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第3話  西暦1914(大正三)年 九月 其の二

「――でもね、そもそも本家のねずみ小僧って実は義賊でもなんでもない、ただのコソ泥だったといいますよ」


 椿様のどこか棘のある響きに僕とアンジュの注意はそちらに向く。

 彼女はその視線に笑みを返すと、紅茶を一口。

 そして続けた。


「……皆さんご存じの、歌舞伎や大衆演劇で活躍しているねずみ小僧ですけれど、これは確かに実在の人物です。――ねずみ小僧次郎吉。江戸末期の泥棒ですね。袖の下を受け取る代官や悪徳商人の屋敷に盗みに入り、堂々と千両箱を盗んで軽々と塀を飛び越え逃亡。盗んだ金で貧しい者たちに施しを与える、なんて言われていますが、実際そんな記録はどんな本や新聞にもありません。あれだけたくさんの盗みを働きながら、捕まった時には僅かな金しか残っていなかった、派手な生活をしているように見えなかった、そんな噂を元に庶民の願望が生み出した()()()()()()()です」


 そしてまた紅茶一口。

 僕たちは無駄口を挟むことなく黙って聞き続ける。


「……実際のところ彼は盗んだ金で博打(ばくち)に明け暮れ、花街で女の人を買い、好き勝手していたという話です。盗みに入るのも警備にいくらでも金を掛けることのできる裕福な商人は避け、敷地が広く警備の人手が行き届かない大名屋敷、しかも女子供しかいない奥屋敷や台所を狙う。そんなところに保管してある、僅かばかりの金を何回も何回も盗みに入っていた小物です。……たとえ見つかったとしても女子供なら何とかできると思っていたのでしょうね。――まさに下衆の極みです」


 そもそもこんなおとぎ話を言い出した人間は千両箱の重さをナメていたのでしょうね、と椿様は口元を歪ませて笑う。

 いつも穏やかなお嬢様に似つかわしくない悪意に満ちた表情に僕はただひたすら戸惑っていた。


「――でも、大正ねずみ小僧は全然違いますよね? 彼は博打や花街など自分の為ではなく、ちゃんと纏まった大金を惜しみなく貧民街へ回していますよね? 前の二件とも盗まれた金額と配られた金額に差はほとんど無いと言いますし。……おそらく今回も――」


 僕は堪らなくなり思わず口を挟むが、女性二人の冷たい視線に勢いを失い、最後は囁くような大きさになる。

 そんな僕の様子を横目でちらりと見て、椿様は溜め息を吐く。

 彼女を幻滅させたのかも知れないと、僕は更に小さくなってしまう。



 それでも僕は大正ねずみ小僧だけは庶民の味方だと信じていたかった。

 僕も決して裕福とは言えない実家から送られてきた少ない仕送りで何とか生活出来ていたが、自分の知らないところで呆気なく住むところを奪われた。

 幸運にも僕は椿荘で厄介になることが出来たのだけれど――。

 だからこそ想像せずにはいられないのだ。

 もし自分がいまだ住む場所を見つかられず路頭に迷っていたとして、その目の前に大正ねずみ小僧が現れたとしたら、と。

 金持ちから奪ってきたお金を上野公園で途方に暮れている自分に分け与えてくれたとしたら、と。

 椿様は僕を一瞥して低く硬い声で続ける。


「……そうですね、確かにこの号外を読む限りではただのコソ泥の起こした事件では無さそうです。……ですが、むしろそちらの方が、私からすれば、その何といいますか、虫唾(むしず)が走りますね……」


 一瞬彼女が何を言ったのか理解できなかった。

 言葉の意味ではなく、その台詞そのものが。

 それが椿様の口から発せられたという事実が。

 美しくいつも微笑みを絶やさない生粋のお嬢様が、表情を歪ませて発する()()()()()という言葉に途轍もない破壊力があると知った。

 ――いや殺傷能力か。

 僕はただ口を開いて息をするのだけが精一杯だった。


 

 それでも椿様は息も絶え絶えな僕に対して、更なる追い打ちをかけてくる。


「……盗まれた金額と配られた金額にほとんど差がない、という調()()()()()()()()ということは、どこの誰がどれだけのお金を受け取ったのか、大まかではありますが把握されているということです。……そういうコトですよね?」


 彼女は視線を下げ、唯一残っていた目元の笑みさえも完全に消し去る。


「その過去二件の窃盗事件において、被害に遭った事業主に返還されたお金は総額の何割程度なのでしょうか? ……希望を申しますと、最低でも三割は戻っていて欲しいのですけれど。……今回の横浜の事件でも、一体どれだけのお金が返ってくるのでしょうね?」


 椿様はこちらを見つめ、少しだけ口角を上げる。

 言葉の中に込められた皮肉とその表情に僅かではあるが恐怖を感じてしまう。

 お金が返ってくるなんてこと――。


「そんな話は聞いてないデスネ。……まぁ私の耳に入る程度の情報だケド……」


 声の出ない僕の代わりに、暇さえあればカフェに通っている、情報通のアンジュが答えた。

 ――椿様同様、(くら)めの愉悦(ゆえつ)を含んだ笑みを浮かべながら。

 すぐに生活費や借金返済に回された話は耳にしたが、馬鹿正直に被害者に返金したなんて話は知らない。

 大抵の場合は警察が調べに来る前に使ってしまったのだろう。

 手元に残っていないなら返さなくて済むのだ。


「まぁそうでしょうね。結局のところ、これら一連の窃盗事件においては二種類の盗人が存在する訳ですよ。商人たちから大金を盗んだねずみ小僧とやら。……そしてそのお金を受け取りながら被害者に返すことなく、自分の為に使った人々」


 ――最低ですね、と椿様は吐き捨てた。



 僕としても、盗まれたと判っているにも関わらずその金を返さずに使ってしまった者たちは、いけないことをしたのだと認める。

 しかし彼らだって生きていく為には仕方なかったのではないか、と弁護してやりたい気持ちの方が強かった。

 そもそもねずみ小僧だって、そんな彼らを救うために大金を持っている商店や工場からお金を盗んだのではないのか。

 より大きな富を生み出す為のお金ではなく、最近の物価高に(あえ)ぐ貧しい者が生きていく為のお金の方が余程有意義ではないのか、と。

 

「――被害を受けた方々は()()()()()()()()()()()()()()()()のかしら? 方々(ほうぼう)に借金をするなどして会社をつくり、寝る間を惜しんで金策に(はし)り回り、商機を逃さぬように細心の注意を払い、全てを失う恐怖に震えながら人生を賭けての大勝負に挑む。そうしてやっとの思いで稼いだお金なのかも知れない!」


 僕の浅い考えなど平気で飛び越えた椿様の言葉が胸に刺さる。


「……だけど今回お金を盗まれたせいで、彼らの下で一生懸命働いてきた者たちにお給金が支払えなくなってしまったら!? 結果的にたくさんの労働者たちが職を失うかもしれない! そしてそこから新たな貧しい者が生まれるかもしれない! ……ねぇ、どうするの!? そんな彼らの元にも、ちゃんとねずみ小僧はお金を配ってくれるのかしら!? ……そのお金は!? また別のところから盗みを働くの!? そのお金を盗まれた会社は!? ……そんな負の連鎖いつまで続ける気なの!? ……盗まれていいお金なんてこの世に一銭もないわ!」

 

 何も言うことが出来なかった。

 正論だった。

 僕はただ俯くことしかできなかった。

 しかし、椿様はまだまだ止まらない。

 彼女の声に狂気とも感じられる力が溢れ始めた。

 

「百歩譲って、この連続窃盗事件の被害者である事業主が人の道に外れた行為でお金を稼いだ卑怯者だったとしても、それは法によって裁かれるべきなの! 窃盗という犯罪による私刑ではなく! ……生きる為に必死だとはいえ、盗まれたお金だと判っていながら返そうとしない者たちも同罪よ。やっていることは火事場泥棒と同じだわ! ……みんなみんな牢屋に放り込めばいいのよ! この国の人々はいつから犬畜生の血を引くようになったのかしら! 恥を知りなさい! そもそも――」

 

「――それぐらいになさったらどうでスカ? お下品ですワヨ? ()()()が聞いたらどんなお顔をなさるのでショウネ」


 なおも続けそうな椿様をやけに通る凍えた声が遮った。

 ビスケットを手にしたアンジュだ。

 だけどいつものふざけた彼女からは想像出来ない、自らの主人を本気で小馬鹿にするような表情。

 そして彼女は何かを待つように、ただじっと主人の目を見つめていた。

 やがて椿様は我に返ったように目を見開くと、呼吸を整える。

 そして少し恥ずかしそうに笑うと、軽く身だしなみを整えてから立ち上がった。


「……ふふっ。なんかごめんなさいね。ちょっと新しい紅茶淹れてくるわね」


 そういって彼女はいつの間にか飲み終わっていた全員分のカップをお盆にのせ、足早に席を外す。




「あまりお嬢さまを刺激しないでよネー。あの人あれで結構短気なところあるカラ……」


 アンジュは僕にしか聞こえないような小さい声で囁いた。

 声もいつものゆるゆるの声に戻っている。

 僕もようやく緊張を解くことが出来た。


「……なんか……ごめん」


 ただ謝ることしかできなかった。

 あのまま彼女を放っておいたら際限なく続いたかもしれない。

 ここで住むようになって数日経つが、初めてアンジュが頼もしく思えた。


「……別にいいヨ。よくあることだし。椿様って『お金持ちのこと嫌っている人』が大嫌いなんだヨネ。……まぁこれからはそのあたり、うまーく空気読んで動いテネ」


 アンジュは、いたずらっぽく笑った。

 その表情に珍しく年長者の威厳のようなものを感じて、僕は何度も頷き返す。

 彼女は「……よし」と呟くと再びビスケットを咥えた。



 椿様が用意した新しい紅茶を飲み一息入れると、先程の重い空気はすっかり晴れ、いつもの穏やかな時間が過ぎていった。

 が、そんな中、爆弾を放り込む空気の読めない者が一人。

 もちろんアンジュだ。


「けんジローのお金持ちに対する拒否感というか距離感っていうのカナ? ……あれってやっぱり最近騒がしくなってきた『デモクラシー』っていうヤツの風に当てられちゃった感じナノ?」


 空気を読めと言ったのは誰だと、僕は内心で頭を抱える。

 しかし椿様は先程のように表情を変えたりすることなく、穏やかなままだった。

 そうね、と前置きし、僕を見つめて小首を傾げる。


「……むしろ古い価値観、おそらく朱子学の影響だと思うわ」


 椿様は説明する。

 江戸時代において徳川幕府は武士たちに朱子学を奨励した。

 忠義や孝行の教えを子供の頃から叩き込み、謀反などを起こさせないようにする為だ。

 結果として徳川の世は長く続いた。


「だけど、弊害もあってね。清く正しく生きる者として、お金に執着するのは恥ずべき事として刷り込まれてしまったの。士農工商という序列にそれが如実に現れているわね。序列こそ下に置かれているけれど、実際のところ大物の商人の中には藩主よりも贅沢な暮らしをしていた者もいたわ。苦しい生活をしている武士たちに金を貸すときに質草として彼らの魂とも言える刀を奪ったりしてね。その反感もあって商人に対する猜疑心、劣等感は大正の今になってもなお士族の中には残っているのよ」


「そういえばけんジローの実家も旧士族だったネ」


 改めて説明されると妙に納得する。

 僕自身知らない内にその教えが身体に沁みついていたのだろう。


「あともう一つ挙げるとすれば、健次郎さんの個人的な資質もあると思うわ」


 そういうと椿様は優しい目でこちらを見つめてくる。


「貴方は弱いものは守るべきだという武士道精神を持っているわね。……困ったときに簡単に泣きつくのはよくないとも。弱い者に寄り添う思いやりの心を持ち、自立心も旺盛。これは美徳なんだけど――」


「これからの世の中ではクソの役にも立たないデスネ」


 アンジュがせせら笑った。


「言い過ぎよアンジュ。……でも否定はしないわ。他人に同情するのは自由よ。だけど誰もが貴方のように清い心をもっている訳ではないの。特にこれからの時代は弱みを見せた者から沈んでいくことになるわ。健次郎さんにとっては生きにくい世の中になるでしょうね。だからといって貴方のその清い部分を消し去る必要は無いの。むしろここにいる間にそれを活かしつつ新しい時代に対応できる生き方を学んでいけばいいわ。これから訪れる波乱の時代を生き抜く為の武器を()()()から学びなさい」


 椿様の言葉にアンジュが神妙な顔で頷いた。


「……これからよろしくお願いします」


 僕も何の躊躇いもなく目の前の二人に頭を下げていた。



「さぁ、もうそろそろ御夕飯よ。……今晩はアンジュの大好きな牛すき鍋だからね」


 椿様が手を叩いて立ち上がった。


「……あー、……んー、どうかなぁ。……ムリかナ。頑張る! ……あ、やっぱムリ」


 いつになく歯切れの悪いアンジュ。

 でも僕はすでにそうなるであろうことに気づいていた。


「アンジュってば、ほとんど一人であのビスケット食べていたいたからね」


 あれだけ高く積み上げられていたビスケットがもう一枚も残っていなかった。


「うっさいナァ、もう!」

 

 僕の指摘にアンジュは拗ねたようにソファに寝そべる。

 椿様が心配そうにアンジュの顔を覗き込んだ。


「じゃあ、御夕飯食べないの?」


「……仕方ないかラ、私の分はけんジローにくれてヤル」


 しばらく苦悶の表情を浮かべていた彼女だったが、諦めたのか力無く返事する。


「じゃあ、椿様と二人で分けるから。……あとで文句をいわないでよ」


 流石に僕としても自分の分とアンジュの分の二人前は多い。

 しかも彼女は男の僕よりもよく食べるのだ。


「……私は別にいいですよ。健次郎さんが御一人でどうぞ」


 椿様は焦ったように手を振り遠慮する。

 そんな主人の仕草を見て、アンジュはニヤリと笑った。


「けんジローは新時代の生き方よりも先に女性に対する振る舞いを学ぶべきだよナ! ……女の人はね、三十歳過ぎてから肉をたくさん食べてしまうと次の日()()()んだヨ。その辺りわかってんノ? ホント世間知らずダナ!」


 それは聞き捨てならないのか、椿様は頭突きをする勢いでアンジュに詰め寄る。


「私はまだ二十八です! まだ、()()()です!」


「数えで三十でショ。もう立派な()()()なんでスヨ。……椿()()()()!」


「いいえ! これからの日本では年齢は満で数えるのが主流になっていきます! ……そうですよね、健次郎さん!」


 どこか遠いところで女同士の言い争いは怖いなぁと感心しながら見ていると、いきなり弾がこちらの方向へと飛んできた。


「……はい! そう思います! これからの日本人は年齢を満で数えるべきであります!」


 僕は思わず直立不動で答えてしまう。

 少し軍人口調になっていたかも知れない。


「アンジュの分は私が頂きましょう! だって私はまだまだ二十代なのですから! だから平気なんです!」


 さぁ行きますよと、椿様はまるで戦場に向かう武将のように意気揚揚と食堂へと向かう。


「無茶ですよ! 絶対に無理ですよ!」


 そんな僕の声も届かない。


「……ねぇ、アンジュ。……どうするの?」


「あとはヨロシク……」


 僕の問い掛けにもアンジュは知らん顔で大きく伸びをして、あくびをひとつ。



 結局椿様は僕の心配を他所にアンジュの分も残さず全部食べられた。

 ――明日に響かなければいいけれど。




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