第2話 西暦1914(大正三)年 九月 其の一
帝都某所の一等地。そこにある豪邸宮原邸。
近隣を威圧するような高い石垣に覆われ、中を覗くことはできない。
誰も覗こうともしないけれど。
ヒノキで出来た重厚感のある立派な門の横にある勝手口から、僕は周囲を気にしながらこっそりと中に入っていく。
別に不審者ではない。招かれざる客人という訳でもない。
ただ、まだこの屋敷に入るのに慣れないというだけの話。
傍から見れば立派な不審人物だという自覚はある。
血縁者でもない一介の貧乏学生が入っていい場所ではないことも知っている。
だけどこればっかりはどうしようもないのだ。
大きな屋敷まで続く石畳を横目に、僕は足早に植え込みの間に作られた小道へと入っていく。
その道の両脇は季節の花々で埋め尽くされていた。
そしてしばらく歩いたその先にあるのは、花の帝都でも滅多にお目にかかれないようなハイカラな洋風建築物。
――これが例の椿荘だ。
その玄関でのんびりと掃き掃除をしているのは初老の男性。
「……ただいま戻りました」
僕は出来るだけ丁寧に挨拶する。
その声に男性――辰巳さんは顔を上げると、にこやかに会釈を返してきた。
「おやおや健次郎様、おかえりなさいませ」
僕がこれまでも何度か様付けの敬語は勘弁して欲しいと伝えてきたのだが、彼は頑なにそれを続けるのだ。
女主人である椿様にもそれを止めてもらえるように願い出たのだが、結局伝えてすらもらえなかった。
僕自身、辰巳さんの丁寧な物言いの中にもどこか怖さのようなモノを感じさせる雰囲気が苦手で、結局僕は曖昧な笑みを浮かべることしかできない。
毎日毎日この憂鬱な洗礼を受けて、ようやく中へと足を踏み入れることが出来るのだ。
屋敷に入るとまずは玄関から一番近い部屋、台所の入り口から中を覗き込み声をかける。
「健次郎です。……ただいま戻りました」
中では女性が熱心に料理の下準備をしていたが、僕の声を聞いた瞬間怯えたようにピクリと肩を震わせた。
「お、おかえりなさいませ」
そして表情を強張らせたままこちらに一礼してくる。
辰巳さんの奥様だ。
椿荘が完成してからずっと夫婦でここの管理人をしているらしい。
二人して居候でしかない僕にも丁寧な言葉だ。
更に奥様はあからさまな警戒心を見せてくる。
だけど主人が言うには、本当に親身になって面倒を見てくれるいい人らしい。
この離れにつながる小道の両脇に植えられた花は全て夫人が整えたものだとも聞いている。
まだ自分に慣れていないだけなのかもしれない。
僕はそう自分自身に納得させて顔をひっこめた。
主人がいるはずの応接間を覗こうとしたら、開いたままの扉から別の若い女性の声が漏れてきた。ノックをしようと思っていたが会話の邪魔をしてはいけないと思い、手を引っ込める。
「――お嬢サマ、あの頂き物のビスケットまだ残ってましたヨネ……」
聞こえるのは寝起きのような脱力しきった声。
扉を開けると女中のアンジュが、来客用の二人掛けソファに寝そべりながら、顔だけ上げて女主人に話しかけているところだった。
しかしまぁ、なんともだらしがない。実際寝起きだったのかもしれない。
彼女の見事なまでの真っ黒な艶髪は大和撫子を思わせるが、顔のつくりはどこか大陸を感じさせるモノだった。
そんな彼女が今帝都で流行っているカフェの店員の衣装を纏っている。
辰巳夫人に無理を言って誂えてもらったそうだ。
自分もあんな服が着たいと、主人曰く子供のような駄々の捏ね方をしたらしい。
残念ながらその衣装の本来の姿を発揮することはない。
少なくとも僕がこの屋敷に来てから一度も彼女は女中らしき行動はとったことがなかった。
むしろこのようにソファでくつろいだまま、主人を動かすことの方が多い。
こんなアンジュの振る舞いに最初は少々面食らったものだが、いい加減それも慣れてきた。
「……さぁ、どうかしら? 辰巳のおばさまにでも聞いてごらんなさいな」
そう答えるのは向かいのソファに姿勢よく腰掛ける美しい女性。
手元にある便箋から一切目を逸らさないが、優しげに口元を緩ませている。
そこから紡ぎ出される穏やかで慈愛に溢れた声。
そして洋装の映える恐ろしい程に整った容貌。
彼女こそ、帝都に名を轟かせる椿姫――宮原椿様だ。
アンジュは主人の言葉に返事もせず、飛び起きると僕の横を走り抜け台所へと走り去った。
椿様はそんなアンジュに気分を害することもなく、ちらりと走り去る姿を微笑みながら視線で追いかけ、部屋の入り口で間抜けに突っ立ったままの僕に気付かれる。
「あら、お帰りなさい健次郎さん」
とても優しい声だった。笑顔も素敵。
目が合うといつも照れてしまう。
「……ただいま戻りました。…………先に荷物おいてきます!」
本日何度目になるのかわからない帰宅の挨拶をした後、言葉が続かず、気恥ずかしくなって逃げるように一礼、回れ右をして階段を駆け上がった。
僕をこの屋敷に迎えるにあたり、椿荘は二階に立派な部屋を用意してくれていた。この一室を一月借りるだけで一年分の下宿代が飛んでいきそうだ。
それがタダ。
さらに毎日美味しいご飯まで用意してもらえるという。
部屋にあるモノも全て自由に使っていいと言われているけれど、汚すのが怖くて必要最小限のものしか使えていない。
そんな感じで広大な宮原邸の一角にある椿荘で暮らすようになってから早一週間が過ぎた。
あの悪名高い椿姫にどんな無理難題ふっかけられるのか、どんな罵詈雑言浴びせられるのか、始めの二日間ぐらいは小動物のように身構えて過ごしていた。
彼女が噂とは全く別人の穏やかな女性だと知ってからは恐怖心こそ無くなったが、今度は別の緊張感に襲われる。
――椿様を見ると胸のドキドキが止まらない。
僕は深呼吸して気持ちを整えた。
こちらでの生活はおおむね良好だと言えた。
辰巳夫妻から距離を置かれていること以外は――。
だがそれも仕方ないことだと思う。
僕自身、ここでは異分子だと十分理解しているつもりだ。
管理人を除けば、屋敷内にはうら若き女性が二人という状況の中で、突然一緒に暮らすことになったどこの馬の骨とも分からぬ貧乏大学生。
しかも椿様は出戻りとはいえ、紛うことなき御令嬢。
噂とは違いあれだけ穏やかで美しい女性ならば、警戒されて当然といったところだ。正直追い出せるものなら追い出したいに違いない。
だが椿様がそれを認めない以上、彼らは僕に対して何も出来なかった。
簡単に身だしなみを整えてから応接間に戻ったが、僕よりも先に部屋を出て行ったはずのアンジュは、いまだ戻ってきていない。
手紙に集中している椿様に一礼すると、僕はいつものように彼女の横に座った。
――そう。ここが僕の指定席なのだ。
この屋敷にいるときの大半を彼女の隣で過ごす。
何を思ったのか椿様は初日、所在なさげに突っ立っていた僕を横に座らせた。
それ以来ここに座ることが暗黙の掟となっている。
最初は主人の横に座るのには抵抗があったが、『椿様の向い側はお客様の為の席である』とのこと。
ちなみにほんの少し前までアンジュがだらしなく寝転がっていたのだが、さすがの彼女もお客様が来たときには席を譲るらしい。
ただ、この一週間誰一人客人は来ていないので、最早アンジュ専用といっても過言ではないが。
僕はしばらく便箋を読みふける椿様の横顔を盗み見ていた。
集中しているのか、たまに「あらあら」だとか「やっぱり」と独り言を呟いたり、笑顔を見せたりする。
それを僕は彼女に気付かれないようにじっと横目で眺めていた。
素敵な椿様に見惚れていると、今度はアンジュが「あー!」だの「うー!」だの奇声をあげながら部屋に入ってきた。
山盛りのビスケットをどこか芸術的な感じで大皿に積み上げたせいで前が見えないのだろう、フラフラとした危なっかしい足取りで近付いてくる。
「ちょっと、けんジロー! ボサっと見ていないで手伝エ! この役立タズ!」
僕と視線があった瞬間、彼女は目を吊り上げて毒づいてくる。
初対面のときから何故かアンジュは僕のことを下に見ており、今ではもう自分の弟か手下のように振る舞う。
きっと最初に何か対応を間違えてしまったのだろうが、僅か一週間にして既に手遅れである。
仕方なくアンジュの望むまま、二人してビスケットが崩れ落ちないように大皿を支え、向かい合ったソファの間にある机の上に置いた。
アンジュは崩れずに積み上げられたビスケットの山を見下ろし、腰に手を当てて何度も頷いた。
「どうダ、けんジロー! 凄いダロ!」
勝ち誇ったかのように僕に流し目で口元を歪めると、例の来客用ソファに凭れかかるように腰かけた。
「お嬢サマ……早く紅茶! 砂糖は少な目デ!」
そして何の躊躇いもなく女主人に命令し、自身はビスケットの山に取り掛かった。
「……はいはい、もう少しだけ待ってね。これだけ読んだらね」
椿様は例によって全く気に障った様子を見せない。
信じられない話だが、これが椿荘の日常なのだ。
そしてアンジュも例によってそれに返事するそぶりすら見せず、頂上のビスケットではなく敢えて中段にあるものを慎重に引き抜き始める。
――その真剣な表情ときたら!
僕も思わず息を殺して、アンジュの無謀な挑戦に注目した。
椿様は便箋を読み終えたのか、音もたてずにすっと立ち上がる。
見上げる形になった僕に対して彼女が微笑む。
「……健次郎さんもいつものミルクティでいいわよね?」
「はい、それでお願いします」
僕は敬礼しそうな勢いで答える。
それに対して彼女はクスリと笑声をこぼすと、真剣なアンジュに視線をやる。
そして口元を少しだけ歪めると、机の脚をチョコンと軽く爪先で蹴ってから部屋の奥へと向かっていった。
ビスケットの山は崩れはしなかったものの、少しだけ揺れる。
アンジュが切れ長の目を思いっきり見開いた。
「あッ! もう何し……てる……の? ――この、ひとでナシ!」
アンジュの罵声を背中に浴びながら、椿様は悠々とお茶の準備を始めた。
応接間の奥には椿様専用の台所が作られていた。
明治屋で買い求めた舶来セイロン紅茶の茶葉を使い、自らの手で淹れる。
紅茶用カップも当然ながら本場英国より取り寄せた物。
屋敷の台所は辰巳夫人が使いやすいよう純和風に作られているのに対して、椿様専用のここは西洋風だ。
僕は改めてこの部屋を見渡した。
この応接間には他にもいろいろな舶来品がある。
今座っているソファ、目の前の机、壁に掛けられた絵画、椿様の仕事机などなど。入ったことは無いが椿様の私室にはベッドと呼ばれるフカフカの寝台があると聞いていた。
まさに博物館で暮らしているような感覚だった。
洋風の応接間の窓から見える庭は、辰巳夫人が丹精込めて整えた純和風の庭園。
この風景の和と洋の混在感が何ともいえず、これを見るたびに、まるで物語の中に迷い込んだような気分になるのだ。
しばらく庭を眺めながら思い耽っていると、前方から視線を感じた。
そちらに目を向けると、アンジュが胸元をじっと物欲しそうに見つめているのに気づいた。
「……あぁ、コレ?」
何を見ているのか気付き、僕は胸元に挟んでいた紙をヒラヒラとさせる。
幾分慣れてきたとはいえ、まだまだ新参者の僕にとって二人の中に飛び込んでいくのはそれなりの勇気が必要だった。
だから何かの会話の取っ掛かりになるかと持ってきたのが功を奏したと思い、内心ホッとする。
「さっき帰ってくる途中に駅前で配っていたんだよ。号外なんだって――」
「……見セテ」
そう言うや否や、アンジュは僕の返事も待たずにひったくる。
アンジュは女中とはいえ、かなり高度な教育を受けていたらしく、平気で新聞を読む。それも主人である椿様よりも先に。書庫から勝手に小説を持ち出すこともあるらしい。
「……あー、またカ……」
アンジュは見出しに対して呆れたような声でぼやきつつも、ビスケットを咥えながら黙って記事を読み始めた。
――大正ねずみ小僧事件。
現在帝都を賑わせている連続窃盗事件だ。
そして昨晩も横浜の造船所から多額の運転資金が盗まれたらしい。
過去二件では姿さえ見せなかったのだが、今回はついに逃走する様が幾人かに目撃されたらしい。
小柄な男だったというのが共通の証言だ。
アンジュは読みながらだんだん投げやりな態度になってくる。
心底つまらなそうに読み進め、最後には溜め息までも。
何がそんなに気に食わないのか僕には見当もつかない。
そこに椿様が三人分のカップを持って現れた。
「あら、何を読んでいるのかしら? ……はい、これはアンジュの。まだ熱いからね……。ちゃんと『ふぅふぅ』してから飲むのよ」
まるで子供を相手にしているかのような言葉にアンジュが眉を顰める。
それでも言う通り何度も息を吹きかけてから飲んでいるのが少しかわいい。
「はい、こちらは健次郎さんね」
僕の目の前にそっとティーカップが置かれる。
その一瞬、椿様の顔がすぐ傍まで近付く。
鼻先をくすぐる仄かな香り。
それだけで顔が熱くなるのを感じた。
アンジュはすでに興味を失ったのか、読んでいた号外を汚いものか何かのように椿様へと押し付ける。
それを彼女は席に着きながら受け取った。
「――なるほど。……こんな事件があったのね。もう三件目だって書いてあるけれど、全然知らなかったわ」
さっと目を通すように読んだ椿様がアンジュと同じく、どこか呆れ顔で呟いた。
僕からすれば、どうもこの二人は世俗に疎い部分があると感じられる。
この事件に対してあまりにも素っ気ない態度だった。
浮世離れした椿荘にとっては関係ない出来事だろうとも思うが、どうも釈然としない。
「……この事件は結構有名になっているのですよ。ちゃんと新聞にも載っていますし。もっと関心持ちましょうよ。大学でもみんなこの話で盛り上がっていますよ」
何とか興味を持ってもらおうとするが、アンジュはビスケットを咥えたまま鼻で笑うのだ。そして乱暴に音をたてて齧る。
粉がボロボロと床にこぼれるが、それを気にする感じもない。
だからといって彼女が掃き掃除をする訳でもなく、辰巳夫人に任せっきり。
アンジュは紅茶で口に残ったビスケットを流し込み、僕に対してこれみよがしに大袈裟な溜め息を一つ。
「所詮ただの泥棒でショ? ……ただの犯罪者でショ? 一体何サマなんダカ」
予想外に冷酷な声のアンジュに少し驚く。
普段の彼女からは想像も出来ない声だった。
それでも、だからこそ、それに反発するように熱弁する。
「……安い賃金で労働者を扱き使って大金を稼ぎ、それを元手にさらに稼いで良い暮らしをする。そんな商人や工場主から金銭を盗み、『ねずみ小僧推参』の張り紙を残していく。そして盗んだお金の全額を貧民街でばら撒く。私利私欲の為でなく、貧しい者たちの為の盗み! ……まさに大正のねずみ小僧だと、彼こそ庶民の味方だと言われているのですよ!」
犯罪者だと判っていても、ついついねずみ小僧の肩をもってしまう。
「……あー、はいはい、そうですネー……」
しかしアンジュは心底どうでもいいと言わんばかりに、力ない声で返した。
「――でもね、そもそも本家のねずみ小僧って実は義賊でもなんでもない、ただのコソ泥だったといいますよ」
少しばかり険悪になった僕たちの間に入る様に、椿様は静かな声で、それでいてどこか真剣な面持ちで語り始める。
僕もアンジュも一旦口を噤んでその話を聞くことに集中した。