれだけは伝えたかった」


「……はい」


 僕は彼の顔を見て頷いた。

 幸四郎氏も頷くと表情を緩める。

 

「気にすることはないと思うよ。別に俺のお金という訳でもないしね。実際君には価値があるんだ。椿様に気に入られたという、ね。……実は今日来た目的も君の顔が見たかったというのもあってね。厳密にいえば君を前にした椿姫の、かな。……これからも()()調()()で上手くやってくれよ」


 彼は言いたいことは言ったのか、手を振り大通りへと歩き去っていった。




 自室で荷物を下ろしてから応接間に戻ると、先程姿を見せなかった人間がちゃっかりと来客用ソファに座っていた。


「遅いぞ、けんジロー」


 ここの主であるかのように大きい態度で出迎えたのはアンジュだ。

 本当の主である椿様は台所で紅茶の準備をしているようだった。

 テーブルの上にはカステラが三人分用意されており、当然のようにアンジュの分だけ僕たちの倍ぐらいの量で切られている。


「キミどうでもいいけれど、さっきまでどこに居たの?」


 僕もいつもの席に着いて、今まで姿を見せていなかったことを問う。


「……ずっと部屋にいタ。お客さんが来てタからここに座れないシナ」


 そういって今座っているソファをポンポンと叩いた。

 いや、お客様が来ていたら主人の代わりに、おもてなしをするのがアンジュの仕事だろうに。

 座る場所がないという理由で部屋に引き篭もるという発想が女中として常識外れだと思うけれど、こればっかりは椿様が甘やかし過ぎたということだろう。


「はい、おまたせ。熱いから気をつけてね。……こちらのカステラはさっき頂いたのよ」


 いつにも増して、とびきり笑顔を見せる椿様。

 ここで住むようになってまだ数か月と、日は浅いがこの笑顔は何か特別なモノのように感じた。

 嬉しくて仕方ない、楽しくて仕方ない、と表情がそう言っていた。

 先程幸四郎氏から聞いた話がその理由なのだろうと僕にも簡単に推測できる。

 

「あの、さっき辰巳さんの息子の幸四郎さんから伺ったのですが、何か凄く儲かったそうですね?」


「うん、そうなの! ……聞きたい?」


 質問の形だが、話したくてうずうずしているのが手に取るようにわかる。自慢したくてしょうがない幼子を見ているようで何だか微笑ましかった。


「はい。是非お願いします」


 僕は椿様が望むとおりの返事をして、向き直った。 



 椿様は先ほどの緩みきった笑顔を隠すようにコホンと咳払いし、真顔に戻した。


「……そうね、まずは健次郎君が気にしていた横浜の造船所の今後ですけれど。結論から言いますと造船所は無事倒産を免れました。これからは暁銀行の関連子会社として存続することになります。資材等の仕入れ金や融資を受けていた銀行への返済も銀行で全額肩代わりすることになりました」


 本当によかった。

 この事件のせいで倒産していたら、あまりにも後味が悪すぎた。


「さらに現在制作中の新型貨物船をいち早く完成させる為、金銭に留まらず人員資材調達など銀行に出来得る最大限の援助をすることも決まりました。……設計図を盗んだ者たちよりも早く完成させることを最優先とする為です」


 造船所にとってはこれほどありがたい話はないだろうが、少し腑に落ちない。


「……僕が言うのもなんでしょうが、老舗とはいえ倒産間近の造船所に対して、それほどの援助を行ってまで助ける意味を感じないのですが。いくら椿様がお願いしたとはいえ銀行がそこまでお人好しじゃ、この先やっていけないのではないですか?」


 それに答えたのは椿様ではなかった。


「お人好しはけんジローの方だよ。……いい? 銀行が……それも()()()()()が、何の見返りもなくこんなにも破格の援助する訳がないでショ?」


 銀行の経営者ほどの金の亡者なんてこの世に存在しないんダヨ、アンジュはそう呆れた様に呟く。しかし当の銀行関係者はあらあらと苦笑いするだけだった。


「そうですね。きちんと最初からお話した方がいいですね」


 椿様はそういってから少し考え込むように首を傾げた。




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