第12話 西暦1914(大正三)年 十二月
大学からの帰り、宮原邸の門の前で屋敷から出てくる幸四郎氏に会った。
「あぁ、今帰りかい?」
前に会った時のように彼は軽妙に手を振りながら近付いてくる。
「今日はね、あの件の後始末の報告に来たんだよ。別に書類でもよかったのだけれど、どうも筆不精でね。椿様には詳しく報告したけれど、面倒だからもう君には話さないよ、彼女から聞いてくれ」
そう言われても、既に僕の中では終わった話だ。
ただ彼の表情を見たら順調に進んでいることだけは分かった。
「そうですか、取り敢えずおめでとうございます」
「……ん? 何か少し棘があるよね?」
顔をしかめる幸四郎氏。
だけどこれは露骨に嫌悪感を表した僕が悪い。
素直に頭を下げる。
「……まぁ、確かに私たちは正義の味方とはいえないけれどね、だからといって弱者を陥れるつもりもないよ。説得力が無いことは理解している。だけど少なくとも椿様は誰かを不幸にしたいとは思っていないはずだよ」
「……本当ですか? それならばどうして真相を警察に伝えないのですか!?」
僕はどうしてもそれが気になった。
あの日、椿様から聞いた答えも結局銀行の都合だった。
本来ならば、造船所の人たちの為にもねずみ小僧とその黒幕は捕まって罪を償うべきなのに。
ねずみ小僧の話をしたとき、椿様は言ったはずだ。
――私刑ではなく法によって裁かれるべきだと!
幸四郎氏はどこかうんざりした様子で石垣に凭れ掛かる。
そしてあからさまな溜め息を一つ。
「うん。その辺りが君の甘さだよね。正義感の強さは買うんだけれども、まだまだ分かっていない。……言っておくけれど今ウチがあちらとケンカをしたら間違いなく負けるのはこちらだよ?」
「ですが警察が相手を捕まえれば――」
僕のその言葉を彼が鋭い口調で遮った。
「具体的に誰を捕まえればウチは勝てるの? 今回の件で証拠を集めたとしても捕えられるのは精々盗みの実行犯と適当な下っ端行員だけだよ? 本体は無傷に等しい。そんな中で恨みを買ってしまってウチが潰れたら、それこそ何千、何万の人が路頭に迷ってしまうよ? 君のことだって椿荘で面倒見ることも出来なくなるよ? それでもいいの?」
口元に薄い笑みを浮かべ、どこか僕を小ばかにする口調で諭しながら肩を叩いてくる。――かなり強めで。
「――ねぇ、君もイイ年なんだから、そういった世の中の都合も頭に入れて発言しないと。椿様は黒幕を見逃したんじゃない。こうすることでウチの銀行と造船所も含めた傘下の企業を守ったんだ。――虎視眈々と漁夫の利を狙う者たちからも、ね。だから今回は弱みを握った程度で済ませて一旦手打ちにするんだよ。……それらをキチンと理解すべきじゃないか?」
前回のように彼は言いたいことだけ言ってから立ち去る。
僕は彼の背中を見送ることも出来ず、しばらく俯いていた。
応接間に戻るとそこにいたのは椿様一人だけだった。
前回幸四郎氏が帰った後の来客用ソファを、自分の縄張りだと主張する獣のように居座っていたアンジュはそこに居なかった。
僕はいつも通りソファに腰掛ける。
椿様は例によって紅茶の準備をしていたのでおとなしくそれを待っていた。
「先程門のところで幸四郎さんに会いましたよ」
紅茶を並べソファに腰かけた椿様に話しかけるが、それに対し穏やかに微笑むだけで彼女は何も言葉を発しなかった。
椿様は僕があの一件のことで少し距離を置いていることを知っている。
二人並んで座るのは変わらないが、少しだけ大きくなった隙間が如実にそれを表していた。
向いにアンジュがいない状況で二人並んで静かに紅茶を飲む。
「……アンジュはどうしたのですか?」
主人に敬意を払わず、自由奔放。あまつさえ悪口まで言いふらす。
それでも彼女の話をすると、いつも椿様は顔を綻ばせるから何かと助かるのだ。困ったときにはアンジュの話。これはこの数か月で学んだことだ。
「……今日は午後から自由ですね。おそらく兄の仕事を手伝っているはずです」
予想と違って、彼女の声に元気が戻らない。
……それより今の言葉はどういう意味だろう?
「言葉通りの意味ですよ? そもそも彼女は兄の部下ですから」
何となくアンジュが椿様と距離を置いていることは知っていたが、そういう理由だったのかと妙に納得した。
椿様の笑顔は変わらない。
だけどそこにどこか諦めの混じっていることに気付き、胸が締め付けられそうになった。
「……失礼な事をお聞きしてもいいでしょうか?」
僕は意を決して椿様に向き直る。
虚を突かれたのか彼女の目が見開かれた。
「まぁ、答えられる範囲でならなんでもお答えしますよ」
答えにくい事は聞かないで欲しい、と予防線を張られたのだろうが、それを判断するのは僕ではなく椿様だと思い口にする。
「……その、椿様のような、こんなにも素敵な方が、どうして……その離縁されてここで閉じこもるような生活をされているのですか」
ここで暮らすようになってすぐに疑問に思ったことだった。
これだけ美しくて穏やかで、知性もあるし家柄だって申し分ない。
いくら三十歳手前だとはいえ、引っ切り無しに縁談が舞い込んでもおかしくはない。離縁してすぐの頃なら、尚更だったことだろう。
それにも関わらずこの椿荘に閉じこもり、世間では悪女呼ばわりされ、それに対し否定することもなく、あまつさえ悪評が広まることを是認しているようにすら感じられた。
それらが解せない。
この女性が世間的に低い評価を受けていることが悔しい。
ねずみ小僧の一件で、考えが足らず勝手に距離を置いてしまった僕に対しても、誤解を解こうとすらしなかった。
それらを全て受け容れて、なお穏やかに微笑む椿様を思うと悲しい。
結局、僕がこの状況に嫌悪感を抱いているだけなのだろう。
椿様は大きく溜め息をつき、じっと僕の顔を見つめた。
答えにくい事の筆頭だろうけれど、ちゃんと説明してくれるのだと分かった。
「私がこの家に戻されたのは九年前、明治三十九年のことでした。まだ結婚して一年も経っておりませんでした。見合い結婚でしたが、夫婦仲はそれなりに良かったと思います。少なくとも主人――元主人ですね、彼は私と離縁するつもりはありませんでしたし、私も泣いて嫌がりました」
椿様は儚げに微笑む。
その幸せを思い出すかのような笑みに嫉妬めいた思いがよぎった。
「ですが結婚というのは良くも悪くも家同士で行うもの。いくら本人同士が別れたくないと言ったところで、親族が本気になれば若い二人など何とでもなります。――少なくとも祖父は本気でした」
ちなみに母方の祖父です、と椿様は補足してくれる。
暁銀行の創設者だ。
椿様は紅茶を一口飲み続けた。
「……丁度その頃、日露戦争が終結しポーツマスで条約が結ばれました」
アメリカの港町ポーツマスで行われた講和条約。日本にとっては屈辱の条約だ。
国家予算の約六年分を戦争に注ぎこんだが、結局この条約では賠償金を手に入れることが出来なかった。
戦争で多くの兵が亡くなったにも関わらず得るものは何一つ無く、この講和条約に反発した民衆が日比谷公園に結集し、弱腰の政府や仲介したアメリカの関連施設を次々に焼き打ちした。
その中には全く関係のないキリスト教の教会も含まれていた。
僕の考えていたことが顔に出ていたのか、その事に対する説明をしてくれた。
「あれは新聞が戦況を正確に報道しなかったからですね。さも圧勝のように伝えられてしまいましたが、日本政府はロシアに賠償金を請求しないという約束で負けを認めさせたのです。アメリカの大統領が間に入らなければ、さらにお互いの国力を削り続ける不毛な戦争が続いたでしょう。少なくとも世界ではそう見られていました。ですからルーズベルト大統領にノーベル平和賞が贈られたのでしょう」
新聞とはそういうものです、と椿様は口元を歪める。
彼らが正確な情報を提供しているという保証はどこにもない。政府の発表や自らの願望に依るものが大きい。
間に入ったアメリカからすれば、とんだとばっちりだったみたいだ。
もちろんあの国も得るものがあったから仲介に名乗りを上げたのだろうが。
「しかし賠償金こそ手に入れることができませんでしたが、日本にとっても決して悪い条件ではありませんでした。北方の権益や朝鮮半島の実効支配、清国に対する影響力の増加など、お金では得られないものを手に入れることができました」
これは今になってよくわかる。
あれから日本は南樺太及び満洲の開発に着手、さらに朝鮮を併合し世界で勝負できる国になった。
「祖父はこの先、官僚や軍人ではなく実業家が国を動かす時代が来ると感じたそうです。そして自分に残されている時間が少ないことも悟っていました。……ですから孫であるお兄様を後継者に指名し、抜本的に人事の整理を行いました。辰巳のおじさまも昔は祖父の右腕とまで呼ばれていましたが、それに伴い一線を引くことになったそうです」
やはり辰巳さんは只者ではなかったのだ。
銀行の創設者の右腕ならば相当な稼ぎがあっただろう。
そんな人が今は宮原邸の離れの管理人をして、椿様の身の回りをお世話している。そこに明確な意図を感じて仕方がない。
――すなわち、宮原椿の監視だ。
「いくら優秀な兄とはいえ、実務をこなしながらこの激動の時代を見定め、決断をしていくにはあまりにも負担がかかりすぎます。そこで祖父は私に目をつけたのです。元々祖父は私を買っていましたからね。……嫁ぎ先には手切れ金として相当な額が渡ったと聞いています。私が家に戻ると祖父は早々に引退を表明し、銀行は兄と私で経営していく形になっていきました。……あれから結構な時が経過しましたが、とんと縁談は舞い込んで来ませんね。まぁこんな評判の悪い三十前の出戻り女、誰が妻に迎えてくれるというのでしょう」
僕の目の前で儚げに微笑む女性が一人。
宮原椿個人の幸せよりも一族の繁栄を優先する。
激動の時代の最先端を走り、この国を引っ張っていくことの出来る彼女を縛り付けているのが、よりにも寄って戦国時代の頃のような旧い価値観だったということ。
そしてそれを椿様自身が受け容れてしまっているということ。
それらの矛盾を抱えているからこそ、僕はこの女性にこんなにも心惹かれるのだろうか。
この人が本当の意味で幸せになれる日は来るのだろうか。
「今もそれなりに楽しく過ごしていますよ。アンジュも健次郎さんも大好きですし、妹と弟みたいで。辰巳夫妻も本当によくしてくれています。……どうか、これからもよろしくお願いしますね」
椿様はそういって僕に頭を下げた。
この屋敷において本当の意味で椿様の味方はいない。
辰巳夫妻は祖父の部下。
アンジュは兄上の部下。
椿荘という名の牢獄に囚われた椿姫。
僕は……?
僕は椿様の何なのだろう?
何になりたいのだろう?
――何になれるのだろう?
「僕、頑張って早く大人になりますから。早く一人前になりますから!」
……椿様に相応しい男になりたい。そう思った。
いきなりの僕の決意表明に彼女は無言で大きく頷くと、いつもよりも慈愛溢れた、それでいて嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
二人の間にあった微妙な距離は消え、いつもの緩やかな時間が過ぎていく。
僕は自分の部屋から本を持ち込んで読み始めた。
先日買った念願の一冊。夏目漱石先生の「こころ」。
現在三章に入り、男女三人のさや当てが始まったところだ。
椿様は淹れなおした紅茶を僕の目の前に置き、読んでいる本の表紙に目をやった。
「あら、『こころ』ですね。私も読みました。とても面白かったですよ。……友人Kが自殺するのが少し後味悪いですけれど――」
慌てて本から顔を上げると、そこには無邪気に微笑む椿様。だけどその目にどことなくいつもと違うイタズラ心が混じっているのを僕は見逃さなかった。
あまりの衝撃に何も言えず、出来たのは息を押し殺してそっと本を閉じることだけだった。
不意に視線を感じて部屋の入口を見れば、そこには満面の笑みのアンジュ。
彼女は愕然とした表情をしているであろう僕を見つめながら大きく頷き、握り拳をこちらに見せた。
あぁ、きっと来週には、書生が楽しみにしていた本の内容を、嬉々としてネタバレをする極悪非道の椿姫が噂されるのだろう。容易に想像できた。
窓から庭を眺めれば寒々とした光景。
それもそのはず、もう師走だ。
僕はそれらを虚ろな目に映しながら、心の中で「頑張れアンジュ、僕の仇をとってくれ」と、そう願ってしまった。
もう少しだけ続きます。