第5話 西暦1914(大正三)年 十月 其の一
今日は何をおいてもアンジュにきつく言ってやらねばならないことがあった。
これは椿様の名誉に関わる問題なのだ。
――今朝、大学で耳にした噂。
僕が椿様と同じ屋敷に住んでいることは友人たち全員が知っている。
だからこそ、みんなは出来るだけ僕の耳に入らないように苦労してくれたのだろうが、こんな話が出回っているならば早く教えて欲しかった。
「アンジュ、キミねぇ……」
僕は帰宅の挨拶もそこそこに、例によって当然のように客人用ソファでくつろいでいる女中を問い詰める。
「……何サ?」
「……どうかされたのですか?」
僕のいきなりの詰問に怪訝な表情ののアンジュと少し驚いた風の椿様。
アンジュのことは取り敢えず無視して、主人である椿様に説明する。
「僕の知らない間にずっと大学でも噂になっている話がありまして。……その、結構前から、それこそ僕がこちらのお世話になる前から、椿様が、その、いろいろ、……その、傍若無人な振る舞いをなさっているという話はチラホラとあったのですが、まぁ、それは一旦横に置いてですね、今流れている噂は少し状況が違うのです」
「……違う?」
イマイチこちらの話の筋が見えないのだろう。
椿様は曖昧な笑みを浮かべ、小首を傾げた。
そのあまりの愛らしさに膝から崩れ落ちそうになるのを何とか踏ん張る。
今は早くこの話を伝えなければならないという使命感がそうさせた。
「その……ですね、……椿様が、数えで三十歳だということを認めようとせず、自分はまだ満で二十八歳なのだと癇癪を起こすと、女中の夕飯の牛すき鍋を抜きにした挙句、その娘の分をこれ見よがしに一人で全部平らげてしまった、と……」
僕は少し首を竦め、恐る恐る椿様の様子を見た。
いくらなんでもコレは酷い。
事情を知っている僕からすれば、到底許容できるモノではなかった。
この話を知っているのは僕と椿様、――そしてアンジュだ。
屋敷から一歩も外に出ない椿様はあり得ない。
ましてや僕が椿様を悪く言うことなんてことも絶対に無い。
残るは一人。彼女が言いふらしたのか、他の誰かにうっかり洩らしてそれが世間の耳に入ったのか。
どちらにしろ彼女に原因があるのは明らかだった。
いくらアンジュに甘い椿様でも流石にこれには怒るはず……なのだが。
全くその気配がなかった。
むしろ何故か楽しそうな笑みさえ浮かべている。
「うん! ……事実とは程遠いけれど、嘘は一つも無いわね。……すごいわ!」
「はい、お嬢サマ。……私、嘘は大嫌いですカラ」
アンジュは誇らしげに胸を張って賞賛を受ける。
僕は一人この空気の中に取り残されていた。
「しかし、なんでまた、そんな噂を……」
僕の問いに彼女はソファから降りると、椿様の前まで進み、大袈裟に床に跪く。白いエプロンドレスの裾がひらりと舞い上がった。
「食べ物屋に行って、私が苦労してあの椿お嬢様に仕えているという話をすれば、何故か顔なじみの人たちが労わってくれて、甘味をごちそうして下さるのデス。ですから、ツイ……」
アンジュは主人をじっと見つめ、芝居がかったように手を胸の前で組んだ。
まるで聖女に許しを乞う清らかな乙女のようだった。
悲哀を誘うような純粋な素振りをしているが、懺悔内容は相当エグい。
「当然、今回が初めてではないよね」
僕の質問にアンジュは片目を瞑る。
「まぁネ、お小遣いが足りない時にチョチョいとサ。頑張って泣きながら話したら大抵成功するヨ。……あとは、脚色をより劇的にカナ?」
アンジュは先程の椿様と同じように小首を傾げるが、こっちは全然可愛くない。
ただ、当の椿様は大きく溜め息をついただけで、特に何かを問い詰めるような雰囲気ではなかった。
「……まぁ、いいでしょう。元々、私は世間からよく思われている人間ではないですし。でも嘘だけは駄目ですからね。それだけは守ってね」
「はい、ありがとうございまス。これからも頑張りマス」
何を? 一体何を頑張るの?
改めて僕は、この主従はどこか変だと再確認した。
少しばかり肌寒くなってきた昼下がり、僕たちは応接間でゆったりとした時間を過ごす。
窓から見える庭園の木々も薄っすらと紅葉し始めていた。
僕は書庫から興味のある本を数冊借りてそれを読み始める。
椿様はいつものように紅茶を飲みながら、便箋に目を通していた。
アンジュと言えば、こちらもいつものようにだらしなくソファに寝そべり、足をバタつかせていたりする。
「……ねぇ、けんジロー、退屈になってキタ。……何か面白い話はナイ? すっごく刺激的な感じのヤツがイイ」
「……さっきのアンジュの告白以上に刺激的な話なんてないよ……」
本を読んでいることもあって、少しなげやりな感じで返す僕の言い方が面白かったのか、椿様が噴き出す。
照れ隠しなのか、彼女は咳払い一つすると紅茶に口をつけて再び便箋に目を落とした。
「……例の大正ねずみ小僧とやらモ、どうせまだ捕まってないだろうシネ」
アンジュは大きく猫のような伸びをした。
「そうだね、警察も相当頑張っているようだけどね。……あぁ、でもその話なら情報はあるよ? 刺激的とは言えないけれど。……ちょっと嫌な感じかな?」
「嫌な感じ……ですか?」
この話に食いついたのは僕の隣だった。
僕は本を閉じて椿様に向き直ると、今日大学で聞いたことを話し始めた。
「実は僕の友達、……大学での級友に、造船所の社長夫人の遠い親戚がいたのですよ。彼から聞いた結構詳しい話です」
「造船所といえば、この前の号外にあった三件目の被害を受けた方ですね?」
間髪入れず、打てば響くような補足。
しかし彼女の視線はまだ手元にあった。
「はい、それです。……彼の親戚の造船所は横浜にある老舗で、徳川の時代から漁船を中心に製造していたらしいです。そして今年から勝負を賭ける為に新型の大型貨物船を製造することになったそうです。ですが漁船と大型貨物船では製作費の規模が違います。そういうこともあって、新型船製造の為の材料費や人件費諸々を銀行から融資してもらったそうです」
「そうですか。……それは大変良い判断だと思います」
「しかし、よりによって、その大事なお金がねずみ小僧に盗まれてしまいました。厳重に施錠されていたにも関わらず、扉や鍵に傷一つ付けることなく開錠され、工場に侵入されたらしいです。納品された材料は既に使用されています。もう返品もできません。仕入れの代金の支払い期限は今月末ですが、このままだと、それが滞ってしまうみたいなのです」
「銀行からの再融資を受けることは出来なかったのですか? 銀行も貸倒れされるぐらいならばと、何かしらの手を打つでしょうし」
気が付けば椿様は便箋から目を上げ、こちらを見つめていた。
真っ直ぐな視線に照れて、思わず目をそらしてしまう僕。
自分で話を振っておきながら、興味無さげに寝そべるアンジュを横目で捉え、僕は一口紅茶を飲む。
そして再び椿様に向かった。
「実は、その前の二件の鼠小僧事件も似たような感じ――融資直後の窃盗だったそうで、その時は銀行が特例として、無利子での再融資を行ったらしいです。……被害を受けた造船所もその特例を期待していたのですが、残念ながら今回に限って認めてもらえなかったそうです。さすがに三回続けてだと銀行自体が傾く可能性があると。無利子どころか、再融資すらも出来ないということです。今さら他の銀行からの融資を受けようにも、すでに担保にするものがないと。……今できるのは、せめて倒産をしないように、仕入れ代金を掻き集めること。あちらこちらに連絡をとっているそうですが、少し厳しいみたいですね」
「……三回続けてなので、融資できるお金がない……ということは被害を受けた、三件全て同じ銀行から融資を受けていた。……ということですよね?」
椿様は今の僕の話を噛み砕くように確認しながら呟いた。
「そうでしょうね、……おそらく」
「それは、それは……」
彼女はいつになく真剣な表情で思案を巡らせていた。
造船所にはとんでもない悲劇だったが、実は本題はここからだった。