第4話 本社ビル18階にある閲覧禁止書架に差し込まれた報告書より 其の一
アンジュは過剰なまでに元気を振りまきながら街を進んでいた。
これがアンジュの考えるアンジュらしさ。
彼女なりにそれを演じていた。
そんな彼女に甘味屋の大将が声をかけてくる。
「おう! アンジュちゃん、今日もご機嫌だね! ……お出掛けかい?」
「用事が終わったら絶対に寄るカラ! とっておきの話があるんダヨ!」
彼女は大袈裟に手を振り回してその声に応えた。
アンジュは目的の百貨店に入ると、足早に売り場を抜けてウラに回る。
そんな彼女を店員が立ち塞がる様にして止めた。
「お客様! こちらは店の者しか入ることが出来ません。どうかお戻りくださいませ!」
だが、彼女が一言「宮原家の使いの者だ」と言えば全員が平身低頭して道を譲る。アンジュはその中を何の感慨もなく通り抜けていった。
奥まった場所にある一室の前に立つと、待っていたかのように扉が開く。
中では立派な正装をした店員たちが直立していた。
「本日はご来店誠にありがとうございます」
支配人らしき男性が頭を下げるとそれに倣う様に全員がいらっしゃいませと声を揃えて頭を下げる。
アンジュは無邪気な笑顔を張り付けて、軽く頭を下げてから入室した。
目の前の大きな台の上に並んでいるのは、本日宮原家で購入予定の商品の数々。
アンジュはそれを一つ一つ確認するように、全く品物の価値も知らないような顔をしながら無神経にペタペタと触っていく。
それを後ろで息を飲みながら黙って見守る店員たち。
「はい。確かに全て揃っていますネ。……これなんか、取り寄せるの大変だったデショウ?」
そういってアンジュは宝石のついた首飾りを無造作につまみあげる。
何気にコレ一つで家が建つぐらいだ。
年若い、――それでもアンジュよりは年嵩の女性店員が小さく悲鳴を上げた。
横の男性がそれを目で注意する。
アンジュはそれらに気づかないフリをして、支配人に話しかける。
「どうせ、見せる相手がいる訳でもないノニ……。ネェ?」
そして、いたずらっぽく笑って見せた。
支配人は言葉の意味を理解した瞬間吹き出しそうになるが、何とか咳払いで誤魔化して見せた。
――中々の自己制御。素敵だ。
アンジュは内心で最大級の賛辞を贈る。
彼らだって椿姫がどういった存在か重々承知だ。
不用意な発言をしたことが漏れてしまうと大変なことになると信じていた。
「それでは準備を致しますので、時間を頂きます。……しばらくこの部屋でお寛ぎ下さいませ」
支配人が一礼して部屋をあとにする。
並べられていた商品を持って部屋を出ていく店員たちがその後ろに続く。
それを見送るとアンジュは備え付けの椅子に腰かけた。
テーブルの上には銀座のデパートらしく紅茶が用意されていた。
――それも二客。
アンジュは手前のカップを引き寄せておもむろにそれに口をつけるが、一口飲んで顔を顰めた。
彼女が普段飲み慣れた紅茶とは全然違った。
それと比べれば目の前のモノは紅茶と呼ぶのもおこがましいと感じる。
途端に手持ち無沙汰になり、しばらく部屋を観察しているとノックもなしに扉が開いた。そこに立っていたのは中年の男性。
彼は部屋の中にいるアンジュを見ると、片手をあげて部屋に入ってきた。
彼女は無表情で頷き返すにとどめる。
「……随分としばらくぶりだな、キヨ」
アンジュには三つの名前があった。
一つは顔も覚えていない親につけてもらった名前。彼女自身も覚えていない。
二つ目は恩人である翁につけてもらった清。
彼女が生まれた国の名前でもある。
――そして三つ目はアンジュ。
心の底から敬愛しているとある御方に頂いた名前だ。
フランス語で天使というのだと聞いたときには涙がこぼれた。
この人の為なら何万回でも死ねると思えた。
男は向かいの椅子に腰かけると目の前の紅茶をズルズルとすすり飲む。
アンジュは半笑いでそれを見つめていた。
何を笑われているのかもわからない男は満足そうにうなずく。
「さすがデパート、うまい紅茶だ」
感心する男。
その様子を見て、アンジュは鼻で笑う。
男は初めて自分が笑われていたことに気づき、眉間にしわを寄せアンジュに向き直る。
「それでは、報告を」
アンジュとしては、報告と言われても普段から紙で報告しているので、今更話すことなど何もない。
仕方がないから彼女は用意していた言葉を口にする。
「毎日健やかにお過ごしですよ」
いかにも面倒くさいといわんばかりの返答に男は声を荒げた。
「……だから、それではわからんと言っているだろう! ちゃんと正常に機能しているのかと聞いているのだ!」
男はまるで椿のことを工場機械か何かのように話す。
アンジュ自身も椿の味方とは言えないし、椿本人も当然ながらそれを知っている。
それでも一緒に過ごせば情も移るというもの。
詳しく話そうとしないアンジュに痺れを切らしたのか、男は何かに当たるかのようにカップをさかさまにするようにして紅茶を飲み切る。
彼女は自分の目の前の紅茶も彼の手の届くところへ差し出した。
「そもそもあの少年はどんな感じなのだ? ……詳しい素性は? 他にも報告すべきことは色々あるだろうが!?」
アンジュも健次郎のことを調べてみたが完全にシロだった。
特に何かを企んでいる気配はなし。
ウラに誰かがいる気配もなし。
「……特にありませんが?」
「無いことは無いだろう!」
――確かに無いことは無い。
アンジュは男に知られないようにこっそり微笑む。
健次郎は何かと気を遣う性格らしい。そこがたまらなく可愛らしい。
気詰まりを怖がってわざわざ号外を離れた駅まで取りに行ったりするのもそれの現れだ。
椿の歓心を買う為に金品は通用しない。
彼女は元々欲しいものは全て手に入れることが出来るのだ。
健次郎は彼女が喜ぶのは未知の情報なのだと、このわずか数日で見切ってみせた。
それは中々の才能だと思うのだが……。
ただ、アンジュがそれを報告する相手は目の前の男ではなかった。
「――そもそも、この件はあの御方がお決めになったことです。あの御方が大事な妹君に危害を加えるような人間を内側に入れるでしょうか?」
「……まったく、若様にも困ったものだ。我々に一切の断りもなくこのような大事なことを決められるとは」
アンジュは内心で笑い飛ばしていた。
――大事って。お前たちは椿様のことを金を産む雌鶏ぐらいにしか思っていないクセに。少なくともあの御方は妹である彼女のことを自分の命よりも、下手をすればご自身の奥様や息子様よりも大事にされているのだ。随分と歪ではあるが。
しかし思っていることを表情に出すようなアンジュではない。
男はアンジュの分の紅茶にも手を出して飲み干した。
「とにかくその少年からは絶対に目を離すな。何かあってからでは遅いのだ。……辰巳様がついておられるから最悪の事態は防げると信じてはいるが、全く――」
男がぶつくさ言っていると控えめなノックがする。
アンジュが許可を出すと入ってくる支配人。
荷物は車に積んだとのこと。
アンジュは行先を告げると支配人は何も言わず手配してくれた。
あの商品が椿の元に届くことはない。
あれらはすべて取引先のご婦人への土産物となる。
あくまで椿は爆買いする役を果たしているだけだ。
そうやってまた彼女の悪評に尾ひれがついていく。
その上で了承しているのだ。
男は立ち上がると、スーツの懐に手を差し込んで小切手を取り出し、無言のまま支配人に押し付ける。
そして大股で部屋を後にした。
支配人は後ろ姿の男と座ったままのアンジュに対して、恭しく一礼すると部屋を出て行った。
一人残されたアンジュは溜め息を吐く。
そういえば甘味屋の大将に、後で店に寄ると言ってしまったのだと思い出して舌打ちする。
今からはとてもじゃないが、そんな気分にはなれない。
しかしそれも仕事だとアンジュは割り切って部屋を後にした。