第10話 西暦1914(大正三)年 十一月 其の三
みんなで紅茶を飲み一息ついたところで、椿様は真顔に戻った。
「――さて、それではもう半分の話でしたね」
そう言えばそうだった。
造船所と船大工の処遇と新型貨物船の設計図の件でもうお腹いっぱいだけれど。
「残りのカラクリを解く鍵はこれです」
テーブルの上を転がってきたのは、お金?
――寛永通宝だ。
主に江戸時代に使われていた貨幣で、今ではほとんど見かけなくなった。
これとねずみ小僧の何処に関係があるのだろうか。
「正確にはこの貨幣素材ですね。……これは銅で出来ています。そしてこの銅こそがこの事件に大きな影響を与えたのです」
不思議そうな顔をしている僕に対して笑顔で説明してくれる椿様。
きっと満足いく反応だったのだろう。
僕は黙って頷くに留めた。
「これから機械化されていく世の中で、銅の需要が増して来ました。電気伝導率の高さから電線や機械部品になくてはならない存在となり、また真鍮などの合金素材としての利用価値もあります。そのこともあって、ここ十年でこの銅の相場が三倍にも跳ね上がっているのです。欧州大戦が始まってからは特にその傾向が顕著になっています」
……うん。
それは理解できたけれど、だからといって銅の価格と造船会社との関連性がイマイチ分からないのだ。確かに造船には銅を使用するかもしれないけれど、そこに大正ねずみ小僧の入り込む余地があるとは思えない。
そんな僕の困惑に構わず椿様は続ける。
「我が国でも近年銅鉱山の開発競争が激しくなっています。一度廃坑になりかけた足尾銅山でも盛んに採掘が行われています。そして活気づいたその業界の中でも最も勢いがあるのが、茨城県の日立村にある『日立銅山』です。そちらを拠点にした企業が良質の銅を大量に採掘し、莫大な利益を上げています」
この前彼女が一度だけ口にした日立が出てきた。
ここでようやく繋がるのだ!
僕の表情の中に納得の気配を感じたのか、大きく頷く椿様。
「……えぇ、諏訪村は現在鮎川村と名前を変えており、日立村からやや南に位置するとはいえ同じ旧多賀郡。もしやと思い、一応調査してもらうことにしました。――そして、やはりありました。……良質の含銅硫化鉄鉱が!」
それは凄い、としか言えなかった。
新型貨物船といい、銅鉱山といい、あの横浜の造船所はこの急激に変化する時代の渦の真ん中にあったのだ!
「現在このあたりでは調査や小規模採掘はされておりますが、本格的な採掘事業はまだ行われておりません。私たちは何としてでもここを先んじて手に入れておきたい。ですので、造船所への融資の引き換えを条件に快く譲って頂きました。もちろん奥様の御親族の方々を住み慣れた土地から追い出してしまう訳ですので、横浜の造船所の近くにそれ相応の住居を用意致しました。――これから造船所が忙しくなるので是非そちらのお手伝いをしてくださいと、そのような事を名分に。実際田舎で先祖代々の田畑を耕すよりも造船所で働く方が遥かに稼ぎもいいでしょうし、ね?」
椿様は含み笑いを堪えるように顔を伏せる。
よっぽど楽しいのだろう。
だけど、どこかか道を外れたようなことをしているように感じているのは僕だけなのだろうか?
チラリと横目でアンジュの表情を窺うけれど、特に何かを感じているようには見えなかった。
「ついでに近隣に住まわれている親族以外の方々にも、それ相応の住居や職を用意して移って頂く手続きを完了しております。山の権利を保有する事業者にも同様に譲っていただく交渉を致しました。出来るだけ速やかにあの一帯を押さえる為だけに、銀行はこの一月を費やしました。――合法的に、適正価格で。……他の銀行や企業に一切手出しさせることなく!」
どうやら銀行というモノは儲け話を誰にも渡さず、独り占めにしたがる性分らしい。
こうやって自分たちだけで利益を貪り、さらに巨大になって行くのだろう。
知識有るものが知識無きものから根こそぎ奪っていく。
富める者がより富を得、結果的に貧しきものがより貧しい生活を強いられる。
これが今、この国を動かしている人たちの望んでいる形なのだろう。
少し遣る瀬無い。
これからの時代、それも仕方ないことなのだろうか?
それを問うべき相手はこの屋敷にはいなかった。
「……ただの窃盗事件だと思っていたのですけれど、ふたを開けてみれば世界中を巻き込んだ、えらく大きい話でしたね」
僕は少し冷めた紅茶を一口含んで呟く。
椿様も同じように一口飲み答える。
「そうですね。……この一連の事件は、とても頭のいい方が考えられたのだと思いますよ。かなりの準備期間も必要だったでしょう。おそらく先方さんは、造船所を倒産させて職を失った船大工たちを確保し、設計図諸共は将来有望な造船所へ売却する。ついでに担保として取っていた茨城の山も合法的に手に入れる、と。……そういう筋書きを考えていたのでしょうね」
「――では、この事件の黒幕は……!?」
これでは犯人は融資元の銀行だと言っているようなものだ。
僕は驚きのあまり思わず立ち上がる。
だが椿様は僕を見上げながら小首を傾げる。
「……黒幕とまでは断言できませんが、関わっているのは間違いありません」
彼女はそれをあっさりと肯定する。
「おそらく大正ねずみ小僧の起こした先の二件の方は狂言だと見るべきでしょうね。会社からは一銭も盗まれておらず、貧民に撒かれたお金は全て銀行の金庫から出された、と。被害者役の会社には口止め料代わりの融資を行ったのか、若しくは単純に脅迫したのか。……流石にそこまでは知りようがありません。――どちらにしろ、それだけのお金を撒いてもその数千倍、数万倍の還りがあると判断したのでしょうね」
幸四郎氏も僕たち庶民が何千人集まろうが稼ぎきれないお金が手に入ると言っていた。
それだけの額を稼げるのであれば、ねずみ小僧の撒いた金などはした金だろう。
「……そして満を持して本命である三件目の犯行が行われました。新聞や警察も含めて、これらは連続した事件なのだと、誰もがそう思ったはずです。ですから捜査が難航するのです。実際に盗みに入ったのはこの一件のみ。だから目撃証言が出てきてしまった。そう考えると筋が通ります。……それでも捕まらずに済んだのは、きっと内通者がいたからでしょう。従業員ならば合鍵も手に入れることができたでしょうし、金庫の場所や設計図の保管場所も知っていたでしょう。……あくまでこれは私の推測に過ぎませんが」
納得できる話だった。
推測込みとはいえ、僕から聞いた話だけでここまでの推理をした椿様はどんな頭脳をしているのだろう?
「まぁ、結局は私たちが横から全て攫って行った訳ですけれどね。……それにしても本当に素晴らしい筋書きだと思います。ここまで大がかりだと相当な手間が掛かったでしょうに……」
何やら椿様はこの筋書きを考えた人間に共感しているらしい。
僕がねずみ小僧に感じていたそれとは全く意味合いが違うのだろうけれど。
アンジュが椿様たちならやりかねないと言った意味が理解できた。
「――このことを警察に報告しなくていいのですか?」
僕はずっと胸の中にあった疑問をぶつけてみた。
先程から銀行の対応のことは聞かされていたけれど、警察への報告は情報提供の話は一切出てこなかった。
椿様はきょとんとした顔で僕の顔を見つめていたが、やがて噴き出すように笑い始める。
何がおかしいのか、本当に楽しそうに笑い続ける。
やがて彼女は深呼吸すると目に溜まった涙を拭き、僕に対して言い含めるよう語りかけた。
「健次郎さん? これらのことを正直に警察に説明してしまえば、私たちの努力が全てが水の泡になってしまうのですよ? ……私たちがやったことは、倒産寸前の造船所を救った、新型の貨物船の開発にも手を貸した、これから忙しくなるのでご家族や親族の皆様、近隣の方々を近くに呼び寄せ、戦力になって頂くよう手配をした、ただそれだけです。それだけでいいのです。――そして彼らは、そんな私たちに感謝し忠誠を誓う。……そうではないと意味がないのです」
ですから内密に、と椿様は人差し指を口元に当てて片目を瞑る。
いつも以上に可愛らしい仕草だったけれど、僕は今までのように素直にそう思えなかった。
この人は決して優しく穏やかなだけの女性ではない。
今日、僕はその事を思い知った。