第7話 本社ビル18階にある閲覧禁止書架に差し込まれた報告書より 其の二
アンジュは人力車から降りるとそびえ立つ五階建ての近代ビルディングを見上げた。ここが数年で力をつけてきた新興企業である『暁銀行』の本店だ。
一、二階は他の銀行同様の業務を行い、三階は本店として統括業務を行う。
四階は重役たちの仕事場となっており、最上階である五階が大会議場と頭取である橘征之の仕事場となっていた。
五階に上がるにはそれなりの立場が必要であり、そこに立ち入るのが暁銀行で働く者の一つの到達点とされていた。
そんな本店には一般客の目につかないところに特別な人間しか使うことの出来ない通路がある。そこを塞ぐのは屈強な警備員。
彼らはここを使っていもいい人間を熟知しており、アンジュの姿を見ると全員が一礼して道を開けた。彼女は無表情のまま目だけで黙礼すると、五階への直通のエレベーターに颯爽と乗り込む。
扉が警備員によって閉められ、やがてガリガリという巻き上げ音と共に宙を浮く感覚。それに身を委ねながら彼女はこれからの展開を思案していた。
チンという到達を知らせる音がして、待ち構えていた警備員が扉を開く。
アンジュは思案をいったん止め、一歩踏み出しフロアを見渡す。
下の階と違って五階は煌びやかだ。
特別な取引相手をもてなす場所でもあるので、掃除も細部に渡るまで一切の手を抜くことは許されない。壁に掛けられている絵画も毎朝丁寧に整えられているらしい。
アンジュはやってきた客人誰もが足を止めるそれらに目も向けず、受付に立ち寄って『キヨ』の名前で記名する。
「――現在、定例会議を行っております。しばらくお待ちくださいませ」
アンジュはそんな受付嬢の言葉を無視して扉の前に立つと力任せに開いた。
中にいた高そうなスーツ重役たちが驚いて音の方向を注目する。
そこに彼女の姿を見つけると、口々に会議中だから出て行けとの言葉がかかった。
アンジュはそれらを無視して議長席にいる橘征之のところまでゆっくりと歩く。
笑顔で待っている彼に対して彼女は深々と一礼すると、手紙を差し出した。
「……椿様より伝言です。……『コレを貴女の手からお兄様にお渡しするように』とのことです。頭取におかれましては、最優先でこちらに目を通して頂きたく存じます」
アンジュの言葉に室内が完全に静まり返った。
今の言葉の意味が分からない人間はこの場に呼ばれることは無い。
征之は頷いてそれを受け取る。そして広い部屋に紙を開く乾いた音が響いた。
そして楽しそうな表情と独り言交じりで読み進める。
「……なるほど、ね」
この征之の一連の感じが宮原椿とそっくりなのを知っているのはアンジュだけだ。彼女は俯くことで周囲から笑みを隠す。
その間、出席者全員が息を飲んで征之の様子に目を凝らしていた。
「――明石!」「ハッ」
征之が呼ぶとすぐに返ってくる声。
議長席からは離れてた席にいた男性が立ち上がった。
「後で細かい指示を出すから、今のうちにすぐに動ける部下たちを集めておけ!」
「ハッ」
男は一礼すると駆け足で出ていく。
彼は調査部の主任を任されており、アンジュの名目上の上司でもあった。
彼女自身がこの銀行で信頼出来る数少ない人間の一人だ。
「申し訳ないが、今はこの手紙の内容に集中したい。……本日は解散だ」
征之は素っ気なくそう告げると立ち上がり、参加者たちを一顧だにせず大会議室を後にした。言い忘れたかのように彼は部屋内を振り返るとアンジュに対しては、打って変わって優し気な笑みを浮かべる。
「アンジュ、私の部屋で詳しい説明をしてくれないか?」
「ハッ、かしこまりました」
アンジュは椿荘の誰にも見せないようなきびきびとした一礼をすると、居並ぶ重役たちに一礼して征之を追いかけた。
その様を残された者たちは黙って見ているしかなかった。
彼らもその手紙が意味することは知っていたのだ。
――あれはこの銀行に莫大な利益をもたらす魔法の手紙である、と。
征之は部屋に戻ると背広を脱いでアンジュに預ける。
そしてどっかりとソファに座ると大きく息を吐いた。
アンジュの目に相当疲れが溜まっているのだと窺えた。
祖父である橘清健から頭取の座を受け継いだのは十年前だが、当時まだ大学を出てすぐの彼の代わりに清健が院政を行っていた。
その祖父清健が亡くなってからのここ五年こそ、本当の意味で征之の暁銀行といえた。
彼は妹である椿と歪な二人三脚で激動の時代の舵取りをして結果を残してきたが祖父程の功績には到底及ばない。
居並ぶ重役たちのほとんどがこの銀行の創設者でもある清健が育てた部下たち。
この厳しい目が光る環境で征之の気苦労が多いのは誰の目よりも明らかだった。
「座っていいよ」
「……ハッ。それでは失礼致します」
アンジュは椿荘では見せないような慣れた手つきで、手早く彼の背広をハンガーにかけると、その声に頷き向かいのソファに腰掛ける。
「今はそんなにかしこまらなくていいよ? ……はい、コレ舐める?」
征之は机の上にある陶器の中で転がっていた金平糖を摘まむとアンジュの口元に放り込み、もう一つ摘まむと自分の口にも放り込んだ。
「うん、甘いね!」
子供のように頬を緩める征之。
彼がこんな風に気安い言葉で話しかけ、普段の姿を見せる相手は家族以外では彼女を含めた最側近の者たちだけだった。
アンジュは征之の祖父でもある橘清健に拾われて以来、ずっとその翁の家で育てられていた。
教育を与えられ、衣食住に困らない生活。
毎日死ぬ思いで生きてきた大陸の頃とは比べ物にならない豊かな生活。
それでも言葉の壁は大きく、日本語の発音に苦労する日々だった。
その中でアンジュの心の支えになっていたのが清健の孫であり、養子として橘家入りしていた征之だった。彼は彼女を実の妹のように可愛がり、事あるごとに甘味を求めて街へと連れ出した。
アンジュの中で兄を慕うような気持ちから恋心に変わるのにそれ程時間はかからなかった。
しかしアンジュの、その夢のような年月もたった数年で終わり、彼女は新しく宮原家に建設された椿荘へと、彼の本当の妹である宮原椿の側付きとして派遣されることになった。
――まだ十三歳の頃の話だ。
「――アイツは元気にやっているか」
「……はい。最近は特に機嫌がいいと思われます」
実際アンジュの目に、椿は本当にすこぶる機嫌がいい風に見えた。
あの純粋な少年は椿のことを女神か何かのように思っているのだろう。手を出すとかそういう下種の勘繰りなど一切必要なかった。近くに居たい。感じられるのはそれだけだった。
あの年頃の男にはありがちなことだ。そう考えていた。
だがアンジュは驚いたのだ。――むしろ椿の対応の方に。
健次郎のその熱い視線や稚拙な言動が満更ではない様子で、彼女自身も恋に恋する少女のようにその距離感を楽しんでいたのだ。
何気ない会話、何気ない沈黙が日ごとに二人の親密さを深めていく。
初々しくもあり、どこか姉弟のようでもあり――。
アンジュは一番近いところでそれを目の当たりにしてきた。
「――なるほどね、しかしまさか数か月で成果が出るとは思わなかったよ。……それならば何よりだ。あの少年を探し出した甲斐もあるというもの」
征之は苦笑いしていた。
アンジュは目の前の彼が妹のことを大事に思っていることは知っているが、その反面で何処か一定の距離を保っておきたいという部分も感じていた。
「……たまには会いに来られたら如何でしょうか?」
アンジュはここで口に出すべきではないと思いながらも、その一言を発する。
誰にとは言わなかったが、征之には伝わった。
「んー、……これでも母の月命日には必ず宮原邸に顔を出しているんだけれどね。一応あの家は私の生まれ育った実家だし、まだ自分の部屋も残っているし」
そんなコトはアンジュでも知っている。だがその機会で二人が会うことはない。
「……私は椿に嫌われているからね」
「実の妹ではありませんか?」
「……んー、まぁ、そうだね」
彼は苦笑いで煙に巻く。
「でも今は彼女も楽しくやっているのだろう? そこに私が顔を出すことでよくない流れが出来てしまうのは少しイヤだね。……ましてやこれから相当忙しくなりそうだ。彼女のことは少年に任せておくとするよ」
そう言いながら征之は手紙を振る。
確かにせっかく大きな仕事が生み出されそうなのだ、とアンジュも一瞬考える。
そう同意した瞬間、自分自身も心のどこかで彼女を扱いづらい機械のように考えているのだと思い知らされた。
征之は苦悶の表情を浮かべたアンジュに穏やかな笑顔をみせると座り直して彼女に声を掛ける。
「……さて、と。それでは詳しい話を聞こうか」
そして真剣な表情に戻って手紙を机の上に置いた。
アンジュも気を入れ直して頷くと、最初から話始めた。
――ことは健次郎が持ち帰った号外に始まるのだ、と。